十年間の夏休み

尾八原ジュージ

十年間の夏休み

「女子高生になって初めての夏休みだぁー!!」

 と叫びながらミッチが教室を駆け出していった七月のあの日、空はめちゃくちゃに青くて、渡り廊下の床はめちゃくちゃに熱かったことを覚えている。

 ミッチは十六歳だった。有体に言えばあまり頭のよくない女の子で、その分何かを始めるときの勢いは凄かった。荷物も持たずに教室を駆け出していったミッチは数分後、その勢いのまま正門の前でトラックに轢かれた。彼女の突飛な行動を散々見てきた幼馴染のわたしも、さすがにこれにはびっくりした。

 祭壇に飾られた遺影の中のミッチは、高校の正門の前で変顔しながらダブルピースをキメていた。なんでこの写真? 遺影だけにイエーイってかと思った途端、なぜか突然涙がぼろぼろとこぼれた。

 わたし、ミッチがいなくなって案外悲しいんだな、とこのとき初めて知った。棺桶の窓は一度も開けられなかった。


 以来、ミッチは十年間ずっと夏休みのままだ。教室から駆け出していったときのテンションのまま、あちこちをドカドカと駆け回るだけの幽霊になってしまった。

 セーラー服のままドカドカドカッと走ってきて、「ようサオリン、夏してる!? またね!」と私に声をかけ、またドカドカッと去っていく。幽霊のくせに、ミッチは足音がめちゃくちゃでかい。声もでかい。

 十年前の七月、ミッチは夏休みを本格的に楽しむ前に死んでしまった。だから未練が残って、幽霊になってしまったのだろう。

 幸いミッチが見えるのは、霊感が強いわたしと霊媒師をやっているうちの母、それにミッチの両親くらいだった。そのため、近所迷惑にはならずに済んでいた。

 それでもさすがに十年は放置し過ぎた。七月末のよく晴れた日、すっかり老けてしまったミッチのお母さんが、「困ったわぁ」と言いながらうちの母を訪ねてきた。

「あの子ってば夏でも冬でも、急にうちの中に出てきてドカドカ走り回るんだもの。いつまでもこれじゃ落ち着かないわよ」

 幽霊になった娘が、年がら年中その辺を走り続けて十年……さすがにうっとおしいかもなと思った。やはりミッチには何とか成仏してもらった方がいい。今更だけど。

 そんなわけで、ミッチの夏休み充実計画が十年越しに始まり、その実行役はわたしが担うことになった。なぜかといえば暇だったからだ。たまたま勤めていた会社が倒産したばかりだった。

 まずはニーズのリサーチだ。ミッチが夏休みに何を求めているのか、それを知らなければならない。

 もって回ったことが面倒なので、わたしは直接尋ねることにした。次の日の朝、高校の校門の近くで待っていると、案の定ミッチの幽霊がドカドカと現れたので、わたしは彼女に並走した。走るのなんてひさしぶりで、すぐに息が上がってくる。

「おいミッチ! あんた、夏休み夏休みっていうけど、さ、具体的に、夏休みに、何がしたいわけ!?」

「燃えるような恋がしたーい!!」

 ミッチは叫んだ。

 片腹痛いとはこのことである。お前、なんでそんな相手が必要なことを。ミッチが見えるのは彼女の両親と、それからわたしの母とわたし自身しかいないのに。ああそれなのに、燃えるような恋がしたいとはこれいかに。

 でも言われたからにはやらねばならない。ミッチに夏休みを満喫させ、現世への未練を断ち切って成仏させなければならない。さもなくば失業ゆえに猶予してきた生活費を耳を揃えて払ってもらうと、わたしは母から言い渡されている。

 わたしは腹をくくって、走るミッチに手を伸ばした。幽霊だからどうかな、と思っていたが、幸いその腕をギュッと掴むことができた。自分の霊感体質に感謝しつつ、わたしは驚いているミッチを近くの塀に押し付けた。

「え? は? 何? どうしたサオリン?」

 わたしは泡を喰っているミッチに壁ドンしながら、

「それって、わたしとじゃ駄目?」

 と彼女の目を見て訴えた。気分はまるで少女漫画に登場するやや強引なイケメンだった。

 ミッチを恋に落とすならこれしかない、というか、とりあえずこれが一番手っ取り早いはずだ。ミッチの恋愛対象は主に男性だろうけど、それでもわたしは「ミッチなら落とせる」と踏んでいた。幽霊にとって時間経過がどんな風に感じられるものかわからないが、おそらくミッチはバカで初心な十六歳の乙女のままだろう。一方わたしは十年分人生経験を余計に積んだアラサーで、その中には彼氏ができたり別れたりした一幕も何度かあった。それにわたしの方が背が高くてギリギリ男役っぽい。やれる。否、やってやる。

 ミッチのひとりやふたり落としてやると強気で挑んだのがよかったのか、壁ドンされた彼女は顔を真っ赤にしながら、なに言ってんのサオリンあたしたち女の子同士じゃない、などと言ってモジモジしている。おそらく驚いてドキドキしているのを、恋のときめき的なものと勘違いしているのだ。

 やはり、いける。

 わたしは思い切ってミッチにキスをした。思いのほかいけそうだったのでディープキスに変更した。視界の端に不審人物を見る目で通り過ぎるおじさんが映ったが(たぶんおかしな女が塀の一部を凝視しながら舌をペロペロしているように見えたのだろう)、かまわず続行した。

 やがて唇を離したときには、ミッチは突然の出来事にフワンフワンになっていた。それはもう、見るからに浮足立っていた。純真無垢な乙女ゆえに、わたしの勢いとベロチューとに飲まれてしまったのだ。

「わたしじゃ駄目?」

 もう一度聞くと、ミッチは私の空いた方の手を掴んで「だめじゃないです……」と消えそうな声で言った。ミッチのこんな声を聞くのは初めてだった。

 途端にわたしの肩がズドンと重くなり、わたしは「あ、とり憑かれたな」と悟った。ミッチは意外と重い女だったのだ。


 次の日から、わたしは近隣のデートスポットというデートスポットを単独で巡る女になった。むろんミッチが一緒だが、普通の人には彼女が見えないので、傍から見ればソロ活動である。

 大きな公園に行ってボートに乗った。もちろんわたしが漕いだ。ミッチはわたしの向かいに座って、時々水に指先を入れてみたりした。生前のようにはしゃがず、もじもじしているのがおかしかったので、わたしは中腰になってミッチに軽くキスをした。ミッチは幽霊のくせにボートから落ちそうになった。

 遊園地に行った。お金はミッチの親が出してくれたので、二人分のフリーパスを購入した。ホットドッグもポップコーンも二人分買って、わたしが根性で全部食べた。コーヒーカップに乗ってぐるぐる回すと、ミッチは大口を開けてげらげら笑った。お化け屋敷に入ると、ミッチは幽霊のくせにギャアギャア騒いで、わたしの腕をぎゅっとつかんだ。

 観覧車にも乗った。ミッチは向かい側じゃなく、わたしの横にちょこんと座ってそわそわしていた。わたしはまたなんだかおかしくなって、また軽い気持ちでミッチにキスをした。こんな風に女の子とチュッチュチュッチュすることなんて今までなかったのにな、と思いながら、結局観覧車が一番高いところを通り過ぎるまで唇をくっつけていた。

 夏祭りにも行った。ミッチは相変わらず夏のセーラー服だけど、わたしの浴衣姿をでっかい声で何度も褒めてくれた。二人で並んで花火を観た。人混みではぐれないように手をつないだ。ミッチはわたしにとり憑いた幽霊だから、人波に押されてはぐれるなんてことはないけれど、それでも。

 なんかこれ楽しいな、なんて思い始めた頃、もう八月は後半に入っていた。

 そんなある日のことだった。わたしは中野くんと再会したのだ。


 中野くんは高校時代から二年くらい付き合った元彼である。大学進学にあたって物理的な距離ができたから別れてしまったけど、付き合っていたくらいだから顔はタイプだったし、今見ても結構かっこいいなと思った。

「こっちに転勤になったんだよ」

 近所のホームセンターでたまたま出会った彼は、昔よりもぐっと垢ぬけていて、なのに話し始めるとわたしは懐かしさでいっぱいになった。

「さおり、今何やってんの?」

「実家の手伝い。働いてたとこが潰れちゃって」

「大変だなぁ。そうだ、今度飲みにいかない? さおりの慰労会ってことで奢るよ」

「いいの? 行きたい」

 生身のイケメンと話すなんて、楽しくないわけがない。まして青春を共有した同士、おまけに相手のことが嫌いになって別れたわけでもないのだから。彼がずっとこっちにいたらいいな、なんて考えていたら、急に肩がズドンと重くなった。

 ミッチだ。まずい。

「大丈夫? なんか具合悪そうだけど……」

「だ、大丈夫。ちょっと貧血でね……今日は帰って休むわ。じゃあね」

 中野くんに手を振って、買い物もそこそこに歩き出した。途中でミッチが、後ろから左肩に顎を載せてきた。

「今のダレ?」

「し、知り合いだよ」

「サオリン、スッゴイ楽しそうダッタネ……なんかこう『女』って感じの顔シテタネ……」

「ミッチさん、カタコトですね……」

 怒るとカタコトになるのは、小さい頃からのミッチの癖だ。その口調に彼女の怒りや嫉妬がぎっちり込められていることを、わたしはよく知っていた。

 とにもかくにも、わたしは実家へと向かった。高校時代からろくに変わっていないわたしの部屋の、水色のシーツをかけたベッドの上に体育座りしたミッチは、どす黒い顔でこちらをじっと見つめた。幽霊なので、表情というか顔色の変化がえぐい。

「サオリン、さっきのイケメンはなんなんデスカネ……」

「あの、同級生ですね」

「サオリンはああいうひとが好きナンデスネ……?」

「い、いや、そうではなくて」

「ではなくて何!? わかるよ! とり憑いてんだからさぁサオリンに!」

 部屋のライトが激しく明滅し、本棚から本がバサバサと落ちた。ポルターガイストだ。

 ミッチはガバッと立ち上がり、わたしの顔を両手で挟むと、初めて自分からキスをした。不慣れで真面目で、胸が痛くなるようなやつを。

「……サオリン、あたしのこと、好き?」

 唇を離したミッチがわたしの顔を覗き込む。

 わたしは口をつぐんでしまう。何せミッチは十六歳の乙女だから、まだ純粋で、まっすぐで、わたしにチクチクした罪悪感を抱かせる。

 頭悪いだの初心だのと思っていたけど、ミッチはもう全部わかっていたんだ。わたしはミッチの目を見て、そのことをようやく知った。今日このときまで気づかなかったなんて、わたしの方がよっぽどバカだ。

 わたしは顔を伏せたまま呟いた。

「……嘘だっていつから知ってたの」

「遊園地くらいから」とミッチは答えた。

「まじか……お盆前じゃん」

「さすがにね。とり憑いてるからね」

 ミッチはベッドにもう一度腰かけ、両脚をブラブラさせた。わたしは彼女の足が、ちょっとだけ透けているのに気がついた。

「ね、ねぇミッチ」

 わたしの言葉を、ミッチが遮った。

「ねぇサオリン、海に行こうよ。海デートしよ」


 海はあの世につながっている。

 と、いつだったか母が言っていた。少彦名命しかり、浦島太郎の亀しかり、異界からのまれびとは海から来て海へと帰る。理屈とかは知らん、そういうものだ、という。

 それを知ってか知らずか、幽霊のミッチは海にわたしを連れてきた。今、彼女は右手に海を臨みながら砂浜を歩いていく。

 ミッチと並んで歩きながら、わたしは彼女がいなくなってしまうのを恐れていた。ミッチがもう一度いなくなるなんて、そんなの寂しいに決まっている。ふと振り返ると、砂浜に一組だけの足跡が続いていた。

「誰もいないねぇ」

 ミッチが言った。

「今の時期はね。クラゲが出るから」

「ふうん」

 潮騒が耳を打った。

「八月も終わりだね」

 またミッチが口を開いた。

「そうだね」

「あーあ、九月からまた学校かぁ……なんつってな」

「……」

 わたしはすっかり会話がへたくそになって、黙ってミッチの隣を歩いた。自称「人生経験豊富なアラサー女」がこれだから呆れるよ、と思いながらつないだミッチの手は、冷たくて柔らかくて、十代の女の子の気配がした。

「サオリン、あたしねぇ……この夏、かなりドキドキしたよ。これが恋かはわかんないけど……いや、恋だな。きっと恋だよ」

 そう言ったミッチの顔は透けて、ほっぺたの向こうに海が見えていた。わたしは彼女の手を握り直した。

「……違うよ。ただちょっと珍しいシチュエーションに酔っ払ってただけでしょ。錯覚だよ。恋じゃない」

「違わないよ、途中で嘘だってわかってもドキドキしてたもん。やっぱりこれは恋だよサオリン! ありがとう!」

 ミッチの手が離れたかと思うと、彼女の顔が突然わたしの正面に移動して、両肩に手が置かれた。白いソックスを履いた足が、空中にふわふわと浮かんでいた。小さな唇がわたしの唇にちょっと触れた。冷たい。

「ちがうよ……」

 そう言ったとき、もうミッチの姿はなかった。とり憑かれた時特有の肩の重みも感じない。

 終わったのだ。あっけなかった。十年間の夏休みは終わってしまって、もう二度とやってこない。

 わたしはのろのろと駅に向かって歩き出した。帰って母に報告しなければならないのに、やけに体が重い。もうミッチはいないのに。

 すれ違ったおばさんがこっちを振り返った。いつの間にか涙がぼろぼろこぼれていた。もうおかしな女と思われてもいいやと思って、わたしは一人ぼっちで泣きながら重たい足を運んだ。どこかでヒグラシが鳴き始めた。

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