L-4:: くじら

「おう、リサか、久しぶりやな」

 でわたしを出迎えてくれたのは、スミノフだった。まさかこんな、一番の知り合いがいるとは、わたしは本当についてる。

 普通なら、人間がくじらに入れてもらえるなんてありえない。もしのご機嫌を損ねたら、わたしだってすぐに追放されてしまうだろう。

 スミノフは、ペンギン(これも昔の地球にいた動物だ、わたしは写真でしか見たことがないけれど)のような形をした機械だ。身長一メートルくらいで、本物のペンギンよりも横幅が広く、ずいぶんと可愛らしい形状をしている――そのふてぶてしい態度とは対照的だ。

 くじらの中にはいろいろな機械が――動物の形をしたものも、意味の分からない形状のものも――暮らしていて、彼らは〈技術者エンジニア〉と呼ばれている。彼らは普通のドロイドとは違うし、マーカスのような汎用型人工知能とも違う。もっと、この世界のにアクセスする権限をもっているらしい。不思議な連中。彼らは何百年も前から十二匹のくじらの中に住んで、一種の共同体を作り上げている。彼らがもともとどこから来たのかは、わたしは知らない。一説によると、〈大崩壊グレート・フォール〉を生き延びた、古代の機械たちの末裔だという。

 いずれにせよ、〈技術者エンジニア〉はその特異な能力を使って、この世界から失われてしまった技術を保存したり発掘したりして暮らしている。それをどんな勢力にでも――ピサロにも帝国にも――気まぐれに提供することで、対価を手に入れているようだ。その技術は人間からするととんでもなく貴重だったりする。たとえば、磁気光学シールドやYAGレーザー銃、光学迷彩といった技術も、いちどは〈大崩壊グレート・フォール〉で失われてしまっていたらしい。しかしその技術を細々と保持していた〈技術者エンジニア〉が、あるとき――今から二百年前か三百年前か知らないけど――人間に提供したことで、現在では再び誰もが当たり前に使っているのだ。

 そういう技術を独占しようとして、帝国は歴史上何度も〈技術者エンジニア〉に攻撃をしかけたらしい。しかし彼らを屈服させて支配下に置こうとする試みは、ぜんぶ盛大に失敗した。古代の不思議な技術で反撃されて、帝国は一方的に大きな打撃を受けたようだった。だから今では、〈技術者エンジニア〉に手を出そうとする人間などいない。

 ようするに彼らは、不思議な力を使う独立した存在で、重宝されてきた。だが、それと同時に、怖れられ、疎まれてきた存在でもある。ふつうの人間なら、誰も好き好んで〈技術者エンジニア〉と仲良くしようなどとは考えない。ときたま不思議な力を分けてくれる、しかし決して関わりたくはない、そういう存在が彼らなのだ。

 わたしは十三歳のとき、たまたまセレスに来ていた〈技術者エンジニア〉の一団に助けられたのだった。彼らはわたしの自由市民権も特殊なルートで手配してくれた。なぜ助けてくれたのかは、いまでも分からない。そのとき、わたしは本当に何も分からなくて、ただただ無我夢中で、彼らを怖いとも思わなかった。そう、わたしは彼らを恐れなかった――ひょっとしたら、それが理由だったのかもしれない。

「で、なんや、何しに来たんや。お前がこんなとこ来るなんて、ロクなことちゃうやろ。それにずいぶん、悪いことしとるらしいな。悪名がここまで届いとるで」

「失礼ね、わたしはこの世界に甚大な貢献をしてきたのよ。悪く言うのは、妬んでいる連中」

 そう言って、わたしは少し口をとがらせる。

「せやかて、お前、魔女とか呼ばれとるんやろ。ええ通り名ではないな」

「それはね、わたしが望んだことなのよ。あなたたちに助けてもらったときから、いや、それよりずっと前から、わたしはそう呼ばれることを望んでいたんだから」

「……何の話やねん。まあ、ええわ。で、お前は質問に答えてへんな。ここに来たのは、なんか事情があるんやろ」

「そうね、二、三日、こっそり泊めてくれないかな、と思って」

「あほか。いきなり来てどんだけ図々しいねん。ワシら、いま忙しいねん。事件アンド事件や。忙しすぎて前代未聞や」

 するとそのとき、白い馬に翼の生えたような形の機械がやってきて、スミノフに何か小さな機械みたいなものを渡す。スミノフは急に真面目腐った顔になって、しばらくそのペガサスと向き合っている。声を出さずに会話をしているのだ。もちろんそれだけなら人間にも出来るのだが、彼らは人間の知らない特殊な方式の量子暗号を使っているらしく、わたしからアクセスすることは絶対に出来ない。

 しばらくすると、スミノフはまたこちらに向き直って、

「おう、これはミッシェル。この#12で一番優秀な〈技術者エンジニア〉や」

 ペガサスは高貴な表情でこちらを一瞥した後、何も言わずにぺこりと頭を下げた。思わず、わたしもぺこりと頭を下げ返す。

「すまんな、ミッシェル。わしもすぐ行くわ。とりあえず、このアホな人間の相手をせんとあかんねん」

「ごめんなさい」

 そう言ってわたしまでミッシェルに謝る。そのペガサスは少し微笑んだような気がした。が、何も言わず、すぐに踵を返して行ってしまう。

「で、リサ、なんや。ピサロとモメたんか」

「え」

「どうや、図星やろ。それで居場所がなくなって、ここに来た」

「うん、まあ、そんな感じ。正確には、モメたんじゃなくて、こっちが一方的に狙われてるの。理由もわからない。奴らがわたしの船を追尾できなくなるまで、とりあえずここに居させてほしい」

「しょうもないやっちゃな。まあ、ええわ。かっちり四十八時間や。それだけの間、ここに置いたる」

「ほんと⁉ ありがとう! お金なら、あとで払うわ」

「あほか、いるか、そんなもん。わしらを何やと思っとるんや」

「……ごめんなさい」

「声が小さい」

「ごめんなさい」

「……なんかお前、今日は謝ってばっかりやな。そんなキャラちゃうかったやろ。まあ、ええわ。で、わしらは、もしピサロの手下が来ても、知らんわ、って言って追い返せばええんやな。それは、やったる。そもそも、わしらはあいつらが好かんからな。ただ、奴らが強引に乗り込んできたら、戦ってまでお前を守ることはせん。そのときは、気の毒やけど、お前を差し出す。ここのルールは知っとるやろ。わしらが戦うのは、わしら自身のためだけや。ええな」

「ええよ」

 思わず、スミノフの変な伝染うつってしまった。少し、昔を思い出す。

 スミノフの話し方は、わたしが話す標準語マンダリンとはだいぶ雰囲気が違っていて、一説には〈大崩壊グレート・フォール〉以前の言葉の名残りが混じっているのだという。もっとも、〈技術者エンジニア〉といえども〈翻訳機構〉を扱うことは出来ないとされているし、標準語マンダリンの一種であることに変わりはないはずだ。たぶん方言の一種だと思えばいいのだろう。それに〈技術者エンジニア〉がみんなスミノフみたいな話し方をするわけでもない。さっきのペガサスは、きっと違う話し方をするに違いない。ま、ただの印象だけど。

「――まあ、ここに乗り込んでくるようなアホな人間がおるとは思えへんけどな。そうや、あと、迎えに来る奴とかは、おるんか? つまり、お前がここにおるか、って聞かれたとき、わしらが正直に、おる、って答える相手や」

 わたしは、少し考えてから、「いない」と答えた。

「そうか。じゃあ、若いもんに部屋まで案内させるわ。その後は、閉じこもっときや。間違っても、くじらの中を探検したりしたらあかんで」

「ありがとう。恩に着るね」

「じゃ、わしは前代未聞に忙しいから、これでな」

「――ちょっと待って」

 わたしは、思わず呼び止めた。

「忙しいことって、何? 何かあったの?」

 立ち去ろうとしていたスミノフは振り返って、

「まあ、お前には関係あらへん。なんていうか、あれや。太陽系全体に、変な信号が来とるんや。どこからかは分からへん。ええもんか、悪いもんかも、分からへん」

「信号?」

「そうや。信号や。わしらのもんでも、人間のもんでもないみたいや。わしらに変に干渉せんかったらええんやけどな」

「不思議ね。〈技術者エンジニア〉は宇宙のことをぜんぶ知ってるんだと思ってた。ていうか、いつも自分でそう言ってたじゃん」

「それは、あれや。言葉のや。ほんまのところは、わしらに分かるんは、せいぜい太陽系の中のことだけやからな」

「外の宇宙からの信号ってこと?」

「どうやろな。ま、仮説がないわけちゃうんやけどな。完全な想定外ってわけでもない。でも、予断は禁物や」

「人間は気づいてるの?」

「知らんわ、そんなん。人間のことはお前の方が詳しいやろ。――まあ、気づいてる奴も、多少はおるみたいやな」

 そんなこと言われても、わたしに分かるわけがない。でもひょっとしたら帝国の中枢では何か感づいているのかもしれないと思う。そういえば宇宙観測網を強化するというニュースを読んだのを思い出す。関係があるのだろうか?

「わしらの方では、#5と#7の連中が木星軌道の向こうまで調査に行く予定や。今はまず木星の〈都市ステーション〉と四大衛星に先遣隊を送って情報を集めとるところや。それに、他にもちょっと気になることがあってな」

 よく、分からないが、前代未聞というのはあながち大げさな物言いというわけでもないらしい。

「って、あかん、ペラペラ話し過ぎたわ。話はこれで終わりや。仕事の邪魔やで。ここでは普通は、人間は泊めへんねん。お前は特別や。昔から知ってるから、しゃあないってだけや。ええな」

 そう言って、今度こそスミノフは去ろうとした。けど、また立ち止まって、

「おう、お前、自分で分かっとると思うけど、血まみれで臭いで。シャワー、浴びや。っても、機械用の洗浄機しかないけどな」

 わたしはまた、自分が血まみれだったことを思い出し、なんだか恥ずかしいような気分になる。よく、こんな汚い人間をくじらに入れてくれたものだ。

「ごめんなさい、ありがとうね」

「なんでまた謝るんや。ほんじゃな」

 そう言って、ペンギンはてくてくと歩いていった。

 気が付くと、わたしの横に小さなクマのみたいな奴が立っていた。

「うわあ、ほんとに血まみれだ。くっさいなぁ。でも、大丈夫! シャワーの場所も教えてあげるからね!」

 なんだか、妙に馴れ馴れしい。ここには変な奴しかいない。

 小さなクマに連れられて、入り組んだ通路を通り、何度か階段を上ったり下りたりして、小さな部屋にたどりつく。

「ここだよ。小さくてごめんね。来客用は、こんな部屋しかないんだ。ここに来る機械たちは、小さいのが多いからね。仕方ないんだ」

「十分よ。ありがと。あ、あと、シャワーは――」

「ああ、そうだそうだ! それはこっち」

 わたしはまたクマに連れられて移動する。

 ずいぶんと原始的なやり方だ。普通なら、わたしの頭に地図と座標を送り込めば済む話で、物理的に歩いて案内してもらう必要などない。しかし、彼らはあえてこれをやっているのだ。わたしが彼らとの通信を許可されたことは、一度もない。彼らと話すときは、必ず物理的な音声、つまり空気の振動を介する。

 〈技術者エンジニア〉たちは、自分たちの世界のごく一端さえも、容易には人間に開示しないのだ。

「シャワーは、ここ。これも少し小さいけど、かがんで浴びてね。ちゃんと物理的なボタンもあるから、リサさんでも操作できるよ。一応、来客用なんだ。お客さんは普段ならみんな、機械だけどね」

「素敵ね。助かるわ。石鹸はある?」

「そこに洗浄液があるけど、機械用だから、使わない方がいいかもね。でもこのシャワーをバブルモードにすれば、水だけでもその血くらいなら落ちるよ」

「了解。やってみるわ」

「他にも、何か必要なものがあったら、いつでも声をかけてね!」

 クマはそう言って手を振ると、気ぜわしくスタスタと歩き去って行った。

 パーティからずっと着たままだったドレスを脱いで、シャワーを浴びる。気持ちがいい。クマの言った通り、ちゃんと血は落ちた。

 生き返ったような気がした。

 全身をドライヤーで乾かす。ポッドに備え付けてあった予備のシャツを着て、ズボンを履く。とても人に見せられないようなダサいものだ。血まみれのドレスの方がマシなくらいだ。

 そうして身繕いを終えると、自分に割り当てられた部屋に行く。小さな部屋。天井が低いので立つこともできないし、狭いので足を伸ばして寝ることもできない。本当に小さな部屋。ベッドなんて、もちろんない。

 両手で膝を抱えて身体を丸め、硬い床の上に横になる。電気を消すと、何も見えないくらい真っ暗になった。

 静かで、小さくて、誰もいない部屋。

 そこでわたしは暗闇にすっぽりと包まれて、眠りに落ちた。



 わたしは、夢を見ていた。一人目の女を手に入れたときの、記憶だった。わたしは十八歳だった。そのときにはもう、スミノフたちのもとを離れていて、わたしはまたひとりぼっちだった。その女には〈コンパニオン〉みたいな魅力はなかったけれど、でも明るい女だった。わたしは、戸惑いながらも、誇らしかった。わたしはもう、誰かに所有されることはない。それどころか、これまで誰かに所有されていた人間にピサロのハーブを持たせて庇護を与え、こうして新しい仕事を与えてやれる。今の客はロクでもない奴らばかりだ。でもいつか、この宇宙で一番偉い人間のことも、きっと手玉に取って見せる。そうだ、これは始まりなんだ。わたしは、もう、誰にも支配されない。わたしが支配する。世界のぜんぶを支配することはできなくっても、目に映るすべてのものを、手に入れる。わたしには、それが出来る。ぜったいに、出来るんだ――



 ふいに目を覚まして、時計を見た。

 七時間も経っていた。こんな姿勢で寝ていて、今まで一度も目を覚まさなかったようだ。頭が少し、ズキズキする。この部屋の中では、伸びをすることもできない。喉が渇いている。そういえば、おなかもすいた。

 おそるおそるドアを開けると、廊下の床の上にトレイに入った食事が置いてあった。さっきのクマが置いてくれたのだろう。ドロドロしたゼリーみたいな合成食シンセティックだ。普段ならぜったいに食べないが、いまはお腹がすいている。

 不味い。でも、子どもの頃は、よく食べていたな。別に懐かしくは、ないのだけれど。

 そういえば、クマさんの名前、聞きそびれたな。

 食事を終えると、やることがなくなった。〈ウェブ〉にアクセスしようとしたが、できない。〈ウェブ〉がわけではなく、〈技術者エンジニア〉によって強制的にアクセスが禁止されているようだった。くじらの中では、わたしの権限はかなり制限されている。

 こうしてアクセスできなくなってしまうと、〈ウェブ〉がどれほど便利なものだったかが実感できる。そしてなんだか、寂しいような、少し不安な気持ちになる。

 〈ウェブ〉は太陽系を包み込む巨大な情報のネットワークだ。もちろん情報伝達は光の速度を超えられないから、〈ウェブ〉全体のスムーズな通信の流れを実現するのは、とんでもなく難しいことのはずだ。それを可能にしているのは、この太陽系の至る所にあって――宇宙空間も漂っている――相互に接続された大小無数の〈ノード〉たち。その分布にはムラがあって、〈ノード〉がたくさんあるところ――〈ウェブ〉が、などと表現する――では情報へのアクセスは速く、タイムラグを感じない。辺境に行くほど〈ウェブ〉が薄くなっていき、何時間待っても欲しい情報が手に入らないなんてこともある。でも、辺境でも例外的に、地球や火星と変わらないくらい〈ウェブ〉が濃い場所もある。わたしが吹き飛ばしたパナマはその典型だった。

 こうした〈ウェブ〉の技術も、何百年か前に人類が〈技術者エンジニア〉から教えてもらったものらしい。〈大崩壊グレート・フォール〉でいったん失われた〈ウェブ〉を再び手に入れるまでの百年以上の期間は、暗黒時代と呼ばれている。それを人類は原始的な無線通信のようなものだけで生き延びたようだ。この広い太陽系の中を、支配地域を徐々に狭めながら。暗く、果てしなく漠とした宇宙空間を飛び交う、いまにも消えそうな弱弱しい電波の軌跡。漂う小さな宇宙船と、その中にいる小さな小さな人間たち。暗黒時代の世界は、そんな風だったのだろう。

 いや、本当は、それは今でも変わらないのかもしれない。〈ウェブ〉が見せてくれる情報の海なんてまやかしに過ぎない。きっと本当の宇宙はとんでもなく広くて、広いのに何もない。生身で放り出されたらすぐに死んでしまう虚空が、どこまでもどこまでも続いているんだ。

 わたしに宇宙のことを教えてくれたのも、スミノフたちだった。それまでのわたしにとって夜空を見上げ数えるだけの存在だった星たちが、本当はどんな姿をしているのかを教えてくれた。それはわたしが初めて知った、汚い人間の汚い手にまみれていない世界――科学だった。子どもだったわたしは、スミノフたちは宇宙のことを何でも知っているのだと思っていた。

 でも本当は、太陽系を我が物顔で闊歩している〈技術者エンジニア〉たちにとってさえ、宇宙は大きすぎるのかもしれない。この太陽系の外には、彼らの手の届かない世界が広がっているのだろう。

 スミノフが言っていた謎の信号とやらは、どこから来たのだろう。本当に〈技術者エンジニア〉の手の届かないほど遠くからやって来たのだろうか。だとしたら、太陽系の果ても果て、オールトの雲のもっと向こうから、ずっと旅を続けてきて、ついにこのにたどり着いた。それはどれほど孤独な旅だったのだろう。どれほど長い旅だったのだろう。

 この宇宙に、わたしたちはひとりぼっちなのだろうか。それともどこか遠くに、何か別の文明が存在するのだろうか。〈大崩壊グレート・フォール〉よりずっと前の時代、どこかの学者が、人類とコンタクトするかもしれない地球外文明の数を計算したそうだ。どんな結果だったのかは知らない。それが正しかったのかどうかも知らない。ともかく、それから長い間、人類は誰にも出会うことなく、ずっとこの太陽系の中だけで暮らしてきた。

 〈大崩壊グレート・フォール〉より前の最盛期ですら、人類はオールトの雲まで到達できなかったという。そこまでは光の速さでも数か月かかる。太陽から一番近い恒星、プロキシマ・ケンタウリまでは、何年も。銀河系の中心までは何万年。隣の銀河までは何百万年だ。たとえ他の文明が存在しても、お互いにあまりに遠く離れていて、決して出会うことはないのかもしれない。

 もし、すごく文明が発達しても絶対に光速を超えられないのだとしたら。どんな生き物の寿命も短すぎて、それに文明の寿命っていうのがあるのだとしたら、それもきっと短すぎて、だから宇宙は広すぎる。そんなところにひとりで投げ出されたら、きっと気が狂ってしまうだろう。


 そうして一時間ほど、真っ暗な部屋の中でぼんやりしていた。

 途中、一度だけスミノフからの通信があった。部屋のスピーカーとマイクを介した、原始的なやり方だ。

《おう、部屋で大人しくしとるか》

「ご心配なく、じっとしてますよ」

《そうか、ならええ》

 プツ。せわしなくスピーカーが切れる。本当に忙しいのだろう。

 しかし、こんな狭い部屋の中で、〈ウェブ〉にもアクセスできずに、あと四十時間近くもじっとしていたら、本当に頭がおかしくなってしまう。そうでなくてもわたしは、何時間も小さなポッドの中にいて、その前はパナマの部屋に何時間も閉じ込められていたんだ。

 わたしは、こっそりと部屋を出た。思いっきり伸びをする。

 あたりを少し、散歩してみよう。スミノフに怒られそうだけど、まあ、少しだけならいいだろう。そもそも、そんな秘密でいっぱいの区画に、わたしみたいな客人を泊めたりはしないだろう。

 ドア以外は何もない殺風景な通路が続く。

 本当に誰もいない。〈技術者エンジニア〉も一人もいない。他に客人がいるのかどうかも、よく分からない。みんな真面目に部屋に閉じこもっているのだろうか? 自分の足音だけが、コツコツと響く。

 どうせ〈技術者エンジニア〉たちはとっくに、わたしが部屋から出たことに気づいているのだろう。でも、まだおとがめはない。このくらいなら黙認してくれるということか。あるいは、謎の信号のせいで忙しすぎて、それどころではないのかもしれない。

 まあ、いずれにせよ、もう少しならいいだろうと思う。わたしはだんだん遠慮がなくなってきて、ずんずん歩く。とはいっても、わたしには権限がなさそうな扉に触れたりするのは、やめておいた。

 小さな階段を少し降りると、エアロックのようなところに出た。

 透明な扉が二重になっていて、その間には人間が三人くらい入れそうな空間がある。外には宇宙空間が広がっているのが見える。星が綺麗だ。

 まあ、星は好きだが、これは別に面白いものではないな。ただの平凡なエアロック。

 このあたりにも相変わらず、誰もいない。〈技術者エンジニア〉もいないし、もちろん人間もいない。

 わたしは急に、散歩に飽きてしまった気がした。

 そうだ、スミノフに怒られる前に、大人しく部屋に帰ろう。もし万が一、本当にスミノフを怒らせてしまって、くじらから追い出されてしまったら、取り返しがつかないのだから。

 わたしはエアロックに背を向けて、もと来た階段の方へと歩いていく。

 しかし、ふと何か、背後に気配のようなものを感じた気がした。何気なく、振り返る。


 二枚の透明な扉に挟まれた空間に、星々を背景にしてブロンドの少女が立っていた。


 え?

 なんだ?

 なんで、こんなところに人間が?

 というか、さっきはいなかったよね?


 わたしは、混乱する。


 しかもこの子は、ワンピースを一枚ぽろんと着ているだけ。まるで、昔の地球の夏の日に牧場かどこかで遊んでいた十代の少女が、時空を超えてワープして現れたみたいな感じだ。その姿は、この機械ばかりの無機質なくじらにあまりに不釣り合いで、違和感があり、不気味にさえ思えた。

 彼女はこちらに気づくと、サファイアのように青い瞳でわたしを見た。

 それは、美しい瞳だった。わたしの〈コンパニオン〉たちより、ずっとずっと、比べ物にならない、くらい。

 こんな瞳をもつこんな人間が、存在していたのか?

 ありえない、と思った。わたしは宇宙中を捜し歩いて、この世でもっとも美しい瞳をもつ人間を、三人も手に入れたはずではなかったのか? こんなことが、あるはずがない。

 いや――わたしは、冷静になる。可能性は、ある。わたしはずっと、野生型遺伝子ワイルドタイプにこだわっていた。〈コンパニオン〉たちの輝くような赤、黄、緑の瞳、それはある種の突然変異ではあるのだけれど、人間の技術を介していない、自然のものだ。しかし、遺伝子組み換えシンセティックのなかには、このくらい美しい瞳の持ち主もいるのかもしれない。ただ、わたしは遺伝子組み換えシンセティックにはあまり興味が持てなかった。わたしが手に入れたかったのは、紛いものではない、自然の産物ナチュラル。わたしは、それを手に入れようと、努力を重ねてきたのだ。

 いや――わたしは何を考えているんだ。違うだろ。そんなことは、今はどうでもいい。瞳のことなんて、どうでもいいだろう。わたしはまだ、冷静さを欠いている。

 問題は、彼女が何者か、なぜそこにいるのか、どこから現れたのか。それから、わたしの敵かどうか。それが全てだ。

 もし、ピサロの手の者なら、危険だ。わたしの居場所がバレてしまったことになる。

 スキャンしようにも、ここではわたしは〈ウェブ〉にアクセスできない。

 わたしは慎重に、声をかける。

「ねえ、あなた、どうしたの? なんで、そこにいるの? そこは、危ないわ。扉一枚の向こうは、真空よ。そんな格好で出たら、死んでしまう」

 少女はまた、その不気味なほどに美しい瞳でわたしを見て、微笑んだ。ボロっちい衣服とは対照的に、その笑顔は美しく、あまりに美しく、現実離れしていて、そして、それゆえにわたしは、不吉だと思った。

 と、次の瞬間、こちら側の扉が開く。彼女が開けたのか? わたしはとっさに身構える。

 こいつは、敵か? それとも、わたしと同じような客人で、間違えてエアロックの中に入ってしまっただけのお馬鹿さんなのか?

 わたしは、判断に迷う。しかし、ここでわたしが逃げたり、あるいは少女を殺してしまったりするのは、悪手だ。正体を見極めないといけない。

「ほら、気を付けて。そこをまたいで、こちら側に来たら安全よ」

 わたしはそう声をかける。しかしわたしの手は、腰の後ろにつけた銃をつかんでいる。少女との間には、数メートルの距離がある。彼女は、丸腰に見える。仮に彼女が何らかの攻撃をしてきても、わたしの方が速く撃てるだろう。

 しかし次の瞬間、まばたきをするような間に、

「……え?」

 わたしは即座に、反応することが出来ない。

 どうやって移動した?

 いや、本当に移動したのか?

 少女は、わたしの目の前にいたのではないか?


 認知が混乱している。

 何が起きてる?


 すると少女はその華奢な白い手をのばして、わたしの手首を、ぐいと掴む。

――まずい。

 こいつは、敵だ。


 敵だ。

 敵だ。

 敵だ。


「ねえ、一緒に行こうよ、お姉さん」


 どこからか、声が響いた。冷たく、よそよそしく、すべてを切り裂いてしまうような、それでいて、わたしをどこかに連れ込もうとしている声。

 この少女が発したのか?

 その唇が動いたようには、見えなかった。

 

 早く、撃たないと。

 早く、撃たないと。

 

 少女はわたしの顔を見て微笑む。

 なんだ、この気味の悪い笑顔は?

 次の瞬間、わたしは少女と二人で、エアロックの中に立っていた。

 わたしの手首は、少女に掴まれたままだ。

 何が起こったのか分からない。

 わたしは確かに、一秒前まで、エアロックの外の通路に立っていた。それがいま、数メートルは離れたエアロックの中にいる。

 ガタン、と音を立てて、通路との間の扉が閉まる。

 閉じ込められた。

 しまった――わたしは何をしているんだ。早く、こいつを殺さないと。チャンスは何度でもあっただろう。いや、とにかく、今からでも殺すんだ。殺すんだ。

 わたしは、銃に手をかけた。

 そのとき、透明な扉を隔てて通路側に、小さな誰かが立っているのに気付いた。

 さっきのクマだった。こっちを見て、心配そうな表情をしている。

「……リサさん? リサさんだよね? もう、部屋から出ちゃダメだって、スミノフが言ってたのに。ほどほどにしないと、怒られちゃうよ」

 わたしはその声に、少しほっとする。そうだ、戻らないと。わたしは部屋に、戻らないといけない。

「もっと早くに気づけば良かったんだけど。本当にみんな忙しくって、誰も気づかなかったんだ」

 わたしは、心を落ち着けて答える。

「やっぱり、そうなんだ。うん、すぐに戻るわ」

 しかしクマは困惑したような表情のまま言う。

「ねえ、ほんとに、大丈夫? そこ、エアロックだよ?」

「ありがとう、分かってる。この女の子に、連れ込まれたんだ。あなたたちの客人?」

「……? ……女の子? うーん、まあいいや。リサさん、とにかく、そんなところにいたら、危ないよ」

「……え?」

 全身の血の気が引く。振り返ると、そこにはやはり少女がいて、サファイアの瞳でわたしをじっと見つめている。この世のものとは思えない笑顔だ。

――わたしは、狂ったのか?

 またクマの方を振り返り、わたしは問う。

「この女の子が、見えないの?」

「……うーん、困ったな。とにかく、そこから出てこっちに来てよ、リサさん。大丈夫、ここはくじらの中、宇宙で一番安全だよ」

「本当に、見えないのか?」

「うーん、そうだね。拡張現実の類なら、ボクたちはくじらの中のことは全て把握できるはずなんだ。人間には決して見えないものも含めて、ね。でも、いまスキャンもしてみたんだけど、そこには、リサさん以外の誰もいないと思う」

 そんな馬鹿なことが、あってたまるか。

「だから、リサさん、落ち着いて。お願い、そこから出てきてよ」

 しかし、少女はやはりそこにいて、相変わらず、わたしを見つめて笑っている。

 化け物め。わたしを宇宙に誘い出して殺す気だったか?

 その瞬間、少女がにわかに動き、エアロックの外側の扉のボタンに手をかけた。


「やめろ――」

「リサさん、だめだ!」


 わたしとクマが叫んだのが同時だった。

「リサさん、だめだ! 手を引っ込めて! そのボタンを押したら、宇宙に飛び出しちゃう! 死んじゃうよ! それに、どうしてだか分からないんだけど、いまボクからその扉にアクセスできないんだ!」

 わたしはクマの方を振り返って叫ぶ。

「違う! ボタンを押そうとしているのは、わたしじゃない!」

「しっかりして! そこには誰もいない! ボタンに手をかけてるのはリサさん自身だ!」

「本当に見えないのか⁉ だからこの女の子がボタンを――」

 その瞬間、わたしは生身のまま、真空へ吸い込まれ、少女と一緒に宇宙空間に放り出された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る