おじいさんの生えない木

コウキシャウト

おじいさんの生えない木

私、中山和樹はもうすぐ米寿を迎える男だ。妻に先立たれた私は、今一人縁側に座り、趣味であるラジオを聴きながら、庭のある場所を凝視していた。傍から見れば、私の視線の先にあるものは草さえ生えていないただの土であり、愛する者を亡くした、後は死を待つのみの枯れた男が魂さえ抜けた状態で佇んでいるようにしか見えないだろう。しかし、それにも理由がある。


私が若い頃、つまり半世紀以上前のこと。夜の屋台で管を巻いていた時だ。たまたま隣に座っていたみすぼらしい老人から貰った木の種。確かヒノキだったはずだと思うが、これを埋めてマメに水をやるといい、と言われた。途中うんざりするだろうが、諦めずとにかく水をやるんだとも。


謎の老人から種を貰った翌日から、私はそれを家の庭に埋め、水をやりはじめた。晴れの日も雨の日も、春夏秋冬ずっとだ。しかし、不思議な事に芽は一切出なかった。私は少々憤りを感じながら、老人に問いただすつもりで屋台にも何度か足を運んだが、その老人に会う事は二度となかったのである。


ほぼ一年程経ってもやはり状態は変わらず、それ以降も惰性で何も芽生えていない土に向かって水をやり続けていた。この地点で諦めても良かったのだが、老人の「諦めず」という言葉が妙にひっかかり、気付けば無意味とも思える水やりを妻や友人に指摘されながらも日課とし、いつの間にかあの老人と同じ位の年齢になってしまった。


この年になると、誰でも考える事なのかもしれないが、私は今までの人生の意味を考え始めた。「諦めずに努力すれば夢は叶う」というモットーは、それこそ若かりし頃持ってはいたが、努力が報われず夢が叶わなかったケースは喜劇映画の内容としても通用するかの如く、余りに多かった。そして傍から見れば私よりも適当に、いい加減に生きていそうな人間が何故か報われている姿も沢山見る中で、いつしか私はもっと適当に、大して努力せず、なんとなく生きるべきだったのではないかと思い始めてきた。私が諦めず、努力と言えば大袈裟だが、何十年も続けてきたこの日課も、笑ってしまう程に変化がないのだから。


この何十年間、日本は大きく変わった。家の周りも気付けば馴染みの有った家は壊され、新しいタワーマンションや家が林立し、変化もなくただ朽ちていくだけの家と住人である私を寂しく浮き彫りにする。私は、大きく変わった日本や環境に相応しい成長や夢を手にした事は有ったのだろうか?


寂しさの伴う沈黙の時、ラジオの内容が鮮明に聴こえる。


「大変珍しいニュースが飛び込んできました。日本の反対側である南米ブラジルの奥地で、謎の言葉を叫んでいる先住民が発見されたとの事です。調査の結果、彼らは現地では大変珍しい、何百メートルにも渡るヒノキの高木(こうぼく)を取り囲んで名前を叫んでおり、ヒノキ特有のリラックス効果が彼らに長年癒しをもたらし、それを称える形でヒノキに彫られた謎の文字を彼らは叫んでいるようです。そして更に調査を進めると、それは日本人らしき名前だそうで、今その名前はこのニュースを通じ世界に浸透しつつあり、この名前の人物の情報提供を呼び掛けており、こちらがその音源です」


「「「KAZUKI NAKAYMA,KAZUKI NAKAYMA,KAZUKI NAKAYAMA・・」」」




私は少し首をかしげながらも、ニヤリと笑った。それも、かなり久々に。


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