第2話

 退院し、捻挫の痛みも和らいできた頃、瑞希は足にサポーターをつけて仕事に復帰した。上司が席を外す合間に山本から小言を言われたが、瑞希はそれどころではなかった。警察に相談するべきかと思ったが、もっとひどい目に遭うんじゃないかとの考えがよぎる。メモは捨ててしまい、突き落としてきた人物も見ていない。そんな状況でまともに受け合ってくれるのかと思い、何もできない状態だった。ただひたすら、仕事で不安を拭い去ろうとしていた。

 その日は珍しく上司が気を利かせて瑞希を定時で上がらせた。山本は不服そうに瑞希をじっと睨んでいたが、この時ばかりは上司に感謝した。

 捻挫が完全に治ってはいないため走ることは出来ないが、瑞希は早く帰りたいとはやる気持ちが湧いた。神社の前の通りにまで差し掛かったとき、後ろから声をかけられた。

「長谷川?」

 ドキッと心臓が飛び跳ね、サッと振り返った。田畑の姿を確認し、胸をなでおろす。

「あ、ごめん。驚かせたか?」

「ううん、大丈夫」

「仕事帰り?」

「うん」

「お疲れ。……なぁ、この後は何か予定ある?」

「えっ、ないけど……」


 瑞希は六畳の和室に通された。右手の床の間には掛け軸が掛かっており、左手には縁側に面して庭が眺められる。その縁側に気持ちよさそうに三毛猫が寝そべっていた。瑞希が入ってきても動じず、瑞希はかわいいなと思いながら足を崩して座った。しばらく待つと、田畑がお茶を淹れて瑞希の前に差し出した。

「まだあるんだ、これ」

 そう言って田畑は高校の卒業アルバムをテーブルの上に置いた。

「私もあるよ。しまいっぱなしだけど」

「俺もそうだった。見るとさ、懐かしくなるんだよな。……ほら」

 田畑はアルバムをめくった。三年三組の生徒それぞれの写真が載ったページに瑞希と田畑の写真もあった。

「髪型、全然違うね」

 高校時代、瑞希はロングヘアを後ろで一つに束ね、田畑はツンツンと立った短髪だった。現在は、瑞希は肩までのボブにし、田畑は神職に就いていることもあって落ち着いた髪型になっている。

 それからページをめくっては、お互いの友人やクラスメイト、文化祭や修学旅行の話に花を咲かせた。それは、瑞希にとって同級生との久々の楽しい会話だった。一時間近く喋ったとき、三毛猫が起き上がって田畑のそばに寄る。

「たしか、長谷川って猫好きだったよな?」

 瑞希が頷くと、田畑はテーブルの上に三毛猫を乗せた。瑞希が触っても三毛猫はおとなしくされるがままだった。

「何て名前?」

「茶々丸」

「名前もかわいい」

 瑞希が茶々丸をなでていると田畑が言った。

「足につけているのってサポーターか?」

「うん。ちょっと捻挫しちゃって」

「えっ、そうなのか。早く良くなるといいな。無理はするなよ?」

 田畑の言葉で、忘れかけていた不安が再び思い起された。油事件の被害者である田畑に相談してみたほうがいいか逡巡していると、田畑が怪訝な顔をした。

「どうかした?」

 瑞希は口を開きかけたが、迷った末、やはり閉じてしまった。

「言いにくいことなら無理しなくてもいい。またこうして再会できたんだし、何かあったときに必要だったら何でも聞くよ。茶々丸に会いに来てもいいし」

 田畑から穏やかにそう告げられ、瑞希は彼が後輩や周囲の面倒をよく見る世話好きなところがあったことを思い出した。その気遣いがありがたかった。

「ありがとう。最近、家にこもりきりで少し気が滅入っていたの。今日は気分転換になれた」

「そっか。良かった」

 その後、田畑はバッグを代わりに持ち、瑞希をアパートの前まで送った。近所に知り合いがいるのは、瑞希にとってとても心強かった。


 田畑は瑞希の姿が見えなくなると、周囲を見わたす。怪しい人影がないのを確認すると、家に戻った。部屋のテーブルの上に置いたままのアルバムを戸棚にしまう。その際、家族写真のアルバムに目が留まり、それを手に取った。開くと、田畑が幼い頃の写真や生まれる前の家族の写真もあった。

 パラパラとめくっていると、途中で手が止まる。

「これ……」

 田畑はよく見ようと集合写真を取り出した。その中には田畑の祖父も写っている。田畑はその写真を持って、父親の元へ向かった。

 田畑の父・博は神前にいた。田畑が声をかけると、博は首を傾げた。

「どうした?」

「あのさ、この写真にじいちゃんが写っているだろう?」

 手にしている写真を見せた。

「ああ、そうだ。よくこんな古い写真見つけたな」

「じいちゃんの前にしゃがんでいる人、誰かわかる?」

 田畑はその人物を指して訊いた。

「……この人はじいさんの知人だよ」

「それだけ?」

「いや……この人は当時、騒がれていた硫酸魔だ」


 翌日、瑞希は不安を抱えながらも職場へ向かう。山本の理不尽な仕事の押し付けはあったものの、仕事をしている間はメモのことを忘れられた。誰にも言わず、瑞希はひたすら仕事に没頭したのだ。

 残業を早めに切り上げ、電車に揺られて地元駅へ着くとコンビニには寄らずに自宅を目指す。今日は買い置きしていたインスタントもので済まそうと決めていた。もうすぐ田畑の神社が見えてくるというところで、向こうから警察官が歩いてきた。油被害の事件について調べているのか、それとも交番の見回りかと瑞希は考え、前者ならメモのことを伝えるにはちょうどいいかもしれないと悩んだ。

 そんな瑞希の考えを知ってか知らずか、警察官が瑞希に近寄って声を掛けてきた。

「すみません。失礼ですが、以前、このそばの神社の油被害を目撃されていた方ではないですか?」

 それを聞いた瞬間、瑞希はやはり伝えた方がいいと感じた。

「はい、そうです!」

「では、もう一度詳しくお話をお聞きしたいので、少々お時間よろしいですか?」

 瑞希が頷いたそのとき、通りの向こうから瑞希を呼ぶ声がした。

「長谷川、そいつから離れろ!」

 途端に目の前の警察官が腰に差していた警棒のようなものを握り、瑞希に向かって振り上げてきた。瑞希はとっさに腕を上げて頭を守った。棒は右腕に当たり、痛みを感じて後ろに尻餅をついた。

 警察官の服を着た男は、ポケットから小瓶を取り出した。その蓋を開けたとき、田畑が後ろから男の腕をつかんで引っ張った。男の手から小瓶が落ち、液体が地面にこぼれる。田畑が取り押さえようと男と格闘するなか、瑞希は驚きと恐怖のあまり、目の前の光景に固まって動けずにいた。男が振り下ろしてきた棒を田畑が避け、突き飛ばすと、その拍子に倒れた男を抑え込んだ。

 ちょうどそのとき、瑞希の背後から刑事がやってきて、田畑に替わって男を取り押さえ、手錠をかけた。

「長谷川、大丈夫か?」

 私服姿の田畑が瑞希のそばにしゃがんだ。

「腕にあざが出来ているな。一応、病院で診てもらった方がいい」

「田畑君は……?」

「俺は平気」

 男は刑事に連行されていった。その後ろ姿を見届けながら瑞希はわずかに震えていた。その肩に田畑は手を置いて安心させるように力強く言った。

「もう大丈夫だ」

 瑞希はコクリと頷くことしかできなかった。


 四日後の祝日、瑞希は派遣会社に連絡して仕事を辞める旨を伝えた。その後、ポストを確認し、瑞希宛に届いた手紙の差出人を見て驚いた。部屋に戻って封を切り、淡いブルーの封筒から便箋を取り出す。初めに丁寧な言葉で綴られた文は、二枚目にして変わった。


 ……いや、堅苦しい言い方はよそう。あの後、長谷川を見掛けなくなったから、心配だったんだ。ちょっと震えていたみたいだし。

 テレビでも報道されているからもう周知のことだと思うけど、あのとき男が持っていた液体は硫酸だっただろう? 実は、長谷川と卒業アルバムを見た後、じいちゃんの写真を見つけてさ。そこに髪が長くて目の細い、あの男そっくりな人物も写っていたんだ。父さんに訊いたら、じいちゃんの知り合いで昔、女性に硫酸をかけてまわる硫酸魔で捕まった人なんだって。俺のばあちゃんも被害に遭っていたんだ。法事帰りの長谷川に会った日から、怪しい人影や視線を感じるようになったから、心配してた。長谷川にはかからなくて本当に良かったよ。

 俺はだいたい夕方の時間に鳥居や境内を掃除しているから、もしできれば近いうちに、長谷川の元気な姿を見られたらなと思ってる。あ、でも、無理はしなくていいから。まだ怖かったり、不安が残っていたらそれが落ち着いたらで大丈夫。

 それじゃ、また。

 田畑 雄二


 瑞希は、法事の食事の席で季実子が言っていた硫酸魔の話を思い出した。部屋の壁に掛けられた水彩画に視線を移す。それは昔、祖母が瑞希にくれたもので、実家の狭い庭に咲く紫陽花が描かれている。

 それを火傷が残る手で描く祖母の姿が思い起こされた。


 翌日は晴れ渡る天気になった。瑞希は仕事の帰りに駅のそばの総合スーパーに寄り、今日の夕飯メニューであるカレーの食材と履歴書を買った。そのまま帰宅し、テレビの報道番組を時折見つつもパソコンで派遣会社のサイトや転職サイトを閲覧する。

 様々な求人情報を確認していると、報道番組でニュース速報が入った。

「えっ……?」

 瑞希はアナウンサーの言葉に耳を疑い、テレビに釘付けになった。油事件の犯人である男の供述から、被害者である瑞希を階段から突き落とした女を逮捕したというのだ。テレビ画面には男の恋人だという職場の先輩だった山本の名が表示されていた。それを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。身近にそんなことをした人物がいたと思うと、瑞希は震えた。結局、今日はカレーを作る気になれず、すぐにベッドで横になった。

 なかなか寝付けなかったためか、昼に目が覚めた。もともとゆっくり過ごそうと思っていたが、部屋に一人でいる気分になれず、簡単に身支度をすませるとアパートを出て神社へ向かう。木洩れ日が降り注ぐなか、鳥居を抜けて境内へ来ると田畑が掃き掃除をしていた。田畑は瑞希に気付くと、明るい笑顔を見せた。

「長谷川、もう大丈夫なのか?」

「うん。心配してくれてありがとう。あの日も、助かったよ。田畑くんが来てくれなかったら、どうなっていたかわからないし……」

「気付いてよかったよ。……ていうか、手紙なんか書いちゃってごめんな」

 照れくさそうに笑う田畑に安心してつられて瑞希も笑った。その後、また茶々丸に会いに家へお邪魔した。

「相変わらず、かわいいな」

 以前、入った六畳の和室の座布団の上に茶々丸が丸くなっていた。顔の下を軽くなでると、気持ちよさそうに目を閉じた。

「お務め中にごめんね」

「気にしなくていいよ。せっかくだから、茶々丸に会ってやってほしいし。こいつは呑気でいいなぁ」

 茶々丸は大きく欠伸をした。

「私、転職するの」

「そうか。次の仕事はもう決まっているのか?」

 瑞希はかぶりを振った。

「まだ。今まで勤めていたところはもう辞めたんだけど、探すのはこれから」

「良いところに決まるといいな」

「うん」

「そうだ、ちょっと待ってろ」

 そう言い残して田畑は部屋から出ていった。瑞希は少しの間、言われた通り待つと田畑が戻ってきた。

「はい、これ」

 田畑は神社の名前が入った小さな白い袋を瑞希にわたしてきた。中に入っているものを取り出すとそれは合格祈願のお守りだった。

「えっ、これ……」

「いいから、もらっとけ。転職活動、頑張れよ」

「ありがとう」

 ここへ来てよかったと、自然と笑みがこぼれた。


 後日、瑞希は応募した会社の面接を受けた。

「失礼いたしました」

 瑞希は面接官に向けて一礼してから部屋を出る。小さくホッと息を吐いた。そのまま会社を出て駅へ向かった。改札を抜けて一時間ほど電車に揺れる。立ったまま窓の外に視線を向け、今後のことに思考を巡らせる中で、この後会う人の顔がふと思い浮かぶ。

 瑞希は地元駅まで帰り着くと、近くのカフェに寄った。店内を見回して奥の窓に近い席へ近付いた。先にそこに座っていた田畑は窓の外を見ていたが、瑞希に気付く。

「お疲れ。面接は順調?」

 瑞希は頷いて、田畑の向かいの席に腰を下ろした。メニューを開き、それぞれ注文する。店員が去った後で瑞希は話し出した。

「今日は二次面接に行ってきたの。手ごたえとしては悪くないけど、どうなるかはわかんないな」

「あとは面接の担当者に任せるしかないもんな。他に受ける予定は?」

「今のところ、もう一社。履歴書送って、昨日連絡が来たの。一週間後に面接行くよ。お守りのおかげかもね」

「長谷川が頑張ってるからだろ。お守りも役立っているんなら、わたしといて良かったけどさ。ちょうどここに来る前に地元の友達と偶々会って近況を話したんだけど、その友達がイベント会社で色々企画を考えてるって聞いたんだ」

「そうなんだ。すごいね」

 瑞希が感嘆の声を漏らすと、田畑はうんうんと頷いた。

「俺がもし就活してたらどうなってたかなぁ……」

「田畑君は接客とか営業とか、人と関わることが多い仕事に就いてそう」

「あ、確かに俺もそんな気がする」

 自分の就活を想像しているらしい田畑の様子に瑞希は笑みをこぼし、話題を変える。

「神社の様子はもう落ち着いた……?」

「事件に関してはひとまずな。ただ、来月に祭りがあるんだけど、そのことでちょっとね」

「何かあったの?」

「俺の伯母さんがさ、父さんと揉めてるんだ。祭りのときの出店をもう少し制限した方がいいって」

「どうして?」

「事件のことがあったから、過敏になっているんだと思う。出店は毎年だいたい同じ人達がやっているし、馴染みのある人達だからそういう地域の人との繋がりのためにも、それは良くないって父さんは言ってる」

「うん、そうだね。それがなくなると寂しいかも。田畑君の伯母さんって神社では何している人?」

「昔、うちで巫女をやっていたんだけど、二十五歳で結婚を機に辞めたんだ。でも、結局離婚して近所に住んでるよ」

「そうなんだ。制限するってなったら、地域の人達も困っちゃうよね」

「うん。だからそうなるのは避けたくて。町内会の人達も困るし。まぁ、今まで通りやれると思うんだけどさ」

 店員が注文したドリンクを運んできた。瑞希はジャスミンティーを、田畑はコーヒーを一口飲む。

「とりあえず、良かった」

「神社?」

 田畑はかぶりを振る。

「長谷川が元気になってきて」

 田畑の言葉が瑞希の心に染みた。気遣ってくれているとわかり、以前に不安を感じていたことが口をついて出る。

「……私を階段から突き落とした人がいたの、ニュースで見た?」

「もちろん。あの捻挫だよな?」

 田畑は気付いていた。

「逮捕されたけど、あの人、前の職場の先輩なの」

「えっ……そうだったのか?」

 瑞希は小さく頷く。

「ニュースで知ったとき、怖かった。まさか身近にいた人だと思わなくて。でも、田畑君に会って笑ってる顔見たら少し気が楽になった」

 瑞希が微笑んで言うと、田畑ははにかんだ。

「そっか。それなら良かった」

「仕事が決まったら、また茶々丸に会おうかな」

「そうしてやって。いつも家で気ままにゴロゴロしてるから」

 その茶々丸の様子を想像し、また癒されに行こうと瑞希は思った。


                               ー了ー

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魔の再来 望月 栞 @harry731

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