第5話 最初の壁
功達研修生はナスの収穫作業に続いて誘引作業の研修に入った。
ナスなどの果菜類は茎にひもを巻き付けて引っ張り上げてやらないと自分の重さでおれてしまう。
そのため、頭上に張ってあるワイアーに茎に巻き付けたひもで引っ張り上げる作業を誘引と言うのだ。
野菜の茎は生育中はどんどん伸びていくので、一度ひもを緩めてから新しく伸びた茎に巻き付け、ひもをワイヤーに結び直す作業を数日おきに繰り返す必要がある。
功たちが研修したハウスでは時期的にすでに摘心した枝も多かったので、まだ伸び切っていない枝を使って誘因作業を体験することになった。
功が割り当てられたエリアで誘引作業をしていると、同じ研修生の吉田が話しかける。
「功君。そんなに枝ごとにきっちりと巻き付けていたら、日が暮れてしまうよ。間を飛ばして緩くまいてもちゃんと決まるものだよ」
吉田の言葉は要約するとひもの巻き方はもう少しルーズでいいからペースアップしろと言っている。
「そううまくできませんよ。それに腕を上げっぱなしだから疲れてしまって」
「そんなことを言っていたら自分が農業始めたときにどうするつもり?実際に経営するならこのハウスの十倍ぐらいの面積を一人で回していくんだよ」
功は周囲を見回したが研修用のハウスは2アールの面積だと説明で聞いており、吉田言うとおり、今の功のペースでは研修用ハウスの面積をこなすすだけでも一日では終わらない。
「早くしないと先生に叱られるよ」
吉田は功の背中をポンとたたいて自分の作業に戻った。
彼の言葉は方言が多くて聞き取りずらくその仕草も粗っぽいが、その眼差しには親しみがこめられているように功は感じた。
2月とはいえ温室の中は蒸し暑く、研修生たちは汗を拭きながら野菜の茎にひもを巻き付けてワイヤーに結び直す作業を黙々と続ける。
まるでどこかの新興宗教に加入して修行させられているみたいだと、功が不穏当なことを考え始めたころに、やっと割り当てられた作業が終わった。
ほっと息をつきながら振り返ってみると功が作業したのは二十メートルに満たない長さでしかない。
吉田さんの言う通りで、相当スピードアップしないと本物の農家にはなれそうにないが、それでも功は自分の作業の効果に驚いていた。
作業前は枝や葉が伸びすぎて通路や畝の真ん中にはみ出していた茎が功の誘引作業の成果でびしっと整列しているのだ。
「物作りの感動とはこういうものなのか」
功が今までにした仕事は努力の結果が目に見えることはあまりなく、あるとすれば受注した印刷物の完成品だがそれとても、大半はクリエイタースタッフの手によるものだ。
功は自分の作業が形として残ったことに大げさなくらいに感動していたのだった。
その時、出かけていた川崎が戻り、山本局長に鍵を返しながら報告していた。
「西山さんの部屋、荷物が運び出されて空き部屋状態になってる」
「やっぱりそうか、引き留められないように、完全に引き払ってから手紙で連絡してきたのかもしれないな」
腕組みをして考え込む山本局長に、岩切が尋ねる。
「彼は研修支援の補助金をもらっていただろう。就農しなかったら全額返還になるかもしれない」
「役場の農業振興課に相談してみるよ、結局なるようにしかならないだろう、本人に就農する意志がないのに無理矢理農家に仕立てるわけにも行かない」
山本局長は肩をすくめた。
「それよりもこれから田植えのシーズンなのに、オペレーターが1人減る方が痛いな」
二人が深刻な話をしている時、背後で叫び声があがった。
「誰、ここの主枝を切ったのは」
それは川崎の声だった。
功が自分が失敗した茎のことだと気づいて、おそるおそる手を挙げると、彼女は功の前につかつかと歩いて来た。
功が言い訳の言葉を考えていると、山本局長が助け船を出す。
「真紀、初めての作業なんだから大目に見てやれよ、この前みたいに全部の主枝をちょん切ったわけでもないんだし」
真紀は立ち止まると、鼻から息を吹き出してから功を指さした。
「今日の所は大目に見てやるけど、今度からこんな間抜けなことをしたら許さないわよ」
言いたいことを言うと彼女はくるりと後ろを向いて温室から出て行き、功は自分がそんなに悪いことをしたのだろうかと涙目になって彼女の後ろ姿を見送るのだった。
その時、硬い雰囲気を和らげるようなのんびりとした声が響いた。
「皆さんちょっとこちらに集まってください」
岩切の声に研修生たちはぞろぞろとそちらの方に集まっていく、岩切はA4サイズのラミネート加工された資料を何枚か抱えていた。
「野菜のハウス栽培では、アザミウマ類や、アブラムシ、それにダニ類などの害虫の発生が問題になります。」
資料にはあまり見たことがない昆虫の写真が印刷されている。
「まほろば県ではこれらの害虫を補食する天敵を活用する農業に取り組んでいます。害虫をそれを餌とするほかの昆虫に食べてもらって農薬の使用量を減らす試みです」
功はアブラムシ以外は存在すら知らず、あまつさえアブラムシも最初はゴキブリのことかと思ったくらいである。
功は密かに他の研修生の様子を窺った。
茜はにこにこしながらうなずいているが、その他二名は功同様なんだか怪訝そうな顔つきだ。
「このハウスでは、市販されているスワルスキーカブリダニや、タイリクヒメハナカメムシ、コレマンアブラバチ等と土着天敵のクロヒョウタンカスミカメとタバコカスミカメが放飼されています」
岩切は紙芝居よろしく次々と虫の写真を見せてくれる。
「天敵昆虫の密度がかなり高いので割と簡単に見つけられるはずです。せっかくの機会だから観察してみてください」
拡大用のルーペを渡されて初めて虫のサイズの見当が付いた。
野菜の害虫を含めて昆虫に関する知識が皆無の功は岩切が見せる写真の昆虫たちがテントウムシぐらいのサイズと思いこんでいたが、実際のサイズは二ミリメートルとかそれ以下のサイズらしい。
功は虫を見ようとルーぺを片手にあちこち探してみるがそれらしいものを見つかることができない。
横から見ていた茜がナスの葉を指さした。
「ほらそこ、葉っぱの上を高速度で移動してる点が見えない?。それは多分スワルスキーカブリダニよ。葉っぱの裏側にはナミハダニがいると思う」
功がアドバイスに従って高速移動中の「点」をルーペでズームアップしてみると、そいつは見るからにいかつい感じの虫だった。
スワルスキーなんたらダニとかいうロシア人のような名前のダニらしい。
天敵というからにはこいつは肉食系に違いないと功は一人で納得する。
ついでに葉っぱの裏ものぞいてみるとさっきのロシア人みたいな名前のダニよりちょっとスマートな感じのダニがあちこちにいるのが見えた。
こちらは草食系つまり害虫に違いない。
「ナスの葉っぱ一枚にこんなミクロの生態系が展開されていたとは知らなかった」
功が一人で感心していると、今度は岩切が手招きしている。
功がそちらに行ってみると、岩切はナスの枝にとまった黒い点を指さしている。
そこにはアリそっくりの昆虫がおり、功がルーペを使ってよく見ようとして近づくと瞬間移動したみたいに姿が見えなくなった。
「き、消えた」
きょろきょろと辺りを見回してももうその姿は見えない。
「さっきのがクロヒョウタンカスミカメ。カメムシの仲間だからちゃんと羽があって飛ぶことができるんだよ」
「害虫を天敵の昆虫で退治するなんて概念としては理解できても、実用に仕えるのですか」
功が露骨に訊ねると、岩切はお得意のラミネート加工した資料を取り出して説明を始めた。
圃場内の害虫の密度の折れ線グラフに、化学農薬の散布時期、天敵昆虫の導入時期を示した資料だった。
天敵昆虫の投入から経時的に害虫の数を示すグラフは右肩下がりに減少していた。
逆に天敵の数は増加している。どうやら天敵昆虫を実用レベルで使っていることを示しているようだ。
功の頭は一時にたくさんの知識を詰め込まれて消化不良を起こしそうだったが、研修生の一行は昼食を挟んで農業体験研修所に戻った。
午後からの研修テーマは管理機でのうね立て実習だ。
それは手押し式動力うね立て機というべき機能だが、ローカルな呼び名として管理機と呼ばれており、それを使って野菜を植えるためのうねを作る練習だった。
管理機というのは小さいけれどちゃんとエンジンが装備されていて、二つ付いたタイヤで自走する。
操作する人は後ろに伸びたハンドルを持って押していく格好だ。
一番大事なのが本体の後ろについた二つの爪でこれが高速で回転して土をはねとばすことでうねを作っていくのだ。
畑の一番端のうねを作るときは片側に土をはね上げるのだがつぎのうねからは両側に土をはね上げなければならない。
そこで土を跳ね上げる爪の一つを違う向きの爪に変えてやる必要があり、研修の最初のメニューは、この爪の交換作業だった。
二人一組で一台の管理機にとりついて順番に爪の交換作業をするのだが、功は茜とペアになった。
教官の指示でロック用のピンをはずしてシャフトに爪を取り付けているボルトを抜くと爪がはずれる。
そこにピッチの違う爪を持ってきて逆の手順で取り付けるのだ。
「功君、その状態で最初の爪と逆になってるよね」
「そういわれるとなんだか自信ないな」
管理機には操作用のレバーがたくさんついている。
管理機本体の前進、後進切り替えレバーに本体の変速機レバー、爪の正転、逆転レバー、爪の高速回転と低速回転といった具合だ。
シャフトの回転方向がよく分からないので爪の向きだけでは正解かどうか自信がないのだ。
「岩切さん爪のセットこれで大丈夫ですか」
功は二つのチームを交互に見回っていた岩切を捕まえて聞いいた。
「多分大丈夫、今両方にあげる状態だと思うから茜さんにも、あとで同じ手順をやってもらって」
教官なのに岩切は自信なさげに答えた。
「うちの現場では後進で使う人が多いから最初のセッティングがあっているとは限らないんだ。一回試しに回してみよう」
「どうして前進と後進があるんですか。」
「初心者には目線が定めやすいのと機械に挟まれる危険が少ないから前進で使うのを推奨しているんだ。慣れてきたら後進で使う人も多くてね」
功が作業を終えて茜の順番が来ると、彼女自身の研修なので作業を手伝うわけにも行かず、功はぼんやりと眺めていた。
彼女は慣れた感じでてきぱきと作業をしていたのだが、途中で手を止めると遠くの方を見ている。
目線の先を追うと遠くの幹線道路を乗用車が走っているのが見え、彼女と一緒に見ていると、その車は赤いVWゴルフで農業体験研修所の入り口から進入し研修が行われている圃場に向かってくる。
「あのゴルフこっちに来るみたいですね」
「そうみたいね」
圃場脇の駐車場に到着したついたゴルフから降りた人を出迎えるように歩いていた岩切が何事か話しながらこちらに近づいてくる。
「管理機は使えるようになった?」
その人は茜が作業している脇まで来てなれなれしく話しかけた。
「見ての通りでしょ。そっちは、はるばる県の北部まで出かけた成果はあったの」
「ナッシング」
彼はそう言って、肩をすくめてみせる。
功はなんだかいけすかないやつだと感じるが、どうやら茜さんの知り合いらしく、
二人が研修そっちのけで何か話し込んでいる間に功は別の車が自分たちの圃場に接近しつつあるのに気がついた。
周囲が水田で見通しがいい上に、人や車の往来が少ないから人の動きが目に付くわけで、それが昨日研修会場だった臼木農林業公社の車だとわかる。
やって来たのは山本事務局長で、岩切に用があったらしいが、茜さんと男性に気がつくと少し険しい表情をしてこちらにやってきた。
「榊原君、北の方まで出かけて農地は見つかったの?」
「いいえだめでした」
彼の名は榊原というらしい。
「この間も話したとおり、わだつみ町内で就農してくれないと、2年間の研修費のうち町が助成した分を返還してもらう話になるからね。もう一度就農先について考え直してくれる気はないかな」
山本局長は渋い顔で榊原に話す。
お金が絡むシビアな話のようで、功は昨日の失踪事件に続いていったいどうなっているのだろうと気が気でなかった。
「金を返せと言うんだったら返しますからもう好きにさせてもらえませんか。僕は有機農法で作った野菜を顧客に直接販売したいと思って、農業を始めたんです」
榊原は険しい表情を浮かべて言葉を継いだ。
「集落営農組織の職員になれとか、個人経営なら農協の部会に所属しろとか押し付ける割に、農地を貸してくれる人も紹介してくれない。就農しろと言われても農地がなければ無理でしょう」
研修生たちは固唾をのんで事の成り行きを見守っている。
のどかに研修を行っていた農業体験研修所には一転して険悪な空気が立ち込めた。
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