掌編小説・『バナナ』

夢美瑠瑠

掌編小説・『バナナ』

(これは、今日の「バナナの日」にアメブロに投稿したものです)


掌編小説・『バナナ』


 「サッちゃん」は懐かしい童謡だ。「♪サッちゃんはね。バナナが大好き、ほんとだよ。だけどちっちゃいから、バナナを半分しか食べられないの。かわいそうね、サッちゃん♪」というのは有名なくだりである。

 なぜに「半分しか食べられない」のかは判然としないが、おそらくは「サッちゃん」はまだ消化器官が未発達な幼児に近い年齢の女の子で、親が「バナナ一本は負担が大きい」と判断しているのだろうか?と誰しもが思うと思う。僕もそう思っていた。

 が、サッちゃん自身が半分だけ食べるともうお腹がいっぱいになる、そういう意味だとも考え得る。そこは謎だが、ほかの童謡と同様に、この歌もどこか物哀しくて、3番では、サッちゃんは「遠くへ行ってしまう」らしいのだが、「♪ちっちゃいから僕のこと忘れてしまうかな。淋しいな、サッちゃん♪」となっている。

 かわいらしくて、面白いサッちゃんに男の子はほのかな好意を抱いているのだが、よくあることで、離れ離れになってしまう。子供同士だからもうたぶん二度とは会えない。作者には実際にそういう哀切な思い出があったのかもしれない。

 誰にもそういう子供の頃の思い出があると思う。子供だからと言って未熟なところばかりではない。感情の鋭敏さや、物事から受ける印象の鮮烈さ、瑞々しさは、純粋な分だけ大人をしのいでいるかもしれない。

 童謡なのだから、子供が愛唱できるものでなくてはならないが、大人にとってあんまりくだらないようなものだと、子供にも相手にされないだろう。子供時代ならではのピュアでビビッドな感性を表現しつつ、「ああ、こんな頃があったなあ」と大人にも故郷に帰ったような暖かいノスタルジーを感じさせてくれなくてはいい童謡ではないのだ。

 近代の日本の口語文が文学として百花繚乱に花開き始めたころに作られた、こうした童謡や愛唱歌には独特のユニークなポエジーやノスタルジーがある。

 それは戦前の日本の、いわゆる「大正モダン」の世界なのかもしれない。

 文学にも文学史にもおよそ詳しくはない私だが、こういう今の中高年以上の世代には、懐かしさの極みの数々の童謡、「ふるさと」、「赤とんぼ」、「里の秋」、「春よ来い」、「汽車ポッポ」、「ミカンの花咲く丘」、etcの、詞の世界やメロディの物哀しさには、古き良き日本がだんだんに近代化されて行って、豊かではあるが、心のふるさとのようなものを失っていく、そういう過渡的な時代に生まれた、幼少期への郷愁、追憶に託した「古き良き日本への恋歌」のようにも思える。一流の詩人たちがそうした時代の空気に敏感でないわけはないのだ。


  ”バナナですら半分しか食べられない”そういう頑是ないが限りなく愛おしい「サッちゃん」は、つまり失われていく「古き良き日本」の象徴でもあるのだろう。

 「大人になっていくこと」はつまりそうした喪失と別離を伴うのであり、失われていくからこそ、子供時代はいつまでも輝かしいままなのかもしれないー


<了>

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