第3話 二人だけの時間

 幸次郎と亜沙美は波と戯れ、互いの服がびしょ濡れになるまで遊び続けた。

 しかし、二人が気が付かない間に、真っ青な空が西の方から流れてきた黒く重い雲に覆われ始めていた。


「マズイね、ひと雨きそうだよ。調子に乗ってはしゃぎすぎちゃったかな」

「そうだな、結構降ってきそうだな。それに、俺もお前も着てる服がびしょ濡れだし、お互いに着替えも持ってきてないから、風邪ひく前にここで引き上げるか」


 幸次郎は車の後部座席に積んであった仕事で使っているタオルを亜沙美に手渡すと、亜沙美は濡れた髪をとかすかのように優しくタオルで拭いた。

 一通り拭き終わると、亜沙美は幸次郎にタオルを真下から軽く投げ渡した。


「これ、ありがとね。はい、幸ちゃん」


 幸次郎は亜沙美から渡されたタオルで、髪や身体を拭いた。すると、亜沙美の香水の香りが、タオルを通して幸次郎を包み込んだ。

 まるで幸次郎を誘惑するかのような香りは、嫌が応でも胸を高鳴らせた。


 車のキーを差し込むと、爆音を立ててエンジンが始動した。

 幸次郎はアクセルを強く踏み込むと、スカイラインはうなりを上げて県道を一気に加速し始めた。


「すごい!あの時のスクーターの何倍も速いよね」

「そ、そりゃそうだろ?」

「気分爽快だね。私、この車ならずっと乗ってたいかも」

「そんなこと言ってくれたの、亜沙美が初めてだよ」

「マジで?」

「ああ、マジだよ。他の奴らはみんな嫌がるんだもん」


 やがて、空を覆い尽くした黒い雲から、大粒の雨粒が落ちてきた。雨粒はやがてシャワーのように道路に降り注ぎ、車のワイパーも役に立たないほどの土砂降りになった。


「やべえ、前が全く見えねえよ。おまけにこの辺りはカーブ続きでちょっと怖いな」

「えー、高校の時は怖い物知らずだった幸ちゃんらしくないなあ」

「いや、あの時も亜沙美のことだけは怖かったよ。ちょっとでも反抗したら、ものすごく凄まれたからなあ。一晩眠れなくなるほど強烈だったよ」

「どういう意味よ!?それ」


 容赦なく降り注ぐ雨、そして稲光からほどなく地面を揺るがすほどの雷鳴がとどろいた。


「怖い!」


 亜沙美は雷鳴に驚き、運転する幸次郎の肩に突然もたれかかった。幸次郎は突然、亜沙美の身体のぬくもりを感じ、全身に緊張が走った。亜沙美の身体はずぶ濡れになったシャツがぴったりと張り付き、身体の曲線のシルエットが綺麗に浮かび上がっていた。

 まばゆいほどの稲光と地響きのような雷鳴が続き、亜沙美は幸次郎の身体にもたれかかり、顔を幸次郎の衣服にうずめていた。


 車は何も無い山中の道路を進んでいたが、降りしきる雨と鳴りやまない雷に、さすがの幸次郎もこのまま運転を続けることに危険性を感じていた。

 すると、前方に西洋の城郭のような立派な建物が姿を現した。この辺りでたった一軒だけのモーテルだった。

 何度もこの道路を行き来している幸次郎は、モーテルを過ぎるとしばらくは避難できそうな場所が無いことを知っていた。

 雷鳴に怯える亜沙美の姿、随所に水溜まりができてこれ以上の走行は危険な道路……幸次郎は自らに言い聞かせ、うなずくと、覆いかぶさる亜沙美の耳元で話しかけた。


「なあ亜沙美、そこでちょっと休もうか?」

「そこ?」

「モーテルだよ。この辺りじゃ、ここしか避難できそうな場所が無いんだよ。いいかい?ここで」

「うん、いいよ」


 亜沙美がうなずいたのを見て、幸次郎は車をモーテルの敷地内へと進めた。

 受付を済ませた二人が案内されたのは、天井にシャンデリアが飾られ、大型テレビと巨大な鏡が置かれた少し大きめの部屋だった。


「わあ、こんな山の中にあるのに、すっごくお洒落な部屋じゃん。雷の音もそんなに響いてこないし、快適だね!」


 亜沙美はすっかりこの部屋が気に入ったようだ。


「あ、そうそう。ランドリーがあるし、濡れた服、乾かそうか?ガウンが置いてあるから、乾くまではしばらくこれ着てようかな?」

「あ、ああ……そうだな」


 亜沙美はガウンを手にすると、シャワールームへと歩いていった。


「先に入ってるね。終わったら幸ちゃんもどうぞ」


 亜沙美はにこやかに手を振ってシャワールームに入ったが、その言葉は、まるで幸次郎を誘っているかのようだった。

 幸次郎はテレビを点けて、チャンネルを回しながら見たい番組を探していたが、やがてテレビの前に置かれた籐編みの小皿に、コンドームが置かれていたことに気付いた。


「こ、これって……おい」


 その時、亜沙美がタオルで長い髪を拭きながら、白いガウンを羽織って幸次郎の目の前に現れた。


「さ、幸ちゃんも入った入った!すっごく気持ちいいよ」


 幸次郎は亜沙美に背中を押されると、頭を掻きながらガウンを片手にシャワールームに入った。

 シャワーで全身を洗うと、身体のあちこちに付いた砂が泥になって排水口に流れ出した。その流れを見た時、ここまでの道中、緊張しながら走ってきた疲れが一気に取れた気がした。しかし幸次郎は、別の意味での「緊張」が始まっていた。

 全身をきれいに洗った幸次郎は、ガウンを羽織ると、ベッドに座ってテレビを見つめる亜沙美に近づいた。


「どうだった?気持ち良かったでしょ?」

「まあな」


 亜沙美は髪をかき分けながら、じっとテレビを見つめていた。


「あれ、今年はオリンピックの年だったっけ?」

「え?な、何?」

「こないだオリンピックを東京でやったっていうニュースをやってるんだけど、東京でオリンピックやったのって、私が未だ生まれてない頃の話でしょ?」

「何寝言を言ってんだよ!ついこないだまでやってたじゃないか。日本はメダルラッシュで、俺も毎日テレビにくぎ付けだったんだぞ」

「ふーん……そうなんだね。私が知らないだけだったのかな?」


 亜沙美は驚いた様子でテレビを見ていた。しかし、亜沙美以上に幸次郎が亜沙美の言葉に驚きを感じていた。


「お前、こないだもコロナの話して、訳の分かんないこと言ってたな。ストーブがどうとかさ」

「だ、だって、コロナって言ったらストーブでしょ?」

「マジで言ってんのか?というか、お前、今この世で何が起きてんのか、知ってるのか?」

「さあ、東日本大震災とか……?」

「それって、十年前のことだぞ!」

「ええ?そ、そうなの?」


 幸次郎は亜沙美の言葉に思わず面食らってしまった。亜沙美の記憶は十年前で停まっているのだろうか?それとも、幸次郎をからかおうと、わざと言ってるのだろうか?


「亜沙美、お前にぶっとばされることを覚悟で聞くけど、お前、俺のことをからかってないよな?」

「ううん。何で幸ちゃんをからかうの?本気で答えてるよ、私」

「ええ??ま、マジかよ!?」


 すると亜沙美は、たじろぐ幸次郎の姿を見てクスクスと笑い始めた。


「じゃ、今俺の目の前にいる亜沙美は、十年前の亜沙美?」

「まあ……そういうことになるのかな?」

「そういうことって……おい!どういうことだよ」


 すると亜沙美は大きな目を閉じ、幸次郎の肩にそっと顔を載せた。


「おい、亜沙美、お前……」

「どーでもいいじゃん。十年前だろうが、今だろうが。私はこうして幸ちゃんと会えて、昔のように海に遊びに行けて、すごく嬉しかったんだよ」

「亜沙美……」

「幸ちゃん。私、高校の時に言いそびれたことがあったんだ」

「言いそびれ?歯に衣を着せなかったお前が?」

「あの時、幸ちゃんのこと、ずっと大好きだった」

「……マジかよ?」

「マジだよ。でもあの頃の私は一応「番格」だったから、軟派な自分を見せたくなくて。ずっと本当の気持ちを幸ちゃんに言えなかった。そしてそのまま卒業を迎えて、自分の気持ちを伝えることもできなかった」


 亜沙美は幸次郎の耳の辺りに手をかけると、大きな音を立てて頬にキスをした。


「な、何すんだよ、いきなり!?」

「会えて嬉しかったよ。幸ちゃん」


 亜沙美は幸次郎の顔中に大きな唇で何度もキスをした。そして、亜沙美は片手でゆっくりとガウンの紐を解き、ゆっくりと褐色の肌をはだけさせた。


「ねえ、一緒になりたい。幸ちゃんと結ばれたい」

「俺も、亜沙美と一緒になりたい。でもさ、俺、自信が無いんだ」

「どうして?」

「だって、俺……今ままでまともに彼女が出来たことがないから、こういう時、どうしたらいいかわかんないよ」

「幸ちゃん、男でしょ?怖がらないで、私を見て」


 そう言うと亜沙美はガウンを床の上に脱ぎ捨て、生まれたままの姿で幸次郎の前に覆いかぶさった。大きな胸が、幸次郎の身体を包み込んだ時、幸次郎は閉じた気持ちが自然と開かれていくような錯覚に襲われた。

 やがて二人は裸のまま深い口づけを交わすと、シャンデリアの薄明かりが灯る中、お互いの名前を呼び合いながら、身体を絡めた。

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