第6話 最初の夜

 あっさりと出た許可に甘えて、ティルダはシェオルの首周りにぎゅっと抱き着いた。コキュートスの住人らしく、やはり温かくはない。でも、縋りつく相手がいるということは今の不安な状況ではこの上なくありがたい。


 霜を纏った白い毛皮に顔を埋めて、囁く。


「私、嘘は吐いていない……はずなんです。聖女として無私に務めてきたはずなんです。でも、それならどうして地獄に堕ちたりしたんでしょう。それに……どうして生き返りたいとはまったく思わないんでしょう。どうしてそんな、無責任な──」


 鎖がもたらす寒さは激しく、ティルダの声にはかちかちと歯が鳴る音が混ざる。でも、鎖で繋がれても地獄に堕ちても、生きていたころよりはずっとマシだった。疲れも眠気も倦怠感もなく、追われるように移動し続けて祈り続けなくても良い。不調を隠して微笑まなくても良いし、頭も冴えてすっきりしている。


「相応の罪があるなら、罰は受け入れます。でも、私がここにいるのは罰と言うより、あの」


 コキュートスの静かさは、ティルダにはむしろ救済だった。


(地獄に堕ちて良かった、なんて……?)


 そんなことを考えてしまうのは絶対におかしい。聖女ならば、彼女は使命に忠実であるべきであって。このまま凍り付いても良いか、などと思ってはいけない気がするのに。


「我が主は、神はあやまたない、などとのたまいましたが──」


 想いを上手く言葉にできないでいるティルダに、シェオルは思慮深い眼差しを向けた。


「私は主ほどには神を信じておりません。間違うこともあるでしょう。ならば、貴女はここに来た意味を探るべきです。それは、我が主に良い変化をもたらすことかもしれない」

「そんな、ことが……?」

「だからまずはお休みなさい。コキュートスにははっきりとした昼も夜もないのですが。魂にも休息は必要ですから」


 シェオルの鼻先が、ティルダの肩のあたりを押した。横になれ、ということだろう。寝台のしとねももちろん凍っているけれど、シェオルが傍らに寝てくれる。巨大な狼の身体は、ティルダをゆうに覆ってしまえるほどだ。


(寒くて、冷たい……綺麗な世界でもあるけど、寂しすぎて)


 身体を丸めると鎖がまたしゃらりと鳴った。寒さには変わらなくても、シェオルに包んでもらえると少し暖かい気がした。


(花……お花が咲いていれば、良い、かも……)


 そんな埒もないことを考えながら目を閉じると、ティルダの意識はすぐに優しい闇に呑まれた。




 ティルダにとっては、好きなだけ眠れるということも途方もない贅沢だった。もろもろの祭儀や式典、兵の出立や病院の訪問といった予定に合わせて自然と目が覚めるように、彼女に処方される薬は調整されていたのだという。薬による寝覚めは、身体にどんよりとした重さを残す、爽快さとはほど遠いものだった。


「──い、おい……!」

「主よ、目覚められてからで良いのでは? ご婦人の寝室ですよ」

「その前に俺の城だ。お前はなぜ罪人に肩入れするんだ……!」


 だから呼びかけられてたたき起こされる、なんて経験はティルダにはなく、最初はなんだか遠くで騒いでいるなあ、というぼんやり思うだけだった。目が開かないということはまだ寝ていて良いということのはずで。手や頬に触れるふわふわとした感触も心地よいから、まだ包まっていたいと思う。でも──


「地獄で眠りこけるとは良い度胸だな、罪人」


 後ろ襟首を掴まれて持ち上げられては、さすがに寝ている訳にはいかない。急な揺れに、思わずぱし、と目を開けると、ティルダの眼前にはジュデッカの整い過ぎた顔が迫っていた。猫の子を持つように片手で吊るされて、手足をぷらぷらとさせている格好だ。美貌に見惚れれば良いのか、険しい表情に怯えれば良いのか、寝惚けた頭では分からない。


 身動きもままならないし、抵抗して良い立場でないのだけは覚えているから、ティルダは口だけを動かした。少なくとも、死んだ身だと痛いとか息が詰まるとかいうことはないから、良かった。


「え……? あ、あの、申し訳ありません……! シェオルさんが良いというから、つい甘えてしまって──」

「そんなことはどうでも良い」


 ジュデッカの怒りは、勝手に寝台を使ったことかシェオルを抱き枕にしたことに対してだろうと思ったのに。ティルダが慌てて謝っても、彼の表情が和らぐことはなかった。短く吐き捨てた勢いのまま、そしてティルダをぶら下げたまま、ジュデッカは身体の向きを変える。寝台を背にして、部屋の中央をティルダに見せつけるように。


「お前、ここで──この俺の氷の牢獄コキュートスで、いったい何をしてくれた……!?」


 ジュデッカがティルダに突き付けたのは、長椅子に囲まれた、拓けた空間だった。もしもここがお城だったら、ちょっとしたダンスを踊ったり、着飾った貴婦人たちがドレスを比べ合ったりするのにちょうど良いのかも、くらいの。


 もちろん何もかもが凍り付いたこの地獄コキュートスでは、笑いさざめく声が響くこともなく、美しい調度も霜と氷で白く覆われているばかり──少なくとも、彼女が目を閉じる前はそうだったはずなのだけど。


「……え……?」


 部屋の真ん中のほんの小さな一角だけ、氷が溶けてその下の鮮やかなタイルの色を覗かせていた。お湯でもかけたらそんな風になるのかもしれないけれど、この城の寒さの中では水さえ液体のまま存在することはできないだろう。だから、氷を溶かしたのはまた別の現象だった。


「……お花?」


 石の床に根を張って、一輪の花が白く凍った室内に色を灯していた。


 すっと真っ直ぐに伸びた茎は薄緑、瑞々しい葉はより濃い色で、先端には薄紅色の花が蕾をほころばせようとしているところだった。花の形は薔薇に似ていて、でも、花びらの一枚一枚はもっと薄く、レースを重ねたように見える。ごく薄い花びらが重なり合った蕾の根元の色は真紅に近く、開いた先の方は朝焼けの雲の端のように淡い色。風のない、空気さえ凍てついた部屋の中でも色の重なりが揺らめいて温かい太陽の日差しを思わせる──そんな、可憐な花だった。

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