第6話 記憶の塔

「時の流れは儚いものです」



 プラータと呼ばれる土地があった。


 荒涼とした土地で、見渡す限り荒野が続いている。またプラータはこの国でもっとも北寄りの土地で、秋の初め頃にもなれば初雪が降り始める。冬は厳しく長い。春が過ぎ夏になるまでうず高く積もった雪に閉ざされ陸の孤島となる。夏でさえ朝は肌寒く、雨天の日になると凍てつくような冷たい雨が降る。

 この辺りは気候が激しく作物も育ちにくかった。

 そして、偏狭(へんきょう)の地であるために交易の場として栄えることもなかった。

 人知れず忘れ去られた土地、そこに住む者たちは自分たちのことを皮肉を込めて「忘れ人」と呼んでいた。

 何の取り柄もない土地だから観光目的でここを訪れる者たちは皆無。物好きな冒険者でさえなかなか訪れようとしない。

 しかし、春から夏にかけた短い期間、魔の森の霧が晴れるこの時期にここを訪れようとするごくわずかな者たちがいる。彼らは冒険者であったり、農夫であったり、商人であったりした。

 彼らはこの何もない土地に、希望の光を瞳に宿らせ、息も荒くやってくるのだ。

 彼らの目的はただ一つ。それはよく有りがちなサンレームに隠された金銀の財宝でもなければ、不老不死の薬でもない。


 この土地には伝説の「記憶の塔」があるのだ。


 記憶の塔とはその名の通り、訪れた者の記憶をたどることができ、過去そのものに行くことさえできるといわれている塔だ。

 伝説は語る。かつて偉大な帝国を築いたとされる王はこの塔に登り過去の自分に会いさまざまな助言を与えて王になったのだと。また別の伝説では塔で過去の帝国に行き、その隠し財産の在りかを捜し出した、など。


 いったいいつからその塔があるのか、いかなる書物をひもといたとしてもその答えは見つかることはない。この世界の開闢以来だという者もあれば、それ以前から存在しているのだと言う者もいる。だが詳細を知る者はいなかった。

 記憶の塔はサンフレームの魔の森と呼ばれる濃い霧に阻まれた森の中にあることだけは分かっていた。

 記憶の塔は神出鬼没、殺伐とした魔の森の中に忽然と現れ、希望を胸に抱いた人間を次々と飲み込んでいく。そして、霧のように消えていくのだ。

 記憶の塔は無骨な形をした薄気味の悪い塔だと語られている。塔の大きさはそれほど大きくはなく。それなのに中は果てしなく広い。塔に一度入った者は最上部に到達するまで二度と出られないと言われている。

 詳細は不明であった。何故ならば塔を捜しに行って返ってきた者たちが皆無だからだ。最上部にいったい何があるのか、たどり着いた後に何が起こるのかを知る者はいない。

 普通に荒野をさ迷ったとしてもその塔に出会える者はまれであり、また捜し回っても、決して見つかることはなかった。塔に出会い中に入ることができたとしても最上部に到達できる者も少ない。塔内に巣くう魔物が侵入者の血肉を求めるからだ。

 苛酷な試練、そのすべてを乗り越えてこそ、塔の最上部に登り詰めることが許されるのだ。

 塔に登るということは、生きる以上に残酷ともいえる。それでも人間たちは伝説の塔に登る。

 その定めを背負って、伝説の塔は立っていた。

 魔獣たちの咆哮が塔内の空気を揺るがした。腐臭の漂う中を、剣を持った一人の男が野獣の如く駆け抜けていく。彼が腕を振う度に、その手に握られた大振りの剣が血を吸い、魔獣たちの屍が累々と床にひれ伏す。

 どうと轟音を立ててついに最後の魔獣が倒れた。

 じめじめとした陰湿な空気を押し退けて男は肩で息をしながら固く閉じられた岩の戸に手をかけた。

 軽く触れただけで、重く閉じられていた扉が開く。

 扉の周りには、今まで挑戦し、力尽きた者たち、その血肉を求めた魔獣たちの屍が累々と横たわっていた。中には最近死んだ者の死体まであった。白骨化した挑戦者たちの間を頓着なく踏み越え、または骨を踏み砕きながら男は中に進む。

 その目には何の躊躇もなかった。

 扉の向こうには長い回廊、赤とも黒ともつかない床石が敷き詰められ、源の分からない光に満ちていた。

 回廊を抜けると、銀の扉があった。扉の縁には技巧の凝らされた文字とも模様ともつかない装飾がなされ、不浄を除去する雰囲気を醸し出している。

 それが時の扉。永劫の刻を封じ込めたと言われる扉だった。

 塔に巡り会えたのを幸運というなら、最上部にまで到達できたことはまさに僥倖(ぎょうこう)。幾重にも立ちはだかる困難を乗り越えて、男はやっと塔の頂点にたどり着いたのだ。

 男が近づくと、銀の扉はその見た目からは想像もできない滑らかな勢いでゆっくりと開いていく。扉が開ききるのを待ちきれず、男は背負っていた荷物を投げ捨て、開いた隙間に身を滑り込ませ中へと侵入した。

 中に入るとそこは白い石で全体を覆った球状の部屋であった。

 拍子抜けしたように男は部屋の中を進む。

 部屋の中には中央にある台座を除いて外には何もなかった。精緻な技巧も何もなその台座の上には銀の光を放つ宝玉があった。

 宝玉の光が部屋全体をやさしく包んでいる。

 男は初め躊躇していたが、やがて意を決したようにその宝玉に触れた。


『汝は冒険者か』


 ぴりりとした気配を手に感じて、男の脳裏に声が響く。それは言葉ではなくイメージとなって男の中に広がっていった。


「……そうだ」


『あらゆる危険を乗り越えてこの塔へとやって来た冒険者よ』


 手を放しても声だけはやまない。

 男は奇妙さを感じながらその声に耳を傾ける。


『我が名は時の監視者ウォーレン。よくぞ困難を乗り越えてここまで来た』


 部屋全体がぼうっと輝く。男が一瞬目を閉じる。目を開くと同時、男の前に白髪の老人が現れた。

 深い青色のローブに身を包んだ老人。彼がこの塔の監視者であり、彼こそが記憶の塔そのものだと噂で聞いたことがある。

 だが、男の聞いていた話と一点だけ異なっていることがあった。ウォーレンのかたわらには一人の少女がいたのだ。

 白い髪の少女だった。紅の瞳が男を見ている。

 とても悲しそうな瞳だった。

 男は心中のモヤモヤを振り払うように頭を激しく振る。


「俺はハイラム。二五〇年……ずっと探し続けたんだ。あんたに……あんたに会うために!」


 ハイラムは興奮に震える指先でウォーレンを指さす。

 倒れ込みそうな程の疲労だったが、男は歯を食いしばって剣を支えにして立ち続ける。それだけでも目眩がし、意識が朦朧とする。額から流れ落ちる血を荒々しく拭い去り、ぎりっと睨つけるようにウォーレンを見据える。

 その瞳が、獣のような輝きを秘める。


『ハイラム、あなたは獣人なのですね』


「ああ、そうだ」


 ウォーレンの声に、ハイラムは頷いた。

 自己の意思によって獣人は文字通り獣になることができる。それに伴っての運動能力の飛躍的な向上は群を抜き、この大陸一の戦闘民族と言われていた。

 獣人の寿命は普通の人間の五倍以上。だが、その寿命に反比例するかのように繁殖能力が低く、また人口も少ない。


「……だから生きてこれた。ずっとお前に会うためだけに、二五〇年かけて探し回ったんだ!」


 男は目をつぶり今までため込んできた苦労を一気に吐き出すように大きく息を吐いた。

 途端に全身を脱力感が襲う。いかに常人の人間よりもずば抜けた体力を持っているとはいえ、塔を登り詰めるために彼は獣人としての限界をはるかに凌駕する。ハイラムの精神、体力は既に限界であった。


「くっ……」


 ついにハイラムは膝をつきその場に崩れ落ちる。血糊のついた手のひらを荒々しく床につき、弱々しく息を吐いた。


『あなたには休息が必要です』


 男の肩にウォーレンが手をかざす。

 ウォーレンの手のひらが輝き、ハイラムの傷が癒えていく。それだけではなく、徐々にではあるが体力が回復していった。


「ありがとう……おかげで助かった」


 ハイラムの言葉にウォーレンはただ黙って首を振った。


『あなたは何のためにこの塔に登ったのですか?』


 静かだが、おごそかな口調。

 ハイラムは首にかけている木製の飾りのついたペンダントを掲げる。


「もちろん悲劇をなくすためだ」


 悲しい目でハイラムは腰に提げた布袋の口を開け、中の液体を喉に流し込む。喉の焼けるような感覚とつんとした臭いが鼻腔を刺激した。酒だ。


『悲劇は教訓となり後世へと伝えられるものです』


「うるさい! そんなこと俺には関係ない!」


 頭を抱え込み、ハイラムは唸った。


『あなたの心は悲しみに満ちています』


「俺はそれを打ち消すためにここに来た。ここは記憶の塔だろ?」


 ハイラムのウォーレンは頷いて答えた。


「だったら俺を過去に連れていってくれ。できないとは言わせねぇ」


 鋭い目付きでウォーレンを睨つける。

 しばしの沈黙。


『いたしましょう』


 ハイラムの視線に怖じけづいた様子もなく、超然とした態度でウォーレンは背後の水晶球へと向かう。

 石造りの小さな台その上にのる七色の光を放つこぶし大の水晶球。


『最後に一つだけ言っておきます。一つの悲劇が消えたとしても、またもう一つの悲劇が待ち構えているのですよ』


 ウォーレンの言葉にハイラムは口の端を上げて笑った。


「そんなの関係ないね。それに俺はここに来ることだけを目標にして人生の大半を賭けてきた。今更引き下がれるかよ」


 獣人にとっても二五〇年という年月は決して短くはない。


「さあ、ウォーレン俺をあの日に戻してくれ」


『あの日とは?』


 ウォーレンの言葉にハイラムは悲しそうな瞳を向ける。


「俺の妹が殺された日だ」


 ハイラムの妹は何者かによって殺された。それが誰の仕業によるものなのか、ハイラムには殺人鬼を見た記憶はまったくない。生き残ったのはハイラムただ一人だけだった。家族は両親と妹の四人。父と母は一階の寝室で同じく殺されていた。


「俺は妹を……家族を救いたい」


 力を込めて声を張り上げるハイラムをウォーレンは哀憐の瞳で見つめる。


『真実とは時として知らない方が幸せだということがあります』


「家族を救うためなら、俺はどんなことにも堪えてみせる。どんなことでもできる」


 不敵な笑みを浮かべ、ハイラムは立ち上がった。


『その勇気が、時として新たな不幸を生み出すこともあるのですよ』


 ウォーレンは手にした杖を高々と差し上げた。


『森羅万象を司る刻の扉よ』


 ウォーレンの朗々たる詠唱が純白の室内に響き渡る。それに呼応するかのように部屋の壁や床、天井に奇妙な紋章が浮かび上がった。


『いにしえの契約に基づき開錠の時は来た』


 幻影の如く光を放つ霧が部屋を満たす。わずかな回転を見せながら、それは竜巻となってハイラムを包み込んでいく。

 足下からちりちりとした蟻走感が襲ってくる。


『塔にたどり着き勇敢なる者を今、刻の流れに放たん』


 光が渦巻く。

 そして。

 静寂が訪れた。

 静寂の中に、少女がいた。


「あなたはこの先の過去で死ぬことになります」


 白い髪の少女の言葉がハイラムの脳裏に響いた。


「それがどうしたっていうんだ。死よりも苦しい事だってこの世の中にはあるんだぜ」


「あなたは自分の人生を生きることもできた」


「だからこうして俺はここにいる。俺の人生はこの日のためにあったんだ!」


 少女は悲しそうな顔のまま、ハイラムの体を抱きしめた。


「あなたの……願いはなんですか?」


「妹が生きた世界……おらが望むのはそれだけだ」


 少女は小さく頷いた。


「分かりました。あなたの願い……叶えましょう」


 静寂がかき消える。

 轟音が再び耳を打つ。

 ハイラムは自分を抱き込むように両腕で肩を抱いた。体が引き裂かれるような苦痛。精神と肉体がばらばらになりそうだった。


『ハイラムよ行きなさい。そして自分の目で確かめなさい。真実の落とした影を』


 ウォーレンの声が遠くなっていく。代わりに轟とした滝の流れのような音が鼓膜を刺激している。目を開けることはできなかった。したくとも瞼が開いてはくれないのだ。


「待っていろ……キシリア!」


 ◆ ◆ ◆ ◆


 呟いた途端、すべての感覚が鮮明になる。

 ズレていたように感じていた精神と肉体の位置が定位置に収まり、はっきりとした時の流れが体内に宿る。

 一段と強い光が体を包み込んだ。瞼を閉じていてもそれが分かる。光が晴れて目を開ける。しばらくぼやけていた視界が効くようになるとハイラムは思わず喫驚の声を上げる。

 それは自分の生まれ故郷だった。

 大通りを中心にして広がる街並み。石造りの家々はどれも自分の記憶にあるものばかりだ。


「本当に……来ることができた」


 感慨に耽りながら大通りを歩いていたハイラムは、目の前に知った顔を見つけ思わず足を止める。慌てる勢いで近くの石細工の店に身を隠し、見つからぬように顔だけを出す。


「おじさん世話になったね」


 若々しい声。


「本当に行くのかい。そんなものありはしないというのに……いいか、どんなことをしたって死者は蘇らないんだ。いや、蘇らせてはいけない」


 老人の引き止めようとする声はしかし、青年の耳には届いていないようだった。


「そんなことはない。キシリアはまだまだ生きなきゃいけなかったんだ!」


(これは……)


 それは過去の自分。妹を生き返らせるための方法を探して旅に出ようと決意した日だ。その時は記憶の塔のことなどまったく知らなかった。


(広い世界のどこかに、きっと死者を蘇らせることのできる方法があるに違いない)


 希望を胸に秘め、旅立った日のことは今でもはっきりと覚えている。あの頃は若かったと思う。誰もが夢見ることでありながら決して実現されることのない夢。

 彼はこのあと一〇〇年かけて世界各地を探し歩いたが、死者を蘇らせる方法はついに見つからなかった。


「そして、俺は記憶の塔のことを知った」


 今から過去の自分に会って、記憶の塔のことを教えてやろうか。そう思ったがやめた。

 過去に旅立つ際ウォーレンから三つのことを言われていたのを思い出したからだ。


・自分の目的とする過去以外には干渉してはならない

・同じ過去に二度と戻ることはできない

・一度変えた過去は元に戻すことはできない


 それは決して犯すことのできない禁忌としてウォーレンから特に注意されていることであった。


「まっ、どうでもいいか」


 ハイラムは踵を返す。今彼が求めているのはこの時代ではない。


(俺が行きたいのは……妹が殺された日だ)


 念じて瞳を閉じると同時に暖かな感覚が全身を包み込む。それが再び時を越えるための準備なのだということをハイラムは本能的に知った。時間を超える度に感性が鋭くなっていくのが分かる。第六感的な感覚が鋭さを増していくのだ。


(俺は妹を救いたい。殺した奴を見つけ出して……殺してやる!)


 それは二五〇年間思い続けていたことだった。今でもその気持ちは変わらない。


「さあ、ウォーレン! 俺の行きたい時代に連れていってくれ」


 ハイラムは目を閉じたままあらん限りの声で叫ぶ。

 濃密な濃度の風が全身を揺さぶる。その流れの中に翻弄されながらも、ハイラムは意識を失わず、びりびりと伝わってくる時間の重みに耐えていた。

 過ぎ去りし過去。それは過去の事象そのすべてを記録した金庫のようなものであるとウォーレンは言っていた。


『時間とは一定の流れと方向をもった大河のようなもの。私は確かにその中を行き来できる能力を持っています。しかし流れそのものを変えることはできません』


 記憶の塔は過ぎ去りし過去そのものを記録し蓄える場所なのだとウォーレンは言った。

 ハイラムにはよく分からなかったが、記憶の塔が時間そのものの流れを変える能力がないことだけは何となく分かった。だからこそ行くのだ。自分の力で過去の悲劇を抹消するために。


「待っていろ、キシリア」


 今は亡き妹の名を呟き、胸元に提げた木製のペンダントを握りしめる。握りしめた途端。閉じているはずの目に光が見えた。盲目になるのではないかと思うほどの強い光が一瞬で網膜を焼き尽くす。上がりかけた悲鳴を飲み込んで、ハイラムがゆっくりと目を開けると、そこには懐かしい風景が広がっていた。


(俺の……家だ)


 記憶に残るまさにその家がハイラムの目の前にあった。幼い頃に遊んだ木、小さい頃はあれほど大きいと思っていた木が、今の彼にとっては普通サイズの木にしか見えない。その気になればへし折ることもたやすいその木に幼い頃の自分はぶら下がり、ぶつかり、登る途中で滑って落ちていたのだと思うと苦笑いしたい気分になった。


「何もかもあの時のままだ……」


 ハイラムは空を見上げる。時間は夜だったが、星と、その光すら隠してしまうほどに輝く満月が夜を別の世界へと変えていた。


(あの時もこんな満月だった)


「満月?」


 ハイラムは首を傾げる。妹が殺されたのは確かに満月の夜だった。ウォーレンによって運ばれたのだから今日がその日だということは分かる。だが、どうして自分がそのことを覚えているのかハイラムには分からなかった。


(俺は眠っていたはずだ、みんなが襲われていたときに)


 朝目覚めてみると自分以外の全員が殺されていた。部屋中が血で赤く染められた中、ハイラムは一人目覚めたのだ。そのことを思い出すと今でも背筋が寒い。

 何かが、記憶のどこかが違っていた。

 何ともいえない違和感を感じながら、ハイラムは気配を殺して自分の家へと向かっていく。


「ぎやっ!」


 庭の中頃まで着いたとき、ハイラムは男の悲鳴を聞いた。父の声だと直観する前にハイラムは全速力で駆け出す。


「おやじ!」


 窓を蹴破り中に侵入する。ガラスの砕ける鋭い音、びりびりとカーテンが引き裂かれ月明かりが部屋を満たす。喉を掻き切られ惨殺されている父の死体が冷たい光の中にひっそりと横たわっていた。


「くそっ!」


 短く吐き捨て、その横に倒れる母親を見る。一目で死んでいると分かった。

 その時二階から物音がした。同時に少女の悲鳴が上がる。

 いるのだ。家族を惨殺した殺人犯が、この家に!


「キシリア!」


 ハイラムは二階へと駆け上がっていく。もう一刻の猶予もなかった。

 暗い予感が全身を満たす。耐え難い恐怖を無理やり追い払い、二階へと駆け登りキシリアの部屋のドアを蹴り壊す。

 部屋の中に入りハイラムは思わず息をのんだ。

 そこには一匹の獣がいた。

 全身を血で紅に染め上げ、理性のかけらもない瞳で新たな侵入者を睨つける。はっきりとした殺気を感じ取りハイラムは戦慄を覚えた。


(……そんな馬鹿な)


 ハイラムの目の前で幼いキシリアが震えている。震えてはいるが、その栗色の瞳はしっかりと獣を見据えていた。

 ハイラムはその獣に見覚えがあった。いや直接には見たことはない。だが、直感的にその獣が何者であるのかをハイラムは知ってしまった。岩で頭を殴りつけられたような衝撃がハイラムを襲う。

 それは獣人になった自分自身。


(……お、俺が殺したっていうのか!)


 ハイラムの目の前で獣が、獣となった幼い自分が牙を剥く。


「ひいっ!」


 キシリアは目に見えて顔を引きつらせて壁に寄る。突然現れたハイラムにも彼女は気づいていない様子であった。

 獣が前足を踏み出す。飛びかかる前の準備動作だということを知り、ハイラムは自然と腰に提げた剣に手を添えた。


(どうする?)


 自問しても答えはない。獣はハイラムに警戒しながらもじりじりとキシリアに迫っていた。その瞳は獲物を狙う鋭さを帯びている。 獣はキシリア目がけて飛びかかっていった。


「きゃっ!」


「キシリア!」


 気づけば体が勝手に動いていた。何の|躊躇(ちゅうちょ)もなくハイラムの剣は獣の胴を貫く。血糊を撒き散らしながら獣はどうと倒れ、しばらく|痙攣(けいれん)していたがやがて動かなくなった。


「お、お兄ちゃん…」


 獣の息がなくなると同時、キシリアは狂ったように血だらけの獣にしがみついた。

 獣化が解かれ獣は元の、幼いハイラムの姿へ戻る。

 何度も兄の名を叫びながら、キシリアは狂ったように泣いていた。

 ハイラムは血糊のついた剣を提げたままぴくりとも動くことができない。


(俺は……俺は……)


 同じ思考が何度も頭の中を駆け巡る。幼い自分が家族を皆殺しにしていたのだという衝撃と、ハイラムは自分で自分を殺してしまったという恐怖が彼を金縛りにしていた。

 がくがくと震えながらハイラムはその場に膝をついた。


「人殺し!」


 キシリアの悲鳴がハイラムの耳を貫く。

 彼女は鋭い眼光でハイラムを睨つけていた。キシリアの眼光は獣そのものの光、獣化は個人によって獣化可能な時期が微妙に異なる。ハイラムの知る限り、幼いハイラムにとってこれが最初の獣化であった。獣化の初期の段階では自我を失うことが多い。それによって引き起こされる悲劇もまた少なくはなかった。だが、それが自分の身に起こるなどハイラムは考えてもいなかった。


「あんたは私のお兄ちゃんを殺した……!」


 呻くようなキシリアの声、ハイラムは何も応えずにまっすぐな目でキシリアを見る。

 ゆっくりとした口調で。


「俺が助けなければ……君は死んでいた」


 ハイラムの言葉にキシリアは涙を散らして激しく首を振った。


「そんなことない! お兄ちゃんは私を殺したりなんかしない!」


(だが、殺したんだ!)


 そう叫びたいのをぐっとこらえる。


「いいから俺の言うことを聞くんだ」


「いやっ、こっちに来ないで……ねぇ、お兄ちゃん、目を開けてよ! 怖い人が来るよ!」


 既にもの言わぬ屍にすがりつくキシリアの姿は昔の自分に重なって見えた。


「俺はハイラムだ……君の兄なんだ。キシリア」


「こっちに来ないで!」


 ハイラムの言葉にキシリアは悲鳴を上げて否定するばかり。一歩踏み出したハイラムから遠ざかるように、キシリアは幼いハイラムの死体を抱えたままずるずると後退していく。

 血だらけの兄の体を抱きしめるキシリア。冷たくなっていく肉親を、兄弟を抱く心の痛みはハイラムにも十分理解できた。


「話を聞いてくれ」


「嫌よ!」


 ハイラムは頭を抱え込みたい気持ちになりながらも必死になって説得を試みるが、どちらも興奮しているせいかまったく話し合いにならなかった。


「くそっ!」


 じわりじわりと焦りが胸にたまる。ハイラムは自分を認めて欲しかった。自分の兄がこうして過去まで来て自分を助けてくれたという事実をしっかりと分かって欲しかった。

 リンとした鈴の音が脳裏に響く。これが元の時代へと戻る合図なのだとウォーレンに知らされていた。


「なんてことだ……」


 ハイラムの姿が薄れていく。キシリアは目を見開いたままハイラムを凝視していた。

 ハイラムはキシリアを見つめる。今にも射殺すのではないかと思われるほどの鋭い眼光でキシリアはハイラムを睨つけていた。

 その視線に心の痛みを感じながら、ハイラムは切実に時間がほしいと思った。


「お別れだキシリア」


 ハイラムの姿が薄れ、そして消えていく。キシリアは兄の屍を抱いたまま殺意のこもった瞳でそれを見送っていた。


「お兄ちゃんを殺した……許さない」


 嗚咽と共に絞り出された声。


「あの男……殺してやる。殺してやる!」


 満月の光に照らさた草原にキシリアの呪詛(じゅそ)が響き渡った。


 元の世界に戻ると険しい表情のウォーレンが出迎えてくれた。


『あなたは大変なことをしてしまいましたね』


 ウォーレンの第一声をハイラムは首を傾げて聞く。

 自分では後悔していないつもりだった。家族は殺されてしまったとはいえ、妹を救うことができたのだから。


「俺は別に後悔なんてしていないぜ。俺は悲劇をなくすことができたんだ」


『たとえ自分がこの世から消えてしまってもですか』


「え?」


 思いもかけないウォーレンの言葉にハイラムは目を瞬く。


『あなたは過去の自分を殺してしまった……それがどういうことなのか、よく考えてください』


 ハイラムははっと目を見開いた。


「それじゃあ……俺は……」


 その時であった。ハイラムの背後にあった扉が勢いよく開かれたのは。


「やっと、見つけた!」


 殺気が近づいてくるのが分かる。振り返るよりも早く、焼けるような鋭い痛みが胸を焦がした。


「兄さんの敵!」


 胸から突き出した剣先が抜かれ、ハイラムは音を立ててどうと倒れた。木製のペンダントが千切れ飛び乾いた音を立てて床に落ちる。

 真っ赤な血が純白の床一面に拡がっていく。


「な、何が……」


 何が起こったのか把握できない。緩慢(かんまん)な動作で首を巡らせると血糊のついた剣を下げた女性が目についた。その胸には見覚えのある木製のペンダント。ハイラムが二五〇年もの間ずっと肌身離さず持っていた妹の形見。

 ハイラムは床に落ちたペンダントを握りしめる。

 血に濡れたそれは持ち上げることができないほどに重い。


(なぜ彼女がキシリアのペンダントを)


 ハイラムははっとなって、剣を持つ女を見つめる。その顔には昔の面影があった。ハイラムが決して忘れることのない妹の面影。


「キシリア!」


 それはまさしくキシリアであった。


「この声……間違いない、二五〇年前に私の兄を殺した男……塔の力で過去に戻ってあなたを殺そうと思っていたのに……手間が省けたわ」


 残酷な笑み。


(違うんだキシリア!)


 叫びたくとも声が出なかった。視界がぼやけてくる。いやそれでけではない。見ると自分の手が透けていく。手だけではない、おそらく体中が透け始めている。


(俺の存在がなくなろうとしているのか!)


 死よりも深い恐怖がハイラムの胸を締めつける。


(キシリア、俺は……)


 必死になって訴えようとするが喉は乾いた息をするばかり、ひゅーひゅーと鳴るだけだった。


「あなたがウォーレンね。噂の通りだわ」


 剣を投げ捨て、キシリアはウォーレンの前に立ちふさがった。


「さぁ、私は塔の最上部にたどり着いたわ。ウォーレン、私を過去に連れていってちょうだい。私の兄や両親が殺されたあの日へ」


 血溜りに顔を埋めたままハイラムは二人の会話を耳にする。もう動くことはできない。目は光を失っていたが、耳だけはしっかりと二人の会話を聞き取っていた。


(そんなことはできないんだキシリア)


 同じ過去へと行くことはできない、ウォーレンはそう言っていた。


『それはできません』


 ウォーレンはきっぱりと拒絶する。


「なぜ?」


 キシリアの殺気がぐっと強まる。


「私はこの塔に登ることだけを考えて今まで生きてきた。この塔に登り過去を変えるために……私は今まで生きてきたのよ!」


 キシリアの悲痛な叫びが薄れかけていたハイラムの心を締め上げていく。


『同じ過去へと赴くことは自然の摂理を覆すことになります』


「なぜ同じ過去なの。他に誰か同じ時代に……まさか、この男。この男が塔の力で私の兄や両親を殺しに来たというの?」


 キシリアにウォーレンは頷いて答える。


「なぜ、なぜなの……なぜこの男が」


 キシリアは血溜りの中に倒れ込むハイラムを憎々しげに睨つけた。彼の姿は既に半分以上透けている。


「……この男は私の兄を殺したのよ!」


 憎悪のこもった呻き。


(違う……違う、違う、違う! 俺はお前を救いたかっただけだ)


『あなたはこの男を殺す必要はなかったのです』


 ウォーレンは哀憐のこもった声で、ゆっくりとキシリアに語る。

「それってどういうことなのよ」


(キシリア……)


 ハイラムの手から木製のペンダントが落ちた。


『何故ならばこの男は……』


 命の炎の消え失せたハイラムの体が光の粒子となって消えていく。それは単なる消滅ではなく存在そのものを否定する。

 滅却。


『あなたの兄なのです』


 すべてが消え去った部屋に、血に濡れたペンダントと、茫然とたたずむキシリアけが残った。

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