朝ノ悲劇

 K市はその日、悲劇的な朝を迎えることになる。


 無本意なカルト教団のテロ行為によって、10人もの命が瞬く間になくなるとはまだ誰も知る由もない午前6時57分。K市はいつも通りの朝を迎えた。街中を多くの通勤・通学者が通り過ぎる。人々の頬に新しい朝日が当たる。今日は快晴だ。地下にある如月駅では、スーツを着た多くの通勤者が如月駅行きの電車が到着するのをホームで待っていた。学生の姿もまばらに見える。中にはランドセルを背負った小学生の姿も。隣に立っていた黒いスーツ姿の父親のけいすけが赤いランドセルを背負った娘のあかねと喋っている。


 けいすけは勤務先の自殺防止センターに、あかねは私立の小学校に行く途中だった。2人とも如月駅で降りてそのまま徒歩で向かうので2人は毎日一緒に電車に乗って行くのが当たり前になっていた。


「早くさちちゃんに会いたいな!」


  あかねがけいすけに向かって明るく話す。


「幸ちゃん?……あぁ、赤ちゃんの名前かな。もうあかねは名前を決めたのかい?」


 けいすけは耳から入ってきた「幸」という文字に興味を向けている。


「そうだよ!お母さんと一緒に決めたの。……『幸』ってしあわせって意味なんでしょう?きっと幸ちゃんって名前だったら、みんながしあわせになれるだろうなってお母さんと昨日お話ししたよ!」


  頭の中に『幸』の字が浮かぶ。はしゃぐ娘の姿を見て自分はもう十分しあわせだと思う。けいすけはあかねの頭に大きな右手を優しく置いた。あかねは温かい父の手の温もりを感じ、口元が緩む。

 

 午前7時。2人が待っていたホームに如月駅行き電車が間も無く到着するというアナウンスが響く。やがて電車が速度を落としながら2番線に到着し、ドアが開いた。それと同時に中から乗客が何人か降り、最後の1人が降りたところで並んでいた親子と他の乗客たちも次々と乗り込んでいく。朝の通勤ラッシュということもあり、車内は床が人の足で見えないほど混雑している。親子は車内の奥まで行き、あかねは背負っていたランドセルを下ろし、両手に持ち替えた。奥の方まで、人でひしめき合っている中、けいすけが右手で吊革を握り、左手であかねの右手を握っている。その状態のまま、電車はゆっくりと動き出した。誰も握っていない吊革が左右に揺れている。電車の速度が加速するとともに揺れも激しくなっていく。


「大丈夫か。あかね」

「ちょっと暑い……」


  少し目が眩んでいる様子の娘に気づき、けいすけは小声で言う。

 

 10月も半ばだと言うのにまだK市内では25℃以上の夏日が続いていた。この日も朝から蒸し暑さを感じる気温で混み合った車内では冷房が付いているのにもかかわらず、暑さが感じられた。

 

 あかねは蒸し暑さと毎日早起きして登校している習慣からきた眠たさとで身体が疲れているようだった。

 電車は2人の降りる駅に到着する。ドア付近にいた乗客たちがドアから手や身体を離し、開いた扉の中からぞろぞろと人が降りてくる。親子も車内から降りようとした。


 その時だ。2人の日常が一変した。

 けいすけは信じられないものを見てしまう。


  車内が勢いよく燃えている。ほんの数メートル先が火の海になっていたのだ。

 目の前の光景に叫ぶ声すら出ず、右手で口を覆い、その場にしゃがみ込んだ。それと同時に燃えている車内の様子を遮るように我が子を抱きしめる。


「あかね……!」

 

 娘は自分の目に入ってきたものを理解することができず、ただ立ち止まっていた。


「お父さん、苦しい……」

 

 力の無い声であかねが呟く。けいすけも呼吸をするのに苦しさを覚える。だんだんと目眩がしてきた。やがて頭の中が真っ白になっていく。何も考えることができない。何が起こっているのかもわからないまま、けいすけは横になっている自分だけがいることを認識していた。


(走馬灯……?)


気がつくと、真っ白な視界の中から映像がくるくると回る走馬灯のように浮かび上がっていた。これには見覚えがある。6年前、あかねが生まれた時の記憶だった。


 まだ1歳にも満たない小さいあかねを妻のみづきが抱いている映像だった。そこは若き妻が出産を迎え、入院することになった産婦人科の病室だ。ぐっすりと眠っているあかねを見つめながらみづきは微笑み、見守っている。それは明らかに自分たち家族の幸せな風景だった。しかし、けいすけは少しの違和感を覚えた。


(俺が、どこにもいない)


 いくら時間が過ぎ去ってもずっと視界は変わらず、みづきはあかねを抱いたままだった。そして彼は驚くべきことに気づいてしまう。


(この子は、あかねじゃない……!)


 あかねの右目の下についてあるホクロがどこにも見当たらない。あのホクロは確か生まれた時からついてあるもののはずだった。


 けいすけの感じる違和感は他にもあった。


(あんな花、飾られてあっただろうか?)


 動かない視界の片隅に、奥の棚に飾られてある花があった。それは白いカスミソウの花だった。細かく枝分かれされている先端部に、繊細な花びらがいくつも咲いている。誰かからの贈り物だろうか、はたまた自分が買ってきたものだったろうか。しかし、その花には全く見覚えがなかった。


 すると、誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。みづきが目を閉じて泣いている。涙は彼女の赤い頬を伝って、赤子の顔の上に落ちていった。


(みづき、どうして)


  何が悲しいんだ。その小さい肩を包んでやりたいと思い、必死で動こうとした。だが、その思いも虚しく身動きは愚か、視界まで操作が効かない。


(俺は今、何を見せられているのだ?)


これはきっと走馬灯じゃない。そこはけいすけのいない世界なのかもしれない。どうして自分はそこにいることができないのだ、と意味のない疑問をその映像に投げかけていた。


 やがて、その映像は段々と消えかかり、また真っ白な世界へと吸い込まれていった。


 さっきまでのあかねもここにいるのだろうか。俺はどうなろうとしているのだろうか。やはり、疑問は尽きないでいた。ただ、眠っているという感覚だけがけいすけの心の支えだった。


 










 


 

 

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