追憶

 少年はまた泣いていた。

 自分の弱さを隠すつもりもなかった。怖いものは怖い、痛いものは痛いと言って、泣きたいときにはすぐ泣いて、ただ自分の一定の尊厳が守られればよく、それが侵されさえしなければ、強さを誇示したいなど思わなかった。

 だから今日も泣く。彼は弱かった。

 そしてわがままさもあったが、人一倍お人好しでもあった。


 ある田んぼ道。

 少年の周りで5人の男子が笑っている。

 少年は泣きながら立ちあがり、一人の男子に突進した。

 が、すぐに蹴り飛ばされた。

 うずくまる少年を笑いながら5人は去っていく。


少年のもとへ駆け寄る女子が一人。

「またやられたの?大丈夫?」

 少年は涙と鼻血を隠すようにして立ち上がった。

「加奈子、いつもありがとう。大丈夫だよ」

彼女はいつも、庸平の味方だった。


 3年後、少年は同じ道を同級生と歩いていた。

「お前またいじめられてたな。

お前は意気地がないしよ、女みたいで気持ち悪がられてんだよ」

「……」

 その言葉を残して同級生は右に折れていった。

 少年は一人で歩きながら考える。

 女みたい…か。男らしいって何だよ。

 両親も、男らしくないと気にやんでいた。

 少年自身も、これを恥部としていた。


 後ろを見ると加奈子とその友人が歩いている。

手を振って近寄ろうとすると、二人は何かコソコソと話して、方向を変えて行ってしまった。

そうか、もう味方はいないのか。

 庸平の頬を涙がつたう。

他人に期待したから、傷つくんだ。


「ただいま!」

 ニコニコと笑って家に入る。

 母は炊事場で夕食の用意をしている。

「お帰り!テストどうだった?」

庸平は黙って答案を渡す。

「90点か…。まだまだね。

これくらいの問題、100点取れないとね」

「うん…」


その夜、その家からは叫び声が響いていた。

「何でこんなこともできないの?ずっと言ってるじゃない!

勉強もできない!人の気持ちも考えられない!あんたは病気なのよ!

産んで失敗した!」


近所の主婦たちも噂している。

「あの家まただよ…」

「大丈夫かね…」


庸平はいつも蹲るようにして布団に入る。


俺は、産まれてきてよかったんだろうか。


生きていていいんだろうか。


 庸平は中学生になった。

 庸平は走っていた。

 前を走る小太りの男子は、庸平の筆箱を持って笑っている。

「返してよ!」

 立ち止まった男子に飛びついた庸平は地面に叩きつけられた。小太りが馬乗りになる。

「お前を怒らせるの面白いんだよ」

 庸平はさらに掴みかかり二人は揉み合った。

 今度は庸平が上になる。

 庸平に腕を抑えられ、小太りは動きを封じられた。

 が、庸平はそこから動かない。動けない。

 それを見て小太りはひきつった笑みを浮かべる。

「…、それで勝った気?」

 庸平は真下の顔に拳を叩きつければよかった。

 でもできなかった。

 それをやれば相手はさらにヒートアップするだろう。

 殴り返されるのが怖かった。

 庸平の表情にみるみる恐怖が走った。

焦っているうちに、庸平は胸ぐらを掴まれ引き倒されると、その顔に拳が入った。

 庸平が悶絶するうちに、小太りは去っていった。

 庸平はしずしずと教室に戻って席につく。

「うわ!女座りや!」

 入ってきた男子が声を上げた。

 庸平は内股で座っていた。

「別にいいじゃん」

「お前男らしくないんだよ。

 気持ち悪い」


 またそれか…。

 でもその通りだ。

 力もなければ意気地もない。

 楽なことばかり求める。逃げることばかり考える卑怯者だ。

 家族に泣きつくこともできない。

 家族の恥だ。

 甘えたい。誰にも甘えられない。

 甘えているんだ。自分に。

 甘えてきた結果がこれだ。


もう、逃げ場はない。

どうせ産まれてきたことから間違いなのだ。

何を怖れる?

どうせ全員敵なのだ。

考えるから怖いのだ。

痛みなんて、脳の電波情報にすぎない。


 思考を停止させろ。

ボコボコにされようとも、負けなければいい話である。勝つか、死ぬかだ。

 いいさ。学校中全員に宣戦布告してやる。

勝てるわけがない。

やっと死ねる。


 庸平はまた男子と組み合っていた。

 庸平の顔に拳が入った。

 庸平は一瞬怯んだ。

 しかし次の瞬間には、庸平の頭を怒りが支配した。

 相手へ拳を気の晴れるまでぶつける。


 最高だ。


 桐野は笑った。

 殴る、殴られる。ここにはそれだけしかない。

 庸平にとって最も邪魔だった思考はここでは必要ないのだ。怒りが、本能を呼び覚ます。

 庸平が馬乗りになった。

 今度は間髪入れずに拳を叩きつける。相手に反撃する暇を与えずに。

 何度も、何度も、打ちつける。もう反撃できないように。

「やめ…て」

 泣き出した男子を見て手を止めた。


 これじゃあただの暴力だ。

 このバカどもと一緒だ。

俺にはもう敵しかいないんだから、認めてくれる人はいないのだから、せめて自分自身には、誇れる人間であろうや。

 そのためには芯が必要だ。

 何より、いかなる恐怖も絶対に揺らがせることのできない芯が。

 理屈は必要ない。

 理屈で物事を見れば、大義を見失う。意味よりも、直感で美しいと感じることに行動すればいい。

必要なのは、一筋の芯の通った美学だ。

 

たとえ嫌われようと、一人になろうと、俺の中には、俺の理想の美しさを持った桐野がいる。

 廊下の先に男子たちがニヤニヤして立っていた。

 思わず庸平の足がすくむ。

 だが桐野、お前ならどうする?

 駆け出していく桐野が見えた。

 その先に男子たちから流れる血が見えた。この液体が、桐野の証だった。

 生を捨て死を捨てたとき、この液体とともに桐野が生まれる。

 庸平は男子たちに向かって駆け出した。


 そして庸平は、血まみれで立っていた。

 その前で両親が怒鳴っていた。

 パトカーのサイレンが響き渡る。

一人二人殺していったい何が悪い?

こちとら命を懸けてるんだ。俺に突っかかるってことは、当然命を懸けて来いよ。


桐野にはもう、失うものがない。

 最初からどん底にいれば、もう落ちることはない。

 人間の欲は尽きないのだ。上に行けばさらに上を求める。幸福なんてはかない、虚しいものなのに。

 その虚無に気づいたとき、人間は自我を見失う。

 欲望は感情とともに消えた。

 桐野という美学だけが、血とともに生まれた。


 今日もむかつくほどうららかな快晴である。

 ノックの音で庸平は跳ね起きた。

 千紗が中に入って来た。意外な人物の訪問に庸平は目を丸くする。

「何聞いてるの?」

 庸平はイヤホンをしたままだった。

「ただの音楽だよ」

 千紗が片方を取り上げ自分の耳に当てる。

「ドビュッシー?随分淋しい曲だね。

 もっと猛々しい音楽聞いてるかと思った」

「血が落ち着く」

 ふーんと千紗は聞き続けている。

「どうした?何か用があって来たんだろ?」

「あ、そうそう!今日なんの日か知ってる?」

「さあ…。千紗の誕生日か?」

「違うよ!」

 そう言って何やらチラシを取り出した。

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