第17話 海に映る雲

新緑が目立ち始めた山あいの道路を赤いVWゴルフが疾走していく。

絵になる光景かもしれないが、後ろをついて行く功は大変だった。

功が運転しているのは古びたキャブオーバータイプの軽四輪自動車なので、先行する車のぺースについていくのは無理がある。

「行き先がわかってるから無理について行かなくてもいいよ。運転してるのが茜さんだから、後続車に気を使ったりする余裕がないんだろ」

ナビシートの山本事務局長がのんびりとした口調で言う。

今日は日曜日で研修はお休みなのだが、農業体験研修所で一緒に体験研修を受けた茜が榊原と一緒に功を訪ねて来たのだ。

互いの近況を話しているうちに、たまたま通りかかった山本事務局長が宿舎の外に止めてあった榊原の車に気付いて立ち寄ったため、いつのまにか、榊原が見つけた耕作放棄された農地を見に行くことになったのだ。

「休日に付き合わすみたいになって悪かったね。昨日は野口や真紀と釣りに行ったのか?」

「ええ結構、釣れましたよ。僕は七十センチ級のカンパチを釣ったし、真紀ちゃんはでかいタイを釣っていましたよ」

「そうか、そりゃよかった」

山本事務局長は前を行く赤い車影に目を戻した。

榊原は受託作業の手伝いに来てくれるのでしばしば会っていたが、仕事がある時に山本事務局長が呼び出しているため事務所に常時いるわけではない。

山本事務局町は懸案になっていた榊原の農用地確保のために耕作放棄地を使えるかどうかを今日見定めるつもりなのだ。

しばらく走ると茜が運転するゴルフは、幹線道路を外れて山沿いのわき道に入っていく。

そして、対向車が来ればすれ違うのが困難な細い道を抜けて行き、道路端の空き地に駐車した。

そこは両側を切り立った山に挟まれた谷間だった。

谷の奥まで小川に沿って道路が通じており、反対側の山裾との間の水田が点在している。一筆が十アールに満たない水田が数十センチの段差で谷奥までつづいているのだ。

そして、その水田の管理状況は残念ながらあまり良くなかった。

人の背丈ほどの雑草が生い茂り、中には灌木も混じっている。

「耕作放棄されて五~六年というところだな。これをいったいどうするつもりだ」

山本支所長が問いかけると榊原は答える。

「もちろん、自分で開墾してきれいにしてから、野菜を作る。これ全部合わせたら一ヘクタール超えるから僕の計画にちょうど良いんだ」

榊原のポジティブな考え方は変わっていない。

「まさに開墾だな。こんな所を苦労して畑にするより、もっと日当たりも良くて条件の良い土地を探した方がいいと思うけど」

「あんたはそう言うけど現に一年以上かけて探しても、僕の希望に合う農地は貸してもらえない。貸してさえもらえるなら、この土地を少しづつ使えるようにした方が早そうだよ。それに、ここは周囲からの農薬のドリフトの心配がないし、化学肥料や化学農薬の使用履歴も過去数年間に遡っても無いわけだから、有機JASの認証が取りやすいんだよ」

この二人が話をするといつもこんなやりとりになる。

「わかった。そこまで言うなら農地の利用権設定を農業委員会に頼むようにしよう。その前に、この雑草、をうまくやれば補助事業使って片付けられるかもしれないが事業申請する気はあるか」

「そりゃあ、補助金が出るならそれに越したことはないけど。俺がやろうとしている有機栽培でもそういうの認めてもらえるわけ?」

支所長はしばらく考えていたが、榊原に向き直った。

「日曜日だが役場の森永君に聞いてみよう。どのみち農業委員会には行かなければならない」

山本事務局長はすでに自分の携帯電話を取り出していた。

休日お構いなしで役場の職員に確認するつもりらしい。

山本事務局長が通話をしている間に功は榊原に尋ねる聞いてみた

「ここではどんな野菜を作るんですか」

「うん面積が一番大きくなるのはブロッコリーだと思うな。後は、菜花にトマトとかパプリカなんかの果菜類も入れていきたいね」

榊原は無農薬で栽培を売り物に通販や直接販売をするつもりなので、功たちが計画している一種類の野菜だけ作る経営形態とは違う。

「栽培もしながら自分で販売するのって大変なんじゃないですか」

「しばらく会わないうちに勉強したみたいだね。言われるとおりお得意さんを作って、戸別販売するのも限界があるみたいでね、『キャロット坊や』とか『厚生会』みたいな専門の仲卸業者に卸したり、最近増えた地元スーパーの直販コーナーに置いてもらうことも考えてるよ」

榊原と功がそんな話をしているのを隣で茜が笑顔で見ている。

ここに農場ができた暁には榊原と茜が仲良く野菜を作って暮らしていくのだろう。

体験研修の時、茜のほのぼのとした雰囲気に好意を抱いていた功は少し心が痛む。

「榊原君。おまえ補助事業を使える要件というやつをほとんどクリアしてるから、自分の負担は無しで工事ができるかもしれないよ」

「うそ、そんな事ってあるわけ。うまいこと言ってだまそうとかしてないよな」

榊原は軽いノリで山本事務局長に答えるが、山本事務局長は真面目な顔で榊原に尋ねる。

「うちで研修している時に認定就農者の認定は受けただろ」

榊原が頷いた。

「少なくとも五年は主食米以外をつくることっていう条件があるが、あんたは畑があれば当分の間野菜を作ってくれそうだからね。他にもいろいろあるんだが、国の交付金に県の補助事業を追加して負担金はなしにしてくれるらしい。後は土地の持ち主との交渉だが、以前連絡して頼んでいたので森永君があらかたの地権者と連絡を取ってくれたようだ」

山本事務局長の言うことが本当らしいと納得した榊原は茜とはしゃぎ始めた。

「それで、俺は何をすればいいの」

一通り騒いだ榊原は山本事務局長に訊ねた。

「いろいろあるよ。土建屋でも造園業者でもいいから数社から工事の見積書を取って、事業申請書を書けってことらしい。とりあえず町役場の係長に相談に乗ってもらえよ」

「森永君じゃないのか」

「担当が違うってよ」

榊原はしばらく考えていた。

「俺はお役所系の書類を作るのは、死ぬほど苦手なんだけどな」

「自分のことだから文句言わずにやれ」

山本事務局長が言葉少なく叱咤すると、榊原はゆっくりとうなずいた。

両側から迫る急な斜面に挟まれたわずかな荒れた土地。丈の高い草と雑木が生い茂った谷が榊原にとっては、これから生きて行く生活の場となるかもしれなかった。

榊原や茜達と別れた功は宿舎に帰って昨日釣った魚の料理にチャレンジした。

料理と言ってもすでに三枚におろしてある魚を刺身に切るだけだ。

自分の持っている切れない包丁で不揃いな厚さの刺身が出来上がったが、素材が良いおかげでとても美味しい。

釣り上げた直後の弾力のある歯ごたえは無いが、代わりに魚の旨味は強くなっており、都内の料亭で食べたら相当な金額だろうなと思える。

功がカンパチの刺身を食べ終えたころに、功の耳に聞きなれた自動車のエンジン音が響いた。

それは真紀の乗っているインプレッサSTIの音だった。

功が窓からのぞくと真紀のブルーのインプレッサが走り去るのがちらりと見えた。

休日なのになぜ彼女がこのあたりをうろうろしているのだろうと功は怪訝に思った。

臼杵集落は幹線道路から外れたロケーションなので、わざわざ来ない限りは通りかかる可能性はない。

功が宿舎の外に出てみると、宿舎の前の町道を野口の車がこちらに来るのが見えた。

彼が父親と共用している黒のセダンだ。

功の姿を認めると野口は車を止めてサイドウインドウを上げた。

「功ちゃん、真紀ちゃんがここを通らなかったか?」

「彼女のインプレッサが通るのを見ましたよ」

功の言葉を聞くと、野口はがっくりとうなだれた。

「いったい何があったのですか」

功に問いかけられて、野口は車を宿舎の駐車スペースに寄せて、今しがたの出来事を話し始めた。


野口は真紀を昼食に招いていた。

前日の夕方は釣行から帰ったばかりということもあり、叔母に釣った魚を見せたいという真紀は自宅に帰ったが、日曜日の朝に改めて食事に招待したら真紀はあっさり応じたのだ。

野口は母親にも頼んで、前日に釣った魚の料理を準備した。

カンパチをはじめ、皮つくりにしたクロダイやヒラアジの刺身、大物のあらを使ったあら煮や潮汁、そして目先を変えてフィッシュフライも作った。

真紀は約束の時間丁度に野口の家に現れ、庭先に自分の車を止めて玄関に向かう真紀がスカートをはいているのを見て野口はドキッとする。

日頃の彼女は無粋な作業服姿が多いからだ。

「おじゃまします」

玄関から上がり込む真紀を野口はいそいそと迎えた。

「いらっしゃい。今料理を出すからこっちに座ってよ」

田舎の家は、客用の広間がしつらえてある。座布団を敷いた席に真紀を案内した野口は、料理を運び始めた。

「すごい。野口君こんな盛り付け自分でできるのね」

真紀が歓声を上げるのを聞いて、野口はここ数か月の間彼女を誘ってきた努力が報われる思いだった。

だが、野口が暖かい料理を運ぼうと台所に戻ったときに、母親は野口の服の裾を掴んで止めた。

「今日はおもてなしするけど、あの子と付き合うのはやめなさい」

何の冗談を言っているんだと思った野口は少し引きつった笑顔で言い返した。

「なんでそんなことを言うんだ。農業に興味があってあんなに気が利く子はこの辺にいないだろ」

しかし、野口の母は引く気配を見せなかった。

「あの子は福島の原発事故で放射能を浴びているからお前の嫁にすることはならん」

野口は自分の顔から血の気が引くのを感じた。

テレビや新聞の報道で放射能汚染に関する風評被害の話や、県外に避難した人たちが学校でいじめに遭ったりしていることを散々見て、自分は絶対にそんなことをするまいと思っていたのに、こともあろうに自分の母親がそれを言い始めたからだ。

「いくらお母ちゃんでも、人として言っていいことと悪いことがある。その言葉取り消せ」

野口は目をいからせて母親に詰め寄った。

野口は両親を大事にしていて近所でも評判なのだが、彼にも譲れないことがある。

「いいや。あの子がいい子だとは思うが。野口家の後取りを産んでもらうわけにはいかん」

野口の母親も一度言い始めたら聞かないところがあった。

二人が何度目かの押し問答をしている時に庭先から車のエンジン音が聞こえた。

野口が話を聞かれれていた事を悟り、玄関に出た時には真紀は自分の車で走り去った後だった。

野口は一部始終を功に話し終えてから頭を抱えた。

「功ちゃん、俺はどうしたらいいだろう。きっと俺の母親の言葉は彼女を傷付けているはずだ」

当たり前だろと功は心の中で毒づいたが口には出さなかった。

野口の打ちひしがれた様子は気の毒になるくらいだったのだ。

そして、功は野口よりも真紀の事が気がかりだった。

「野口さんは、今日は彼女を追いかけないほうがいいと思いますよ。僕が彼女のおばさんの家に電話をかけて、家に帰っているか聞いてみます」

功の言葉は野口を聞いてさらに落ち込ませたが、功は構わずに真紀の叔母の家に電話をかけた。

「真紀ならまだ帰っていないわよ。野口さんのお家でお昼をいただくと言っていたから、夕方になるんじゃないかしら」

真紀の叔母は普段と変わらない様子で答える。

功がそのことを告げると、野口はゆらりと立ち上がった。

「やっぱり俺は探しに行くよ。真紀ちゃんに何かあったら俺は自分で腹を切る」

功は腹を切るという時代がかった野口の言動にあきれて彼の顔を見たが、野口は本気のようだ。

功はため息をついて言う。

「それじゃあ、僕も一緒に探します。手分けして町内を回ってみましょう」

結局、野口を手伝うことになった功は、わだつみ町の中心街から東に行くことにした。野口はそこから西に向かう予定だ。

探したところで自動車で移動する真紀が町内にいるかも定かでないが、何もしないと野口の気が済まないに違いない。

功はあてもなく田舎道をうろうろしながら途方に暮れた。


そのうちに、功は前日釣りに行った時に通過した道に入り込んだ。

そして海岸から山の上に向かう道を走るうちに、真紀がその辺りに海を見に来ることがあると言っていたのを思い出した。

功は真紀が訪れると言った場所を必死で思い出しながら車を走らせ、山の尾根に出て道なりに走るうちに、彼女のインプレッサが道端に止めてあるのを見つけた。

そこはヒノキの林を伐採した後、新たな苗木も植えずに放置されて荒れ放題の斜面だった。

荒れた斜面故に、見晴らしがいいので真紀が景色を眺めるために時折立ち寄るらしい。

その時、真紀がひときわ大きく怒鳴った声が功に届いた。

「畜生、バカにしやがって」

真紀は怒鳴りながら一抱えもありそうな石を持ち上げると力いっぱい斜面の下に投げおろした。

石は斜面をしばらく転がって止まるが、功は若干身の危険を感じながら、斜面の下から真紀のいるところに登り始めた。

「馬鹿野郎!」

再び真紀の声が響いた時、功は足元の切り株に気を取られていた。

真紀の声に顔を上げると、功の目の前に直径が5センチメートルほどもある枯れ枝がクルクル回転しながら飛んでくるところだった。

枝は功の頭にぶつかり、功は頭を抱えてうずくまった。

「いってええ」

功が痛みにうずくまったままでいると、頭の上から声が聞こえた

「功ちゃん、こんなところで何しているのよ」

功の姿に気が付いた真紀が功の少し上まで斜面を下りていた。

「ご挨拶だな。いくら人気がない場所でもこんな大きな枝を投げたりしたら危ないだろ」

功はいつもと変わらない口調で応えるが、真紀はすぐに功が野口から話を聞いて自分を探しに来たのだと悟った。

「こっちに来るな」

真紀はさらに手近に落ちていた木の枝を投げつける。

今優しい言葉などかけられたらきっと泣く。真紀はそんな姿を見られたらなんだか自分の負けのような気がしたのだ。

「野口さんから話を聞いたよ。彼とお母さんの話を聞いたんだよね」

「そうよ。たいして広くもない家で声高に言い争いをして聞こえないわけがないでしょ」

真紀はさすがに物を投げつけるのはやめたが、功には心なしか彼女の髪の毛が逆立っているように見える。

「野口さんも心配していたから、もう帰ろうよ。あの人は真紀ちゃんに何かあったら腹を切ると言っていたよ」

「ふざけるな。腹を切る以前にあんな母親がいるなら私を呼ばなければいいのよ」

真紀は、野口とまじめに付き合うことさえ考えていなかったのに、その母親が自分を冷たく拒絶する言葉を聞いて、自分自身の価値が暴落したような気がしていた。

功は真紀の癇癪が手に負えないような気がして途方に暮れる。

「どうして、こんな南の果てのような土地に来ても原発事故の風評が私を追いかけてくるのよ。もう我慢できない」

真紀は再び木の枝を投げつける。

功は木の枝をかわして真紀のそばまで来たが、どんな言葉をかけたらいいか思い付きかなかった。

真紀は暴れるのをやめて斜面にしゃがんで、遠い海を見ている。

功もその横に並んだ。

はるか下の波打ち際から水平線まで広がっていく海面には、午後の日差しを受けた雲の姿が映しこまれていた。

二人が無言で見つめる前で雲はゆっくりと流れていく。

「どこに行っても生きていくのって大変だよね」

功は思わず自分の本音をつぶやいた。

楽園を探し求めてもそんなものはどこにも存在しないのかもしれない。

真紀の目からポロポロと涙が流れ落ちた。

「ばかぁ」

真紀が小さくののしってから泣きじゃくる背中に功は手を添えた。

功は、気の利いた慰め一つも言えない自分にうんざりしながら、真紀の隣に黙って寄り添っていた。

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