Ⅴ:その道を往く先に

40.イスパハルへの帰還


 イスパハルへの道を往く馬車の中にユタカとサザはいた。

 サヤカに提供された二台の馬車に、アスカとカズラとアンゼリカ、サザとユタカが分かれて乗り込んだ。サザはユタカのすぐ隣に座っている。アスカはユタカにサザと二人にしてはと配慮してくれたからだ。

 もう直ぐ日が暮れようとしている。前にカーモスから馬車で帰ろうとした時はしとしととどこまでも降り続いていた雨が、今日は悲しいくらいに美しい秋晴れだった。


 サザはカーモスに捕まった時のままの黒いズボンとシャツ、髪をラフに一つにまとめた仕事服の姿だった。着替える機会が無かったからだ。ユタカはカーモスの灰色の軍服姿だ。

 サザはユタカの顔が見られず、視線をずっと窓に向けていた。ユタカは何も言わなかった。車窓から通り過ぎる森の中は、赤い夕日に照らされた紅葉が宝石のようにきらきらと輝いている。森の美しさは隣り合うカーモスとイスパハルでは変わらない。その美しい景色とは裏腹にサザの心はぐちゃぐちゃだった。


 誰よりも会いたかった人が目の前にいるのに、サザはまだ今の状況を受け入れられていなかった。折角見えたと思った和平への解決策がウスヴァの死によって完全に立ち消えた。ウスヴァの身体から流れた血の温かい感触はまだはっきりと手に残っている。その美しい薄荷色の瞳の最後の輝きと、最後に聞いた言葉と血の匂いを思い出して、サザは思わず、膝の上に乗せた手をぎゅっと握った。


「……サザ」


 その時、握り締められたサザの手にそっとユタカの手のひらが被せられた。サザがはっとして顔を上げると、ユタカは真っ直ぐにこちらを見つめていた。優しい黒色の瞳。カーモスの軍服は所々煤けていた。


「ごめんなさい」


 その顔を見てサザは思わず口を開いた。大きな混乱の最中の心の中で、ユタカに絶対に言わないといけないことを思い出したからだ。


「私はユタカを傷つけようとしてしまった。大好きなのに、絶対にそんなことをしちゃ駄目だったのに」


「……良いんだ。おれはサザが生きていてくれたらそれでいい。それだけがおれの願いだ」


「ユタカは優しいね」


 サザが唇を噛んで言うと、ユタカは少しの沈黙の後、意を決した様に口を開いた。


「おれなんかよりずっと優しい人に会ったんだ。サザの、本当の母親だ」


「え……」


 サザが思わず絶句すると、ユタカは話を続けた。母親のナギに殺されそうになったこと、ナギがサザをずっと大切に思っていたこと。その涙が美しかったこと。ナギはユタカ達を逃すために一人で戦ってくれたこと。


「ナギさんがその後どうなったのか、分からないんだ」


「じゃあ、お母さんは生きていないかもしれない、ってことだよね」


「……」


「……私も、お母さんに会いたかったな」


 サザが俯いたままぽろりと溢した言葉に、次の瞬間にユタカがサザの身体を強く強く抱きしめた。サザの顔がユタカの肩に押し付けられる。

 肌と肌の触れる鮮烈な温かさがサザをはっとさせる。温かくて、甘くて、柔らかい匂いがする。サザの大好きな匂いだ。

 

「本当にナギさんに会うべきだった人はおれじゃなくて、サザだったのに」


 ユタカは溢れそうになった涙をぐっと飲み込んだような声だった。サザを気遣ってくれたのかもしれない。そういう優しさと強さを両方持っているのがこの人だ。サザの胸は締め付けられた。しばらくサザを抱きしめていた後、ユタカがそっと身体を離して言った。


「サザ。おれの心も身体も全部、サザのものだ。それでサザの心が埋められるとは思わないけど、サザには幸せでいて欲しいんだ」


「……ありがとう」


「でも、カーモスで何が起きたのか聞かせてくれないか? サザがやったことにはちゃんと理由があるだろ。おれは多分何も分かっていないから」


「うん」


 サザはこくりと頷く。


「私達はを誤解していたの」


「誤解?」


 まるで分からないという風に、サザの言葉にユタカの眉がぴくりと動いた。サザは言葉を選びながら、ウスヴァの部屋で聞いたこと、二人で話したことを全てユタカに話した。ユタカはウスヴァを思い出して時折言葉に詰まるサザの話を辛抱強く聞いてくれた。


「ウスヴァはそんな事を言ってたのか」


「うん、カーモスとイスパハルがどこかでお互いを許さないと、私達は永遠に復讐を繰り返す。私はその通りだと思った」


「おれもウスヴァの考えは正しいと思う。そして、おれも間違っていたのかもしれない」


「私も」


「でも、サヤカが前王ムスタの妹ならウスヴァが亡くなった今、次に君主になるのはサヤカの筈だ。ウスヴァはムスタの正妻の子じゃないし、明らかに孤立していた。だから、意図しなかったとはいえ、ウスヴァが亡くなったことを喜ぶ人間もいるかもしれないな」


「そんな…」


 死を以てしても報われないウスヴァを想ってサザは思わず声をあげた。しかし、状況はユタカの言う通りだろう。


「ウスヴァの考え通りに和平を実行するのは、サヤカが君主になれば不可能だ。こちらからこれ以上手を出すのは得策じゃない。ウスヴァが居ない今、和平の道は完全に閉ざされた。今までと同じようにカーモスがどう出てくるかを注意深く観察し続けるしかないな」


「……そうだね」


 サザは溜息をついた。溜息が自分が思ったよりもずっと大きくなってしまったことに自分で驚いて、何となく窓の外に目をやった。カーモスからの帰路は、残り半分程まで来た所か。長い話の中でいつしか日は暮れ、辺りは宵闇に支配され始めていた。従者が馬車に小さなオイルランプに火を付けた。暗がりの中でオイルランプとわずかな月明かりが二人の輪郭を朧げに浮かび上がらせていた。サザは心に強く浮かび上がった疑問を思わず口にした。


「私達は一体どうすれば良かったの? 何処かで何かを間違えた? 私のお母さんが女王陛下を暗殺したから? 私がカーモスに捕まったから? 私とユタカが国王陛下に秘密を作ったから? それとも……私が暗殺者だったから?」


「……分からない」


「こうなるしかなかったってこと?」


「……」


 ユタカに意地の悪い質問をしてしまったとサザは思った。こんなことはユタカにだって分かるはずがないのだ。

 二人の間にもう一度、深い沈黙が流れる。その沈黙の中でサザの脳裏に止めどなく浮かんでくるのはどうしても弟で、その血の暖かさだった。あの血が流れない様にすることは、サザには本当に不可能だったのだろうか。ウスヴァが死んだのが自分のせいだったとしたら。激しい後悔と自責の念に駆られたサザが思わず口にしていた。


「キスして」


「……」


 そんな事を自分で言ったのは初めてだった。サザの言葉に戸惑って、ユタカの黒い瞳が揺れた。ユタカは息を呑むとサザの両肩に手を置き、正面から顔を近づけた。柔らかなユタカの唇がサザの唇に触れる。サザはぎゅっと目を瞑って、感覚だけの存在になる。頭の芯がぼんやりと疼く。甘やかな頭痛のようなそれは少しずつサザの身体を支配し始める。ほんの短いはずの時間が永遠に感じた。

 どのくらいの時間そうしていたのだろう。サザはまるで分からなかったが、ユタカがゆっくりと唇を離そうとした。サザはそうして欲しくなくて、サザは思わずユタカに勢いよくしがみついた。サザはユタカの身体に体重をかけるようにして、自分の唇をユタカの唇に押し付ける。


「っ……」


 思いがけないサザの動きに、ユタカはサザのバランスを失いかけた身体を支えるためにサザの腰を抱いた。戸惑って揺れる指先がそっとサザの首筋に触れる。サザは頷く。


 ユタカがサザの顎を持ち上げる様にして手をかけ、首筋にそっと口付ける。濡れた唇の甘やかな温かさにサザが意図せずにぶるりと震えたその時、サザの瞳から急にぽろりと涙が溢れた。

 ユタカが驚いた顔をして指先でなぞるようにして涙を拭った。サザの髪を撫でながら、ユタカはサザの顔を覗き込むようにして言った。


「サザは本当にこうしたいのか?」


 サザは言葉に詰まって、返事の代わりに鼻を啜った。ユタカは何も言わずにサザの癖毛の髪を何度かゆっくり撫でると、指先でサザの頬を伝う涙を掬い取った。この人に嘘はつけないのだ。


「キスしていたら辛いことが忘れられるかと思った」


 サザは正直に言った。


「……サザ、今はやめとこう」


 ユタカは額にそっと口付けて、サザを抱き寄せた。


「おれが歯止め効かなくなる前で良かったよ」


 ユタカの言葉にサザは思わず少し笑った。


「両手を貸してくれるか?」


「……うん」


 ユタカが何をしようとしているのか分からなかったが、サザは言われた通りにユタカに両手を差し出した。ユタカはサザの両手を自分の両手で包むように握った。その手もやっぱり温かかった。

 ユタカの手はサザの手がすっぽりと収まるくらいにすごく大きい。指の付け根や手の甲やそこかしこに切り傷がいっぱいで、端くれだってごつごつしている。

 きれいな手だ、とサザは思った。所謂綺麗さとは違うけれど、ユタカはこの手で剣を振るい、数え切れないくらいの沢山の人を守ったのだ。


「おれが小さかった頃さ、夜に涙が止まらなくなるとハル先生がこうしててくれたんだ。そうしたら不思議とよく眠れた。子供じみたやり方かもしれないけど」


 ユタカの手を見つめるサザに、ユタカは微笑んで小さな声で言った。サザは涙をそのままに静かに首を横に振った。


「昔さ、おれは本当によく泣く子供でさ。みんなに泣き虫って言われてたんだよな」


「どういう時に泣いてたの?」


「一番は自分の親のことを考えてる時だな。おれの両親はどうしておれを捨てたんだろう、嫌いになったのかな、どうしたら好きでいてくれたんだろうって、ずっと考えてた。あとは、大好きな姉さんや兄さんが十五になって孤児院を出て行った時とか。まあでも、よく泣くのは今もか。サザはよく知ってるよな」


「でも私はユタカのそんなところが好き」


 サザの言葉にユタカは口角を上げて、ありがとう、と小さく言った。


「解決できないこともまだあるけど、今は帰ろう。イスパハルに。みんなサザが帰ってくるのを待ってる」


「うん」


サザはユタカの言葉に頷く。二人はどちらからともなくそっと口付けると、互いの身体を強く抱きしめた。


 −


「サザあー!」


 夜半過ぎ、イスパハルの城に馬車が到着した。サザがユタカに手を引かれて馬車を降りると、カズラとアンゼリカが駆け寄ってきた。二人もユタカと同じ、カーモスの軍服姿だ。二人の後に続いて、アスカも馬車から降りてきた。

 アスカとユタカは集まって来た近衛兵や大臣達に状況を説明しているようだ。


 カズラとアンゼリカはサザのすぐ前まで来て、心配そうな瞳でこちらを見ている。サザは真っ直ぐに二人の目を見て言った。


「二人に攻撃するなんて本当に酷い。私は馬鹿だ。謝っても謝りきれない。嫌われても仕方ない」


「気にするなサザ。あの状況なら当然だ」


 カズラがサザの目を見てきっぱりと言った。


「そうよ。それに、サザがちゃーんと的確に手加減したの分かったよ。痛かったけどちょっと痣になっただけだし。さすがサザって思ったわ」


「……ありがとう」


 二人の言葉にサザはまたぽろぽろ涙を流す。サザの肩をカズラが抱きしめ、アンゼリカが頭をわしわしと撫でた。


「で、久しぶりに王子と二人っきりでどうだったのよ〜? 馬車の中でキッスした?」


「ふぇっ⁉︎」


 アンゼリカの突然の問いかけにサザが素っ頓狂な声を上げると、カズラがアンゼリカの肩を掴んだ。


「また、アンゼリカはそんな話ばっかりだな! 他に話すことがあるだろうが!」


「カズラは真面目すぎんのよ! 一番重要なのはここに決まってるでしょうがっ!」


 アンゼリカとカズラは睨み合って膠着した。いつものパターンだ。


「二人とも、喧嘩しないでよ〜」


 サザはいつもの様に二人を宥めようと間に入ると、互いを睨み合っていたカズラとアンゼリカが、ばっと真剣な表情でサザの方を向いた。


「へ? どうしたの?」


 サザが思わず聞き返すと、カズラとアンゼリカは二人して一気にサザに抱きついた。


「わっ⁈」


「私とアンゼリカに必要なのは、サザのそれなんだ」


「それ?」


「そうよ。だって私とカズラはサザが止めてくれないとずっと喧嘩しちゃうんだもん!」


「……はは……二人とも仲良くしてよ」


 サザは思わず笑うと、目尻に浮かんだ涙を拭った。


「サザが一緒にいてくれたらそれでいいのよ」


 アンゼリカがサザの癖毛の頭をぽんぽん叩きながら言った。


「私達は何時だって、どんな事があったってサザの味方だ」


 カズラが力強く口にすると、アンゼリカが微笑む。


「そうよ。絶対にそれを忘れないで」


「……うん」


 涙を拭うとサザは笑った。それに応えるようにして、三人は思わず声を上げて笑い合った。


「で! サザちゃんはキッスしたのかな? もしくはキッス以上⁉︎」


「全く、アンゼリカは本当に懲りないな。恥ずかしくないのか?」


「ユタカに聞こえちゃうから小さい声で言って……」


 三人は笑いながら、ユタカとアスカの方へ向かって歩き出した。ユタカとアスカがこちらに向かって手を振ってくれた。

 ウスヴァの死の悲しみは消えないが、一筋の光も見出せないような絶望に苛まれていたサザの心は気付けばふわりと軽くなっていた。それは紛れもなく、サザを愛してくれる人達のお陰だった。サザがサザのままでいられるのは、このイスパハルに愛する人達がいてくれるからだ。

 サザはこの人達を絶対に大切にしようと、もう一度密かに心に誓った。

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