第2話 あの場所へもう一度

 幸次郎は店内に入ると、立ち読みを続ける女性の横顔を見つめた。

 見た目は幸次郎よりは若いように感じるが、ハッキリとした目鼻立ち、肉厚な唇、田舎には珍しい南方系の顔立ちは、間違いなく亜沙美に違いない……直感で判断した幸次郎は、思い切って女性に声を掛けた。


「あの、ちょっといいかな?」

「え?」


 女性は長い髪を振り乱しながら、幸次郎の方を振り向いた。


「突然で悪いけど、あんたひょっとして、井上いのうえ……亜沙美?」

「そうだけど。あなたは?」


 立ち読みしていた女性は、幸次郎の想像した通り亜沙美であった。


「俺、幸次郎だよ。覚えてるか?高校時代、一緒に授業サボって遊んだだろ?」

「あ!もしかして幸ちゃん?」

「そうだ。あの頃よりはちょっとはまともになったから、分かりにくいかもしれないけどさ」

「そうよね。確か幸ちゃんの髪の毛は金色だし、もっとガリガリだった記憶があるからさ。でも、まさかここで幸ちゃんに会えるなんて、信じられない!」


 亜沙美は両手で口元を押さえ、大きな目をさらに大きく見開いて驚いていた。


「亜沙美、成人式も高校の同窓会に来なかったから、どうしたんだってみんな心配してたんだぞ」

「うん、ごめんね。連絡しなくて」


 亜沙美は高校卒業とともに家を出て、看護学校を経て横浜市の病院に看護師として就職した。仲間づてに仕事が忙しく帰れないと聞いていたが、高校のクラスのほぼ全員が参加した成人式も、その数年後の正月に行った同窓会にも顔を出すことは無かった。家族は数年前に中川から離れてしまい、亜沙美の居場所を知る人は町内には誰もいなかった。


「亜沙美は女子の中では『番格』だったろ?亜沙美の言うことに誰も反抗する奴はいなかったよな」

「だってみんな好き勝手に派閥作ったり、派閥に入らない子をいじめたりしてるんだもん。そういうの、正直すごく許せなくてさ」

「アハハハ。俺たち男子も亜沙美には頭が上がらなかったもんな」

「でも、都会に出て就職して、先輩たちに厳しい指導を受けるうちに、田舎でいきがってた自分の情けなさを思い知ってね。さすがに今はもうあんな男勝りなことはできないかな」


 亜沙美は白い歯を見せて笑うと、読んでいた本をラックに戻し、

「ね、せっかくだから、ちょっと話そうか?」と言い、幸次郎に目配せした。


「ああ、いいよ。ビールでも飲みながら話ししようか。なあ店長、ビール適当なの二本選んでくれる?お金はちゃんと払うからさ」

「ったく。俺はお前の使い走りじゃないんだぞ」


 金子はぶつぶつ言いながらも、冷蔵庫から幸次郎が好きなビール『マチルダベイビー』を二本選び、幸次郎に投げ渡した。


「ありがとね。ほい、代金」


 幸次郎はビールを受け取ると、亜沙美を手招きし、店の後ろ側にあるベンチに腰掛け、亜沙美にビールを一本手渡した。


「ありがと」


 亜沙美は笑顔でビールを受け取ると、プルタブを開け、大きな唇を開いて豪快に飲み始めた。


「わぁお、亜沙美の豪快さは昔のまんまだな。あの時は確か、瓶入りのコーラを一気飲みしてたよな」

「だって美味しいんだもん。ビールもコーラも」


 亜沙美は幸次郎のすぐ隣で、気持ちよさそうにビールを飲み干していた。


「ところで今日は帰省か?今、コロナとかで県を跨ぐなって言われてるんだろ?」

「コロナ?」

「あれ?お前、ナースだよな?コロナの患者さん、一杯来てるんだろ?」

「……」


 亜沙美は突然言葉が止まった。


「コロナって、ストーブ?やけどした患者さんなら時々来るけどさ」

「え?マジで?コロナのこと知らねえの?」

「違うの?一体何のこと?」


 亜沙美はどうやら新型コロナウイルスのことを知らないようだ。しかし、医療関係者であれば今最大の課題は新型コロナウイルスへの対応であるに違いない。そう考えると、亜沙美が知らないのはやはり不自然である。


「ま、まあ、田舎に帰ってきたら、仕事のことは思いだしたくないもんな。話題を変えようぜ。高校の時、亜沙美と俺でスクーターで海まで行ったこと覚えてるか?」

「うん!覚えてるよ。ふたりとも授業がつまんなくてエスケープして、廊下で鉢合わせてさ」

「で、俺が通学で使ってたスクーターで、どっか遊びに行こ―ぜって言ったら、お前は二つ返事で『いいよ』って言ってくれてさ。そのままスクーターで二人乗りして、国道をどこまでも運転していったら、海が見えてきてさ。二人ですっげー興奮したよな」

「うんうん!やったー!海だ―!って言って、子どもみたいにはしゃいだよね!」

「そのまま二人で、制服のズボンやスカートまくって波に足浸してさ。冷たくて気持ち良かったよなあ」

「その後も私から幸ちゃんを誘って、時々授業中抜け出してはゲームセンターとかカラオケに行ったもんね。でも、補導員に見つかって、それっきりになっちゃったけどさ」

「あれは俺がバカだった。カラオケでコーラ飲みすぎてトイレに出た瞬間、たまたま見回りにきていた補導員に見つかっちまったんだよな」

「でもさ、楽しかったよ。あれが私の高校時代一番の思い出だったりするんだよ」

「え?」


 亜沙美から返ってきた返事に、幸次郎は不意を討たれたようで思わず体が硬直した。


「ね、幸ちゃん。私、久し振りに海に行きたい」

「ええ?横浜だったら、すぐ近くに海があるだろ?」

「あっちでは海を見に行く時間なんて、ほとんど無くてね。それに……」

「それに?」

「ううん、何でもないよ。な、行こうよ!幸ちゃん、スクーターあるんでしょ?」

「今はスクーターはもう廃車しちゃったよ。スカイラインだけど、いいか?エンジン音が結構うるさいけど」

「スカイライン?いいじゃん、カッコいい車に乗ってるんだね。じゃ、明日の十時にここで待ってるから、絶対来るんだよ」

「い、いいけど」

「バックレないで、ちゃんと来るんだよ!」

「バ、バックレるわけ、ねーだろ!」


 幸次郎が叫ぼうとしたその時、すでに亜沙美の姿は目の前に無かった。幸次郎は燃え盛る迎え火の灯りを元に、辺りを見渡したものの、その姿はどこにも無かった。


 ★★★★


 翌日、まぶしい夏の日差しが照り付け、真っ青な空に白い積乱雲が煙のように湧き上がる朝、幸次郎はスカイラインのエンジンをかけると、耳がつんざくような爆音を上げて、モーターが回り始めた。何度もアクセルペダルを踏むと、エンジンはうなりを上げて勢いを増した。

 唐草模様の派手なアロハシャツに茄子型レンズのサングラスで着飾った幸次郎は、勢いを上げて県道を突っ走り、待ち合わせの場であるコンビニエンスストアの前に停まった。

 すると、そこには笑顔で両手を振る亜沙美の姿があった。

 オフショルダーのセクシーな丈の短いブラウスに、ヒップがはみ出るのではないかと思う位短いホットパンツを履いた亜沙美は、幸次郎に近づくと興味津々に車の中を覗き込んだ。


「カッコいいなあ!高校の時、友達のお兄ちゃんがこういう車に乗っててさ、たまにドライブに連れてってもらったんだよな。このエンジンの音がたまんないんだよね」

「だろ?でも、うちの家族はみんな、うるせーから何とかしろとか言うんだよね」

「そうかなあ?私はこの位音が出なくちゃ、つまんないと思うけどな」

「じゃ、行くか。近くの美根浜みねはまでいいか?」

「うん!」


 亜沙美が助手席に座ると、幸次郎は露わになった少し日焼けした太ももにくぎ付けになった。なるべく見ないようにしていたけど、どうしても気になって、亜沙美が窓の景色を見ている時にちらりと横目で見てしまった。そういえば高校時代、番格だった彼女は引きずるほどの長いスカート履いてたから、こんなにまで生足を見せることはなかった。


「ねえ、海が見えてきたよ!やっぱりこっちの海は真っ青で綺麗だよね」

「あ、そ、そうか」

「幸ちゃん、早くどこかに車を停めてよ!」


 亜沙美の太ももに気をとられていた幸次郎は、あわてて駐車場を探し、やっと見つけた海水浴場専用の駐車場に車を停めた。

 二人の目の前には、県内随一と言われる美根浜の真っ白な美しい砂浜が、その先には真っ青な海が広がっていた。


「すごーい!超キレイ!」


 亜沙美はミュールを脱ぐと、波打ち際を目指して砂浜を駆け巡った。茶褐色の髪の毛が海風に舞い上がるのもお構いなしに、亜沙美は波に足を浸すと、子供のようにはしゃぎだした。


「あの時と……一緒だよな」


 冷静に見つめる幸次郎の視線も気にせず、亜沙美は押し寄せる波に足を浸し、シャツが水に濡れても気にすることなくはしゃぎ続けた。

 彼女の横顔を見た時、幸次郎は突然弾けそうな位に胸が高鳴りだした。高校の頃は、亜沙美を見てもこんな感情は沸き起こらなかったはずなのに。


「幸ちゃん!」

「え?」

「そりゃあ!」


 幸次郎は、真後ろにいた亜沙美から思い切り水をかけられた。


「おい!水まみれだろ、ちょっと!」

「ボーッとしてっからだよ!バーカ」


 そう言うと亜沙美は笑い転げた。

 真夏の太陽の下、二人は時間を忘れて波と戯れた。

 制服姿のまま浜辺ではしゃぎ回った、あの時と同じように……。

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