47.未来

 イスパハルは秋が過ぎ、長い冬を抜けた。

 ユタカの故郷の領地イーサは格別だが、イスパハルはどの地域でも冬が厳しい国だ。

 イスパハルの人々は誰もが春の訪れを心から待ち望みながら長い長い冬を過ごし、白樺の新芽の柔らかな芽吹きとともに、春を一年の始まりとして祝う。

 街の家々には扉に春の花と新芽を集めた伝統の花飾りが掛けられる。眩い花の匂いで溢れた街では、誰もが「おめでとう」と挨拶を交わす。こうやって幸せな一年をもう一度迎えられたことに慎ましく感謝し、これからの一年を新しく生きていくための、この国の人々が祖先から受け継いできた習慣なのだ。


 溶け出した雪景色から現れた、春を慶ぶ動物達や虫のさざめき。弾けるような植物たちの歓びに溢れた生命の息吹に、人々はこれまでの長い長い歴史の積み重ねの中、祖先と神に感謝し、いつも心を新たにするのだ。


 春の祝祭の間、サザはユタカとリヒト、カズラとアンゼリカとナギ、小さな赤ん坊のヴァロと一緒にユタカの提案で久しぶりにイーサへと遊びに来ていた。全てが終わった今、アスカが纏まった休暇をくれたのだ。

 以前イーサにいた時、サザとユタカとリヒトが蛍を見にいった川縁だ。サザ達は草原にローラに頼んで作ってもらった卵のサンドイッチを広げて座った。三才になったヴァロはリヒトとユタカと一緒に小川の側で遊んでいる。ヴァロが小川の底にきらめく小魚を見つけ、手を叩いて喜んでいる。

 小川から少し離れた木の下に車座に座ったサザとナギとカズラとアンゼリカが手を振ると、ヴァロは小さな手を一生懸命に振ってくれた。


「私も食い物持ってきたよ。昨日作った」


 サザの側に座ったナギが手にしていた布の包みを開けると、出てきたのは円盤状の真っ黒い物体だった。


「ナギさん、それ一体何ですか? 武器?」


 カズラが真顔でナギに聞く。


「アップルパイだけど。まあ、ちょっと焦げたけど食べれるだろ」


「え……? ナギさんってもしかして料理ド下手? しっかりサザに遺伝してますよ?」


 アンゼリカが口に手を当てて笑いを堪えながら言った。


「うえ……マジかよ。ごめんな……」


 ナギが申し訳なさそうにベリーショートの後頭部を掻いた。丸刈りよりも少し伸びた灰色の髪はサザによく似た癖毛だ。


「お母さんに似てるんだったら私、嬉しいよ」


「何だよサザ、泣かすなよな」


 サザが満面の笑みで言うと、ナギはサザの頭をわしわし撫でた。

 遠くでリヒトが小川の水を手で掬って、ヴァロにかける。ヴァロがつめたい!とはしゃいで笑う声が聞こえる。


ヴァロちゃんって、いい名前ねえ」


 アンゼリカがヴァロの方を見ながら目を細めて言った。


「でしょ。リヒトが考えたんだよ」


「そういえば、ナギさんはまた、カーモスに戻られるんですよね?」


 アンゼリカが思い出したようにナギに尋ねた。


「ああ。私は誰よりも国王陛下に敬意を払いたいんだ。陛下は私を処刑しなかった。でも、それでも私の罪が消える訳じゃない。陛下が私を殺さなかったのは、陛下が愛するサザが悲しむからだ。陛下は心の底からサザを愛していてくれているんだ」


「うん。そうだね……私も陛下が大好き」


「私を殺さなかったとしても、愛する妻を殺した私の顔をもう見たいとは思わないだろう。だから私はカーモスに帰る。私は少しだけ遠くでサザを見守るよ。でも、もう私はいつだってサザに会いにイスパハルに来られるんだ」


「そうね。あたし達はどこに居たってもう大丈夫。サザのお陰で」


 アンゼリカが首を傾げながら微笑むと、カズラが力強く頷いた。


「そうだ、全部サザのお陰だ」


「へへ……」


 サザが照れて笑っていると、とととと、と足音を立てて小さなヴァロがこちらに駆けてきた。その後ろからユタカがヴァロを追いかけてくる。

 ヴァロの薄荷色の瞳と亜麻色の髪が春の日差しに煌めく。


「おばーちゃんもアンゼリカおねーちゃんとカズラおねーちゃんも、いっしょに川であーそぼ」


 ヴァロがすとんとナギの膝に座って言った。


「いいぜ。しかし四十代で孫二人とは思わなかったな」


「いいじゃないですかあ。二人ともめっちゃくちゃいい子なんだから!」


「ヴァロちゃん、釣りはどうだ? 竿を持ってきたよ」


 そう言って笑うナギに抱き上げられたヴァロは、アンゼリカとカズラに腹をくすぐられて楽しげな笑い声を上げる。四人は川へと向かって駆けていった。

 ユタカはサザの隣に腰を下ろすと、川辺での楽しげな声を聞いて思わず微笑みあった。二人に木漏れ日が優しく落ち、花の香りで満ちた春風がそっと頬を撫でる。サザはユタカを見て、口を開いた。


「ねえ、ユタカ。私はずっと暗殺者として生きていくと思っていたけれど、本当は、暗殺者の力を使わなくなくていい未来を目指すべきだったのかな? 私はいつだって、戦う事が正義だと思っていたから」


「そうだな……それが分かるのは多分、もう少し先だろうな。まだ暫くはおれたちのこの力が必要だと思う」


「うん。そうだね。これからもユタカと一緒に沢山のことを見てみたい」


「おれも」


 サザは思わずユタカの肩にもたれかかった。ユタカがそっとサザの額に口付けて、サザの髪を撫でた。そこにカズラとアンゼリカとナギが駆け寄ってきた。


「もー! ちょっと目を離すと二人はすぐにいちゃついてるわね! ヴァロちゃんがお父さんとお母さんもこっちに来てって!」


「はは……ごめんな」


 ユタカが立ち上がりざまにサザの手を取ってくれた。いつだってサザを支え、守ってくれた優しくて、あたたかい手だ。サザは手を握った瞬間、ぽろりと涙が溢れた。


「ん……」


 サザが咄嗟に手の甲で目を擦ると、ナギがユタカを指差して声を上げた。


「ユタカてめー、何でサザ泣かしてんだよ!」


「え⁈ サザ、大丈夫か?」


 ユタカが慌てた様子で心配そうにサザの顔を覗き込む。サザは鼻を啜りながら笑った。


「違うの。私、すっごく遠くに来たなと思って」


「遠く?」


「多分、辛かったからだと思うけど。私は小さい頃の記憶があまりなくて。一番古い記憶は、お母さんに会いたくて雨に濡れてた夜のこと」


「サザ……」

 

 ユタカは心配そうに眉を寄せて、サザの肩を抱いた。


「ユタカにもリヒトにも、カズラとアンゼリカとレティシアにも。お母さんにも、陛下にも、ウスヴァにも。沢山の人に出会えて、こんなに幸せな場所に来れた。あの時の私に聞かせたらこんなこと絶対に信じないと思う。色んな人が私を支えてくれた」


「でもそれはサザが自分の足で立つ強さがあったから出来たことだ」


 カズラがきっぱりと言うと、アンゼリカが隣で笑う。


「そうよ。サザの力があってこそなのよ」


「おいユタカ、次サザを泣かせたら容赦しないから覚えとけよ」


「……はい。泣かせません」


 ユタカは笑いながらナギに頭を下げた。

 サザは今いるこの場所の、この景色が大好きだと思った。たくさんの大切な人と出会い、そのたびに新しい自分を知ることが出来た。


「アンゼリカさーん、ヴァロが呼んでる! このいい匂いの薬草なあにって?」


「はいはーい! 今行くわ!」


 川縁でヴァロと手を繋いだリヒトの呼びかけにアンゼリカとカズラとナギはもう一度、ヴァロ達のいる川辺へとかけていった。


 希望が潰え目の前が真っ暗になる時も、一切の望みが途絶えたと思える時も。生きていたらそんな時がまた訪れるかもしれない。大切な人を失うこともあるだろう。


 でも、どんな時も真実はいつだって、周りの大切な人と、自分の胸の内にある。自分の本当に大切なものが何かが、サザはちゃんと分かったのだ。


「まだこれから、沢山辛い事あるかもしれないけど。何かを間違えることもあるかもしれない」


「そうだな。でも、間違えたらやり直せばいい。おれたちは何度でも、それが出来るんだ」


「ねえ。私はユタカと一緒にいられて本当に良かった」


「おれも」


 これからまだ起こるかもしれない、辛い事、許せないこと。苦しくて悲しくて、涙に暮れることもあるかも知れない。でも、その度にこの人と、そして勇気と愛情をくれた沢山の人達と一緒いられれば、きっといつだって、どんな事があっても乗り越えられる。


 サザは思った。私はこれからも、どこまでも歩いて行くだろう。そう思わせてくれたのは、ここにいるユタカ、そして、今までのかけがえのない出逢いのおかげだ。


 どんな絶望の最中でも一筋の希望を捨てなければ、私は大切な人達と共に、これからも。

 いつだって、どこにだって行ける筈だ。

 弛まぬ希望と、光あふれる未来を求めて。

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