トオルノ今 -あの悲劇から15年後-

 僕は愛情の疾患によって生まれた子供だ。

 

 母は僕に愛情を与えなかったまま、死んでしまった。去年の秋に職員から聞かされた事実だ。どうしてだろう。会ったこともない人なのになぜか時々涙が出てくる。人情を感じない冷たい涙はそのまま頬を伝って、やがて乾いた空気の中に消えていった。

 2月に入って、冬の寒さがどっと押し寄せてくるように冷気が体を撫でてくる。施設の中庭は真っ白な雪が降り積もっていて、まだ幼い小学生たちが雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりと自分たちの世界を作り広げていた。

  

 そんな毎年恒例の景色を横目で見ながら外の渡り廊下をのろのろと歩いていた時だ。


「矢坂君」

 

 僕の名前を呼ぶ声があった。後ろを振り返ってみると、そこには1人の職員がいた。僕の部屋を担当している原崎という女で、40歳くらいのベテランの職員だ。彼女は3年前から僕たちの部屋を担当している。もう3年もの歳月が経つというのに、彼女はいまだに僕のことを苗字で呼んでいたのだった。


「なんですか、原崎先生」


 なんでもない、いつもの会話。でも、僕が言い放った言葉になぜか彼女は震えた反応をする。


「ちょっといいかな?」


 すごく怯えているような、小さい声だった。

でも、特に気にしようとはせず僕は彼女の言葉に頷き、僕とは反対方向に歩き出す彼女の後を追っていった。

 

 着いたのは職員室の扉の前。原崎は扉を開け中に入り、僕もそれに続き「失礼します」と一言添えて入っていく。職員室は外の寒さを忘れるくらい暖房の温風が行き渡っていて暖かい。呼び出された不安がこの暖かさで少し和らいだ。原崎はそんな僕を見ることもなく、前を向いたまま隣にある応接室へと向かっていく。また不安が呼び戻ってくるのを感じながら、僕は足を急がせた。彼女はドアノブをゆっくり捻り、扉を開ける。

 

 奥行きが広い応接室だった。濃い茶色の壁と床の色、そして異様に大きいシャンデリア風の照明の光が目を刺激させる。この部屋は噂では聞いたことのある場所だった。というのは、外で犯罪を犯した生徒が最初に通されるという。自分は何かやらかしたろうか。頭の中で思考回路を巡らす。

 

 すると、部屋のセンターテーブルに置いていたテレビのリモコンを手に取り、壁に設置されているテレビに向かって電源のボタンを押した。リモコンを持った原崎の右手は震えていて、ボタンを押すのを少し躊躇ためらっているようだった。弱々しい指先でそれを押すのと同時にテレビの電源がつき、画面に映像が映る。

 それは録画されていた昼過ぎのニュース番組のようだった。季節外れの秋の紅葉を宣伝するコマーシャルの映像が終わり、女性のニュースキャスターが画面の中に現れる。

 女性はこちらに視線を向け息を少し吸い、話し始めた。

 

『次のニュースです。K市内で発生したカルト教団による無差別テロ事件から今日で15年です。20XX年10月15日午前7時頃、K市内の如月駅構内に到着した列車内で無差別テロが発生しました。犯人グループはA市に本部を持っていたカルト教団で、実行犯は11名。死亡者は乗客と駅員の、合わせて10名。黄燐の自然発火によるリン化水素ガスを列車内で発生させ、散布したと見られます』


  僕の目に映ったのは感情を見せない女性の顔と、それから少し色褪せた駅構内の映像だった。音声のないその映像は僕が今まで見たこともない非日常が広がっていた。

 

 防犯カメラで撮ったものなのか、天井あたりからホーム内を撮影しているようで、電車が到着してドアは開け放たれた。そこから降りてくる人、これから電車に乗る人、ずっとホームに佇む人。電車を利用する多くの人間たちが歩いている。

 すると、停車した車内から白い煙が見え始めた。煙はそのままドアを抜けホームに充満していく。構内にいた人や電車が次々にその白い煙に包まれ、視界が悪くなっいく。

 

 やがて白い煙が画面を覆い、何も見えなくなったところで最初のニュースキャスターの映像に戻った。カメラと目線を合わせ、口を開く。


『首謀者はこのカルト教団の教祖カグア、本名矢坂シュン容疑者42歳です。矢坂被告は教団内で無差別テロを計画し、他の信者とともに犯行を実行しました。首謀者以外の犯人10名はいずれも事件当日の1週間後である10月22日に逮捕されました』

 

 僕の同じ苗字の男がテレビの向こう側にいた。

 画面下に

「カグア・本名矢坂シュン被告(42)」

と、黒いゴシック体の文字が並んでいる。

男の顔写真を眺める。肩まで伸びた黒髪。色白で痩せていて、少し寂しい顔をしている。


「貴方の……お父さんよ……」


  原崎がテレビから目線を逸らして小声で言った。

 その言葉が僕に向けて発せられたものだと理解するのに、数秒かかった。

 

 この男が僕の父親……?

 このひとが、10人も殺した殺人犯が……?

 

 その顔を見れば見るほど意識は遠のいていき、心臓の鼓動が速くなっていくのを感じた。部屋の眩しすぎる照明が一気に暗くなっていくように煤けて見え、視界が狭まる。

 と、そこへ部屋のドアをノックし誰かが中へと入ってきた。


「遅れて申し訳ない。出張で出ていたんだ」


  僕の目の前に現れたのは施設長だった。施設長は原崎に向かってそう告げ、彼女はうなづいた。月に一回の集会でいつも聞く力強いハツラツな声が応接室に鳴り響く。

 今のテレビを見た時点で僕はなんでここに呼び出されたのか、もう誰に言われずともわかっていた。額に汗が流れ、口の中が乾いていく。胸がガラスの破片で皮膚を割くように痛い。テレビから流れてくる音声がひどくうるさく聞こえてきて、心臓の奥を突き刺しているようだった。


「矢坂君……」


  施設長はその透徹した目で僕を見つめている。僕はテレビに向けていた視線を施設長の方に向けようとする。でも、顔を捻った瞬間急に足元がふらついた。もうだめだ。何かに酔っているようで何も頭に入ってこない。僕はそのままバランスを崩し、施設長の前で倒れてしまった。

 その後の記憶は、僕は覚えていない。ただ、それまでに感じたことのない胸が焼けるような熱い感情と、倒れた時に晴れた床のやけに冷たかったあの感触は今でも身体の奥底に留まっている。

 

 僕は何者なのかを知ってしまった。

 ここから、何かが空回りし始めたんだ。


 

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