Epilogue



     Epilogue



 オリバーに電話をかけると、彼はワンコールですぐに出た。随分愛されてるみたい、と自惚れかけたが、母親からの急な電話に悪い報せを想像したのかもしれない。そう考えると気の毒だ。

『どうしたの、母さん?』息子の声は心なしか動転して聞こえる。

「いえね、メールでいいかとも思ったのだけど。久しぶりに声が聴きたかったのよ。今は平気? 迷惑じゃない?」

 平気、とオリバーは答えた。休憩中なので問題ないとのことだ。尤も、マリアのほうもそれを見越して昼時に電話をかけたのだった。オリバーの仕事は確かに四六時中気が抜けないが、少なくとも証券取引場が閉まっている間は余裕があると、以前本人に教えてもらった。

「どう、元気にしてる? ご飯は食べている?」月並みな言葉だと自分でも思うが、やはり気になるのだから仕方がない。

『モリモリ食べてる。母さんこそ、元気? 変わりない?』問い返したあと、一瞬躊躇うような間を置いてオリバーは付け足した。『ロードは優しい?』

「ええ、いい雇い主だわ」マリアは軽く返した。「あなた、ロードと話したりしなかったの?」

『用件もないから。お互いに』オリバーの声は硬い。

 あまり仲が良くないのだろうか、とマリアは不安に駆られた。マリアからすればどちらも優しく賢い青年だが、それでも人と人との間のことは一概には言えない。とはいえロードのほうは別段、オリバーを悪く思っていそうになかったが……そう思い起こして、マリアはあることを思い出した。ちょうどいいタイミングだ。

「そういえば、ロードが貴方に言伝をと仰ったのよ」

『言伝?』唾を呑むような音が聞こえた。『なんて?』

「なんだったかしら……」マリアは数日前の記憶を探った。「確か、『もう言わないでね』と」

 電話の向こうは静まっている。

「『約束だよ』、ですって。なにか昔の話?」

 少年の頃の、たとえば、恥ずかしい思い出や軽い悪さの記憶について、友人同士口約束をしたのだろうとマリアは思った。ついうっかりオリバーがそれを誰かに話してしまい、それで少々気まずい思いをしているのかもしれない。やっぱり、そんなに仲が悪いということはないだろう。一年同室であったことをこの歳まで覚えているくらいだから、むしろ近しい仲だったのでは? 願望が大いに含まれた推測と知りながら、マリアはそんな解釈をして息子の返事を待った。

『分かってる』オリバーは答えた。感情の窺えない声で。

『分かってる、もう二度と言わない。彼にそう、伝えておいて。母さん』



 慣れ親しんだ我が家に帰宅した翌朝、ジョイスは今日一日だけ残った休暇を楽しむことにした。配信サイトで映画でも観るか、それとも料理をして過ごそうか。ひとまずゆったり時間をかけてコーヒーを淹れようとミルやサイフォンを用意したそのとき、玄関のチャイムが唐突に鳴った。

 通販などした覚えはないし、プレゼントが来る時期でもない。大方セールスだろう。無視を決め込むと、続けざまに二回、三回と鳴る。やがて連打になったそれに耐えかねてジョイスは諦め、廊下を踏み鳴らしながら玄関へ向かい、ドアを開けた。

「どうも」それは馴染みの配達員だった。「お届けものです」

「やあ……君、いつもあんな鳴らし方してるの?」

「ええまあ。居留守使われちゃ困りますから」曇りのない笑顔だ。「ハーディさんは大概一回で出ますけど、まあ念のため」

「近所迷惑だからやめろよ。届けものか、心当たりがないが」

 訝しみつつ受け取る。宛名は確かにジョイス・ハーディとなっているが、箱に直接書かれているだけで、差出人の住所・氏名はおろか送り先の住所もない。どういうことだと見上げると、配達員はまたハキハキと答える。

「実はさっきそこで頼まれたんですよ。これをジョイス・ハーディさんにって」

 ジョイスは呆れた。「どこの誰とも知れない人物に、何が入ってるか分からない荷物を託されて、それを届けに来たのか?」

「いや、すみません。結構チップをもらっちゃって。悪い人には見えませんでしたし」

「人は見かけによらないんだよ。何かあったら君の責任だぞ」

 不承不承受け取る。ドアを閉じたあと、首を傾げながらリビングへ戻った。箱は細長く、ずしりと重みがある。ワインか何かだろうか? 自分の住所を知らない人間で、ワインを贈ってきそうな人物など思い当たらない。ダイニングテーブルに置き、腕を組む。

 あの日、エレノアから来たショートメッセージは二件だった。〈ロナルドの遺体が見当たらない〉続けざまにもう一つ。〈犯人も〉。今に至るまで、フレディ・オースティンの行方は掴めていない。全土に操作網を敷き、指名手配までしているのに、影すらも見つかっていない。

 この島国から国外に逃亡できたとはとても思えないが、可能性がないわけではない。ただそれを実行したとしたならば用意周到が過ぎる。フレディの犯行を警察が疑い出したのは失踪の数日前で、決定的に動きがあったのは当日だ。そんな短い期間に手配を済ませられるものだろうか。悪いことに、フレディが住んでいた地域は古い住居の多い貧困区で、監視カメラがほとんどなかった。車で移動したにしてもどの車か見当がつかない。フレディ所有の車は近くの駐車場に停められたままで、協力者は気配すらなかった。

 市警はフレディが逃亡を図ったものと見て行方を追っているが、ジョイスの考えは違っていた。ある意味、これは国外逃亡より荒唐無稽かもしれないが、もうそうとしか思えない。フレディは死んでいる。たまたま証拠が上がった当日に、なんらかの事故などによって。交通網をいくら探しても死体が見つかるわけはない。案外フレディはまだあの街にいるのではないか? 確かに彼は狡猾で用心深い性格だったが、犯罪者のネットワークに属していたわけでもない。これほどの期間逃げ果せるとはどうしても考えづらい。

 目の前の箱に目を戻す。開けるべきか悩んだ。もし仮に逃亡中のフレディ・オースティンがこの町を訪れ、俺を挑発しに来たとしたら——何が入っているにしろ、早く開けるに越したことはない。

 意を決して、テーブルの上のディスペンサーからカッターを取り上げる。ガムテープに切り込みを入れ、細長い箱の上蓋を開けた。中身は、緩衝材に包まれている。割れ物か。だがワインには見えない。

 慎重に引き出すと、白っぽい色合いが判る。どうやら陶器だ。ハッとする。中身に刃を立てないよう注意しながら緩衝材を開くと、思った通りそれは花瓶だった。そういえばそんな会話をした。まさか、本当にくれるとは。

 テーブルに立てて、眺める。フォルムは歪で、敢えて残されたと思しき手指の跡が質感を加えている。シンプルの極地、とは言い難いが、これはこれでモダンで好ましい。やはり彼はなかなか才能があるのではないかと思ったが、素人が何を言ったところでその評に価値はないだろう。箱を畳んでいると、ひらりとカードが落ちる。手書きのメッセージが添えられていた。

〈よかったら使ってください。貴方と彼女の慰めになりますよう〉

 あの配達員はさっきそこで頼まれたと言っていた。もしやついさっきまで、彼はここにいたということか? つい玄関を振り返ったが、探しに出るのも馬鹿馬鹿しい。見つけたところで話すこともない。メッセージはブルーブラックのインクでしたためられていた。貴方と彼女——彼は、事件のことなどとっくに知っていた。最初からそのつもりで、あの話をしたのだろうか。

 少しく置き場に悩んだのち、本棚の一部、飾り棚に収めた。温みのある白は木材とよく合う。これは、ボーン・チャイナというんだったか。

 花を買いに出ることにした。あの花瓶に活けるのならば、背の高い花を買わねばなるまい。



 近づいてくる足音に、エレノアは通路を振り向いた。公営の共同墓地には休日の今日も人気がなく、花を携えて現れたのはエレノア一人きりだった。だが、視線の先の人物は、右手に瓶ビールをぶら提げ通路をこちらへ向かってくる。やがて彼もエレノアに気付き、少し手前で足を止めた。

「エリー! 来てたんだ?」

「まあね。ビリーもお参り?」

「そんなとこ。酒でも呑んだら気分いいかってさ。あ、これ、ちゃんと買ったやつだから」

 フレディ・オースティンが殺害した被害者の多くは身寄りがなく、遺体が引き取られないまま、まとめて埋葬されることになった。スペースの関係で、みな火葬されている。エレノアはさほど原理主義的でないが、それでも遺体を灰にすることに少なからぬ抵抗があった。遠い復活の日、彼らは肉体を得ることもなく、また裁かれることもない。彼らが貧しく、後ろ盾を持たないから以外の理由はそこにはない——金貨で出来た鍵はどんな扉でも開けられる。たとえ天国の門でも。

「疑ってないわよ。最近は羽振りいいんでしょう」

「まあね。仕送りもらってるからな。結局あの金持ち、エディに恩があっただけなんだろ?」

「そう聞いたけどね。詳しいことは知らない」

 エドワードはあの日以来、この街に帰ってこない。ビリーの元にはたまに電話がかかってくるそうだが、ウォルトなどは寂しそうにしている。仕送りはビリーとエドワードだけが知っている市営のロッカーに定期的に置かれているらしい。鍵を持っているのはビリーだけで、横取りの恐れはないと胸を張る。

「ま、俺も信頼されてるわけよ」供え物のはずのビールを呷りながら彼はおどけた。

「確かにね。私もエディだったら、あなたを信頼したと思うわ」

「なんだよ。エリーは信じてねえの?」

「そりゃ仕事柄、全幅の信頼ってわけにはいかないわよ。でも、そうね。私も信頼はしてると思う。あなたの人間性を」

「人間性、ねえ。難しいこと言うぜ」

 ビリーは本格的に勉強を始めた。ひとまず然るべき支援を受けて、高校相当の教育を修めることを目標にしている。子供たちが集まる空き家は修理が施され、近々建て替えもする予定らしい。それもこれもエドワードのパトロン——シザーフィールド卿の援助によるものだ。事件の真相が明らかになって真犯人がわかったのち、一度だけエレノアも会った。想像よりずっと可憐な容姿をしていたその青年は、造花のような笑顔で微笑み、工事中の空き家を指してジョークを言った。「税金対策」

 信頼できるか? 正直、分からない。彼の人間性は、少しも掴めない。

「エディは、元気そう?」

「電話じゃどうもな。普段からあの調子だから、元気も何も分かんねえよ」

 ビリーは不満気に返した。確かにそうだ。彼はいつも不機嫌そうで、元気いっぱいの姿など見たことがない。

「俺もさ、勉強頑張って、大学行って、それか資格とか取ってさ。金もらわねーでもいいようにしっかりやんねーとな」

「立派ね」

「チャンスが来たから掴むだけさあ。いくらやる気があったって、チャンスがなけりゃ無理だしな。逆にしたって同じかもだけど」

 言葉に頷く。まともな社会経験をほとんど積んでいないはずの彼ら——エドワードも含めて——の発言に、エレノアはたびたびハッとさせられる。エレノアはそのキャリアの中で多くの子供たちと関わってきたが、やはり彼らは特別だと言わざるを得なかった。それは環境と同様、全ての人が持つとは限らない資質と呼ぶべきようなもので、ある意味、彼らは恵まれた例でもある。目の前のチャンスをチャンスと捉え、掴みとる力を持っている子たちばかりではない。そんなの一握りだ。

「そのうち顔見せるって言ってたけど、いつになるんだかな。アイツは勉強する気ないっぽいけど、一体どうするつもりなのかなあ。案外モデルとかなっちゃうのかも。俳優とかさ。いただろ? 俺らみたいな不良で、成功してのけたヤツがさあ」

 どうやらハリウッド・スターらしいがエレノアには心当たりがなかった。あまりアメリカの映画は観ない。後で検索してみようと思いながら、軽く相槌を打つ。ビリーの言うことはあながち夢みたいな話でもなく、エドワードの容姿なら、それで職を得ることはさほど難しくないだろう。素人考えではあるが、そこらの広告写真より彼の立ち姿のほうがずっと華やかだ。

「テレビで観ることになったりしてね」微笑むと、ビリーはこちらに笑顔を向けた。

「どうする? アイツがいいとこのボンボンみたいな服着てさ、目の前の女のコに歯の浮くようなこと言ってたら。俺ぜってー笑っちゃうな。せめて刑事モノとかがいいなあ。あんな目立つ刑事いねえけど、そこはドラマならアリだろ?」

 想像する。彼が刑事課のデスクにいたら、女性職員は書類仕事の能率が七割落ちるだろう。或いはそんな怠け者はエレノアくらいかもしれないが。

「ドラマならね」肩をすくめて、墓に目を移す。置いた花束が、風に揺れている。

 フレディ・オースティンの逃走を知ったときは血の気が引いた。どこから情報が漏れたのか? マスコミはもちろん、警察内部でも疑惑と非難の声が渦巻いたが妥当な推測は立たず、中にはビリーを疑う声まで現れて辟易とした。なぜ通報した本人が被疑者にそれを耳打ちするのだ——結局、一番考え得るのはあの河の捜索が原因で、警察の動きを察知し急いで逃亡したという筋。だがそんなことが可能だろうか? フレディの住居は、特に荷物をまとめたような痕跡もなく、例えばそう、ちょっと近くの薬局へ買い物に出たまま帰らなかったというような状態だった。それからこれだけの期間、逃げ続けている。

 河で死体が上がらない限り、フレディを引っ張るまともな理由は何一つなかったのだから、この順序は変えようがなかった。だからと言って数え上げるだに背筋が凍るような人数を殺害したシリアル・キラーが、うまうまと罪を逃れていることに納得できるはずもない。皮剥ぎ魔は骨から剥いだ皮を沈めていたわけだが、骨のほうは砕いて石灰に混ぜ、庭に撒かれていたことがわかった。花壇の肥料にしていたのだ。

 捕まえたとてエレノアにその権限はなかっただろうが、直接問い詰めてやりたかった。どうしてそんなことをしたのか。なぜそんなことをして、今日まで平気でいられたのか。罪を自覚させ、罪に見合った罰で、きちんと償わせたかった。だがそれは叶わない。犯人はいまだ逃亡中で、死者は文句も言えないままだ。

「安らかに寝れてっかなあ」半分ほどになった瓶から口を放して、ビリーが言った。

「だといいけど、難しいでしょうね」

「だよなあ。せめてたまには見舞ってやんなきゃ。……だけどまあ」

 何かを言いかけ、口をつぐむ。エレノアが促すように彼の横顔に目をやると、ビリーは言いにくそうに、頭をかきながら、ぼそりと答えた。

「いつ死んだかが判るだけマシなほうかと思ってさ。死体もあって、墓もあって」

 行方不明のままのもう一人を思い出す。返す言葉がなかった。

「まあ、なんだ。どこにいるにせよ、いたことを分かってるヤツが生きてればそれでいいんじゃねえかな。メイは自分でお墓作ったんだ。メキシコ風の祭壇だったぜ」

「そうね。忘れないようにしなきゃ」

「できることなんてそんくらいだし」

 改めて、墓に目をやる。その下に眠る人々の名前を、エレノアはちゃんと覚えている。それもいつまで保つか分からないが、せめて長引かせたいと思った。パソコンの中にあるファイルも、できる限り消さないでおこう。公的な記録でなくても、死ぬまで想う人がいなくても、あなたたちが生きていたことは確かにこの世に残っているのだと。

 ビリーの瓶が空になる。頃合いかと通路を振り向いたとき、エレノアは人影を見つけた。その人影はだんだんと近づいてきて、大きくなる。誰の姿かが分かった瞬間、二人は大声で名を呼んだ。遠目にもやはり不機嫌な彼は、それでも声に立ち止まり、二人に向かって、軽く手を挙げた。



 それは今まで生きてきた中で、いちばん晴れやかな夏だった。僕はトランクを携えてうきうきと家へ戻った。それからすぐに車に乗り、みんなで別荘へと向かう。バカンスは、湖を近くに臨む別荘で過ごすのが決まりだった。ついこの前まで、僕はどんなに父母が恋しくても、家に帰るのは気が重かった。でも今は違う。僕はすっかり開放的な、そう、自由な気持ちになって、前途に広がる青空を胸の奥まで吸い込んだ。とってもいい天気。

 後部座席で歌をうたっていたら、上機嫌だな、とパパが笑った。別荘までのドライブは、いつもパパがハンドルを握る。パパが運転が好きだし、上手だ。事故に遭ったときだって、もし使用人でなくパパが運転していたら、あんなことにはならなかったんじゃないかって、つい思ってしまう。

 別荘に着いて荷解きをする。そのあとは自由時間だ。姉に声をかけられる前に、僕は邸を出て、離れに向かう。去り際に、ドアにかけてある、姉の麦わら帽子を取って。

 離れはやしきの裏手の森を迂回するように回り込み、ちょっと中へ入ったところにある。プールのついた小さなコテージだ。陽射しを避けようと、僕は姉の麦わら帽をかぶり、鼻歌の続きをしながらプールサイドに沿って歩く。プールにはまだ水が張られていない。このプールは近くの別荘に遊びにきている友人を呼んでパーティーをするときに使う。普段僕らはもっと奥へ進んで、湖まで行って泳いでいるから、少なくとも来た当日にここの水が張られているはずはなかった。よく分かっていた。

 プールの脇に立つ飛び込み台へ登る。てっぺんで腰かけて、足をぶらぶらとさせて待つ。やがて姉が入り口に現れ、怒ったような顔で僕を見た。僕はあえて澄ました顔で頭から麦わら帽を外すと、巻きついている白いリボンを解く真似をしたり、端っこを持って揺らしたりした。

 姉は一言も発さずに、ただこちらへと近づいてくる。

 やがて姉が視界から消えて、すぐに飛び込み台が揺れた。背後でタラップを踏む音がする。姉のウェッジソールのサンダル。僕はその瞬間が来るまで、振り返るのを懸命にこらえた。まだダメ、まだ待って、あと少し……気配がすぐ後ろに来たとき、僕は身を思い切り屈めて、姉の麦わら帽子を投げた。スナップを利かせ、まっすぐに。

「あっ、」

 姉が頭上で前のめりになる。体勢を崩し、右手を大きく伸ばして、飛んでいく帽子を掴もうとする。僕は、姉の左手が手すりをちゃんと掴んでいるのを見ていた。だから、腕を上に伸ばして、姉の上着を掴んで、投げた。

 あんまり力は強いほうじゃないけど、それでも僕も男の子なのだ。

 姉の細い体は宙に浮き、狭い飛び込み台からあっけなく放り出された。姉が落ちていくのを、僕はゆっくりと鑑賞していた。ほんの一瞬のことのはずだけど、僕にはなぜか長い時間に思われたのだ。離れを取り囲む深い森が落ちていく姉の向こうにあった。姉はまるで森に向かって泳いでいくようにも見えた。白いキュロットが風をはらんでふくらみ、ばたつく脚の先にある厚底のサンダルが僕を蹴っ飛ばしそうになった。僕がちょっと身を引くと、それから、すぐに、姉の姿は消えた。

 ぐしゃっ、と音がした。ごつんとか、そういう硬い音を想像していたから意外に思った。僕もまた手すりをしっかり掴んで慎重に下を覗けば、ミニチュアサイズの姉の死体がプールの底に落ちていた。じっと目を凝らすと、頭の周りにだんだんと赤い血溜まりができていく。青いタイルの上に、鮮やかに広がる。

 帽子は?

 探してみたけどプールのどこにも落ちていない。飛んでいっちゃった? 再び姉に目を戻すと、体が不自然な方向にあちこち折れているのが分かった。変なポーズ。こっちを見ているのに、横向きに走っているみたい。と思ったら、首の下にあるのは背中だった。生きてたらできない体勢だ。僕は姉の曲がった手足を真似してみた。何かに似ている。少し考えて気がついた。たまに家で見かける蜘蛛だ。彼らは水に弱く、ちょっと水滴がかかるだけであっさりと溺れてしまう。死んだらかわいそうだから来ちゃだめだって言っているのに、僕が彼らを見るのはいつも洗面所や浴槽でだった。気づかず水を流してしまって、あっと思ったときには遅く、動かなくなった小さな蜘蛛がゆらゆらと漂っている。

 でも姉さんは水がないから死んだ。そういうのって、ちょっと皮肉だ。

 そのとき、背に何か落ちてきた。びっくりして体が跳ねてしまったけど、虫とか、鳥のフンではない。葉っぱかしらと背を探ったら、すぐにかさかさとしたものが当たった。驚いて掴み、顔の前に出す。麦わら帽子! 風に乗って、今までふわふわ飛んでいたのだろうか。

 元の通りに腰掛けて、最後にもう一度下を覗いた。どう考えても即死だ。だけど、念のため声は上げないでおく。最初の悲鳴は僕じゃなく、僕たちを探しにきた使用人の声になるだろう。その頃にはちゃんと手遅れだ。姉が助かることはない。

 僕は麦わら帽子を被った。シフォンのリボンが、目の隅にはためく。足をぶらぶらとさせながら、僕はまた歌をうたうことにした。携帯電話も本もゲームもトランクの中だ。何か持ってくればよかった。帽子のつば越しに見上げると、太陽がきらきらとしている。今になって思う。両親は、僕が彼女を殺した証拠を消し去るために焼いたのじゃないかと。灰にはいかなる痕跡も残らないから。神父様と同じ。

 雲ひとつない澄み切った空に、小鳥の声が響いてくる。夏の熱射が心地よい。ふとレモネードが飲みたくなった。誰かが姉を見つけたら、僕は邸に戻ってママに作ってくれるようねだろう。シロップをたっぷり混ぜて、氷をたくさん入れたレモネード。炭酸風味にしてもらおうか。グラスに注いだら、ミントを添えて、切ったレモンを縁に飾る。身体を滑り降りていく、甘味と酸味、快い刺激。考えていたら喉が渇いてきた。


 誰か、気づいてくれないかな。僕はずうっと、待っているのに。

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ビューティフル・インセクト 初川遊離 @yuuri_uikawa

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