第六話



 ――不思議なことに女性は、静寂の中に響く、私の足音になんの反応も示しませんでした。

 こんな人もいない山奥で一人歩く女性が、後ろから迫る足音におびえるでもなく、足を速めるでもなく、振り返るでもなく、悠然と歩いているのです。



 ふと、この女性は全てに気付きながら、起こりうる事を受け入れようとしているのではないか――そんな考えが一瞬よぎりました。あるいは、ついさっきまでの私のように、もう全てに対し無気力なのか――とも。


 もう最期なのだ――襲うなら、犯すなら、好きにすればいい―――そんな風に。


 どちらにせよ、何の根拠もない推測に過ぎません。



 一方、私はさっきまでの無気力がうそのように猛り狂う情欲を体中に渦巻かせていました。



 そして―――飛び掛かったのです。


 女性ともども地面に倒れこみました。やはり女性は抵抗しません。


 遠目からでも、肉感的だとうかがえた女性の体を自由にできる――。そう色めきたちながら、スカートの中に手を差し入れました。



 しかし――。



 手のひらに伝わったのは、何かこう、じゅるっ……という妙な手ごたえでした。ふやけすぎた天ぷらに触れてしまったような―――。 



 異常ともいえるほどに興奮し、気も急いていたので、それをさほど気にせず。押し倒した女性を仰向けにしようとスカートの中に入れた手を、女性の肩にかけました。



 女性の顔が見たかったのです。犯すなら、より美しい方がいい――。そんな身勝手な事を思いながら。

 そして一刻も早くシャツを破き、ブラジャーをはぎとって胸に顔を埋めたかった―――。

 それが、すぐにでもできるのです。相手の意思を置き去りにしたままに。




 女性が、ごろん………と仰向けになりました。やはり何か奇妙な重さが手に残りました。人間ではなく、何か無機質な重たい荷物をひっくり返したような………。



 その手ごたえは、間違ってはいなかった―――。



 頭上の鬱蒼と茂る樹々のあいだから、まるで狙ったかのようにすり抜けた一筋の月光が照らしたものは、目鼻すらもはっきりとせぬ、じゅくじゅくに腐り果てた女性の顔でした―――。



 途端に強烈な匂いが鼻を突きました。



 人間の肉体が腐り果てた時の匂いです。あの戦中、そこらじゅうで漂った匂い――その激烈な悪臭に、胃が激しく波打ち、さっきまで飲んでいたウイスキーと睡眠薬をすべて吐き出しながら、私は仰け反りました。



 そんな馬鹿な……、さっきまで悠然と歩き、遠目にも弾力のありそうな肌が踊っていたのに―――そう思いながら。

 


 その時――錯覚だったのか、月の明かりが、やにわに強くなり、一層、女の顔が明るく照らされました。



 そして―――、



 腐り果てて目鼻もわからぬはずの女の顔が、まるで私をあざけるようにニタっと嗤ったのです―――。



 私は、声にもならぬ声をあげながら後ずさり、気付くと失禁していました。さきほどまで猛り狂っていたはずの私の欲望の硬いかたまりは、力なく萎れ、自分の意思とは無関係に放尿するものに成り果てていたのです。




 ふふ……、ふふっ……、あははは………



 聴こえてきたのは、耳元で囁くような女性の嗤い声でした。



 ………どうしたのよ犯しなさいよ


 ………それから殺すんでしょ



 そんな声が聞こえたような気がしたのです。

 いえ―――きっと信じてはもらえないでしょうが、私は確かにその声を聴いたのです、この耳で――。




 わけもわからず、絶叫しながら、ただただ走りました。何度も転びながら、そのたび立ち上がり、無我夢中で駆けました。


 なぜか麓へ降りるのではなく、上へ上へと――。



 足音もしないのに、すぐ後ろにさきほどの腐乱した女性が駆けてきているような気がして、狂いそうになりながら。



 どれぐらい駆け続けたでしょうか―――。



 やがて―――たどり着いたのがこの寺でした。




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