34 夏のひととき
直前に色々あったものの、俺たちの学校は、とうとう夏休みがスタートした。
毎日毎日あのクソ強い日差しが降り注ぐクソ暑いなかでの登下校にうんざりしていた俺にとって、こんなにも嬉しいことはない。当然、夏休み中はほとんど外出しない予定だ。
SNSのオタク仲間のなかには、日本最大の同人誌即売会、所謂『夏コミ』に参加する人もいる。しかし、俺はこの通り出不精で、人混みも大嫌いで、おまけに体力もない。あんな人だらけのところに、あんな酷暑極まりないなか出向いてはどんな羽目になるか、たかが知れている。というわけで俺は、つくった同人誌をインターネット上で販売し、少しでもコミケ気分を味わうことにした。
の、だが……。
『え? まだできてないんですか?』
そう、まだ未完成なのである。
「いや、まぁ、できてないというか、脳内では完成してるというか……」
『それをできてないって言うんですよ。え、もうこの日から通販しますよって告知しちゃってるんですよね? しかももうすぐですよね?』
「……あぁ。まぁ、コミケじゃないから締切厳守ってわけじゃないけど、あんまり遅れるとちょっと、待っててくれてる人に悪いし。でもなぁ、何かモチベ上がんないんだよ」
冬樹と通話をしながら、頭を抱える。
コミケが八月の中旬なので、それに合わせて販売開始する予定なのだが、現在は七月も下旬にさしかかっている。一見そこそこの猶予はあるように思える。しかし、俺の場合事情が違う。事態はもっと深刻だ。何といっても、八月上旬に修学旅行が控えているのだから。流石に、修学旅行の真っ最中にまで原稿のことを持ち込んでしまうのは避けたい。大体、修学旅行の自由時間では大して進む見込みもない。要するに、俺に残された選択は、諦めて販売開始日を延期するか、ここから修羅場上等で巻き返すかしかないのだ。
『どんな内容か、とかは流石に決まってますよね?』
「そりゃそうだよ。ネームは仕上がってるさ」
内容は、某人気学園もの漫画の二次創作で、若干の、本当に言われなければわからない程度のカプ要素は含まれているものの基本的にはライトな短編集を予定している。そこまで過激な描写はない予定なので(そういうのは年齢的にも技量的にも心情的にも描けない)、初心者でも比較的読みやすいものになるだろう。
『じゃあ、身近な人に見せても大丈夫な内容なんですね』
「あー……若干恥ずかしくはあるけどな、一応は見せられる。てか、お前まさか読む気か?」
『それもありますけどー……もういっそのこと、みんなに手伝ってもらったらいいんじゃないかって!』
「は? みんなって?」
『そりゃ秋人君たちに決まってるじゃないですか! 独りで戦うよりみんなで戦いましょうよ。僕もトーン貼りくらいならできますし』
「うーん、なるほどなぁ」
確かに。冬樹の言う通り、みんなに手伝ってもらった方が、希望の光は大きくなる。しかし、俺と同じく夏休みに全く予定を入れていないとわかりきっている冬樹はともかく、光たちは予定が明瞭じゃない。もし何かしらの予定があれば、俺なんかの為に時間を割いてもらうのは申し訳ない気がする。
『それに、独りで戦った結果、要さんが倒れたら元も子もないじゃないですか。要さん、一度集中したら平気で食事も水分も摂らないことあるでしょう? この時期、無理は禁物ですよ』
「それは、まぁ確かにその通りだな。てか、唯也先輩の時といい、お前は俺のオカンかよ。夏休みの宿題は、中学時代からずっと俺の世話になってるってのに」
『そ、それは今関係ないでしょ! わかってますよ、今年こそはちゃんとしますから』
「どうだか。春樹先生に監視してもらわなきゃな」
『とにかく! 今回ばかりは僕たちに頼ってください! お兄ちゃんにも一応話しておきますね!』
「やめてくれ流石に大人に見られるのはきつい」
かくして、ちいサポ会のみんなを巻き込んでの修羅場が、たった今半ば強引に決まった。
そこからは早かった。
翌日。冬樹が、日程候補とその日予定が合う人物をリストアップしてきた。俺とは正反対な、あまりの仕事の早さに愕然としたものだ(ちなみに、俺の方でもある程度原稿を進めておいた。まぁ、とは言っても線画くらいだが)。予定が合う、もしくは快諾する人物は、全員ちいサポ会の面子になるだろうと思っていたが、どうやらそうではなかった。秋人と、秋人の妹さんと、美玲と、あと一人、美玲の双子の弟も大丈夫ということだった。
「美玲って双子だったんだな。初耳だ」
『そうなんですよ! 僕も、身近に双子って弟たちしかいなかったんで驚きましたよ』
「こうなってくると、小学生にも見せられる内容にして本当によかったよ」
『ですね~。万が一要さんが自分の欲望に忠実になってたら、小学生どころか僕たちも見ちゃダメなやつになってたでしょうし』
「うるせぇよ。あ、線画は俺の方で進めておくから、トーン貼りを手伝ってもらいたいって話はしたよな?」
『もちろん。でも光ちゃん先輩は、それでも最後まで嫌がってましたねー。仕方ないですけど』
「まぁな。強制させるわけにもいかないし。あ、そういや、唯奈たちもダメなんだな」
『そうなんですよ。みんなで旅行に行くみたいで。ちなみに、侑さんにも声かけたんですけど、そっちはサークルの予定があるらしいです。そりゃ夏休みですし、みんな暇じゃないですよね』
「だよな」
その後、正確な日時が決まり、秋人たちに連絡を取った。俺は兎にも角にも、当日までに、最低でも線画は仕上げなければならない。
そして当日。天気予報曰く比較的暑くない日の、比較的暑くない夕方からということだったので、俺はなんとか午前中、死にもの狂いで線画を完成させた。描き忘れや台詞の誤字脱字等はろくに確認できていないが、まぁ、それも冬樹たちに手伝ってもらおう。
と、玄関のインターホンが鳴った。
「はーい」
一応、ドアの覗き穴から来訪客を見て、そこにしっかり冬樹たちがいることを確認してから、ロックを外しドアを開ける。
「お邪魔しまーす!」
「へぇ、ここが要さん家かー!」
無遠慮にどかどかと俺の家に足を踏み入れる秋人たち。それを窘めるのは、兄とは対照的に相変わらず生真面目そうな妹さんだ。夕方とはいえ普通に暑いのに、ブラウスの襟を首元まできちんと閉めている。
「ちょっと、靴くらいちゃんと揃えてよ。すみません、失礼します」
「おー、いらっしゃい……あれ? 美玲たちは?」
「用事があったから、ちょっと遅れるって。じいちゃんが車で送ってくれるみたい」
「ふーん」
美玲の弟も気になるが、美玲の祖父も何気に気になるな。美玲と似た、寡黙なタイプなのか。それともその真逆なタイプなのか。
と、その時。遠くから車の走行音が聞こえ、やがてアパート付近に停車した。あれが美玲たちだろうか。そう思って見守っていると、中から美玲たちが出てきた。声を掛けてみる。
「すみません、ここです!」
俺の声が耳に届いた美玲の祖父らしき人物は、手を上げて応えた。その動作はスマートで、どことなく男らしさを兼ね備えていた。上も下も濃紺のジーンズで揃えていて、スタイルも良く、とても若々しく感じる。
美玲たちにも目を向ける。美玲はいつも通り、特に普段と変わった様子はない。服装も(それに関して、俺がとやかく言えた義理ではないが)、黒基調のワンピースで、普段と同じく極めてシンプルなもの。それより俺の目を引いたのは、美玲の双子の弟らしき子だ。双子だから当然といえばその通りなのだが、遠目から見ても美玲と瓜二つな外見をしている。それでいて、かなり綺麗な顔立ちだ。何も知らなかったら、女の子だと見紛うに違いない。初夏といい、この年頃の子は性別がわかりづらいことも少なくないが、彼はそれにしても際立っている。また、美玲を初めて見た時に感じた、そこはかとない無機質さも、同じように感じる。やはり服装も美玲と似通っていて、黒のTシャツと黒のハーフパンツという組み合わせだ。
青木一家が、俺の家の玄関まで近づいてきた。そこで初めて、ちゃんとした挨拶を交わす。
「はじめまして。一宮と申します」
「おう、君たちが『地域サポート会』か。こちらこそ、孫がいつもお世話になっています」
深々とお辞儀をする、美玲の祖父。俺たちも、それに呼応して頭を下げる。
「いやぁ、一度顔を合わせてみたかったんだよ。何せ、この人付き合いが苦手な孫が、心許してるってんだからさ」
そう言いながら、美玲の頭を豪快にわしゃわしゃと撫でる美玲の祖父。こうして見ると、やはり美玲たちとは違ったタイプっぽいな。美玲の口が動いていたが、何を喋ったかまでは聞き取れなかった。
「美玲ちゃん、そんなこと思ってくれてたんですね」
「ありがとな、美玲!」
美玲が若干照れくさそうに、小さく頷く。
「なるほどな。一目見てわかったよ。君たちは、信頼できる人間だ」
「え、そんな、俺たちさっき会ったばっかですよ」
「はっはっはっ、確かにな。だが、自慢じゃねぇが、俺は人を見る目には自信があるんだよ。いつどこで、俺の愛する孫が、どこの馬の骨とも知れない怪しい野郎に捕まるかわからねぇからな。その点君らは安心だ。俺の直感がそう言ってる」
「は、はぁ。直感が。まぁ、それは、ありがとうございます」
何か……かっこいいな、この人。
中身はもちろん、見た目もスタイリッシュで、年齢を全く感じさせない。年を取ると背骨が曲がると言われがちだが、この人は姿勢が真っ直ぐで綺麗だ。猫背な俺も見習わなくてはならない。
「あぁ、すまん。君らに紹介しなくちゃならんな。美玲は見知ってるだろうが、もう一人、弟の
美玲の弟──玲音が、祖父に促されて前に出てくる。
「……青木玲音、です」
玲音は、姉よりは低いがやはりか細い声でそれだけ言うと、ぺこりと頭を下げた。フィクションだと、双子は似た見た目で性格は真逆なことが多いが、この子の場合はこの様子だと、性格も美玲と瓜二つっぽい。
「すまんね。こいつはこの通り、人見知りが激しいんだ。まぁ君らの場合、美玲がもう一人いると思ってくれりゃいいかな。何にせよ決して悪い奴じゃない。良くしてやってくれ」
「わかりました」
「よろしく、玲音!」
「お兄、初手から馴れ馴れしすぎでしょ……」
「何だよそれー! フレンドリーって言えって!」
まぁ、こういうのは、秋人の得意分野だな。美玲の時も、彼女の心を開かせたのはこいつだった。
「そんじゃ、よろしく頼む。できれば俺も手伝ってやりたいんだが、如何せん漫画のことはよくわからねぇ。老いぼれは引っ込んで、若いのに任せた方がいいってことよ」
それだけ告げて、美玲の祖父は颯爽と去っていった。なんというかもう、イケオジってああいう人のことを言うんだろうな。俺を将来はあんな人になりたい。
「それじゃあ、二人もいらっしゃい」
みんなを中に入れると、そのままリビングへ直行する。客が来る、ということになったので、若干散らかり気味だった室内は、母さんの手も借り、数日かけて丁寧に隅から隅まで掃除した。ちなみに、入れる予定は今のところないが、一応俺の部屋も同様に綺麗にした。見られたら色々立場が危うくなるようなものは、全て絶対見つからないであろう場所に隠した。
予め必要な道具を用意したリビングのテーブルに、みんなを案内する。みんなが椅子(これも予め人数分用意した)に座ると、取り留めのない雑談が始まった。
「なぁなぁ、何で玲音は、俺らと顔合わせてまでこれ手伝いたいって思ったの?」
秋人が、玲音に対して質問する。確かに、人見知りという割には、今回知らない人だらけのところに行く決断をしたのは、疑問といえば疑問だ。
しかし、質問に答えたのは、本人ではなく美玲だった。
「……玲音は、漫画が好き、だから」
「漫画が好き? なるほど、それって製作にも興味があるってことか?」
玲音が無言で頷く。
「いやぁ、ど素人の俺なんかで参考になるのかどうかわからんけど……でも、興味を持ってくれたんなら嬉しい」
「……私は、そういうのは、よくわからないけど……要君が、仲間が、困ってるなら、力になりたいって、思った」
「そうか。それは助かる」
「俺も一緒! 別に何の予定もなかったし、仲間が困ってんのに見過ごせないし」
「そして私は、そんな兄のストッパーです。それに、一宮さんたちには恩があるので。こういう形でお返しできればいいなと思い、こちらに伺いました」
「ちょ、なんか秋葉、面接みてーだな。それにストッパーって。俺そんなトラブル起こしそうに見える?」
「だってお兄と一宮さん、全然タイプ違うじゃない。トラブルとまでは流石にいかないと思うけど、何か困らせちゃうかもしれないでしょ」
「えー……俺、信用なさすぎじゃね? 一応兄ちゃんなんだけど?」
小坂兄妹のコントのようなやり取りに、リビング中が、温かい笑いに包まれる。俺は、身に余るくらい仲間に恵まれているな。
「それじゃあ、早速始めますか!」
「よし。みんな、今日は集まってくれてありがとう。どういう作業をしてもらいたいのか、まぁもう把握してると思うけど、一応説明しておくよ」
線画は完成しているから、みんなにはトーン貼りを手伝ってもらいたいということ。誤字脱字や描き忘れ等を発見したら、それも報告してもらいたいということ。そして、その方法。俺は、いちから丁寧に説明した。
「要さん、漫画家みてー! マジすげー!」
「そんな大層なもんじゃねーって。褒めすぎだ」
「私も、兄と同意見です。本を出すなんて、そうそう容易なことではないと思いますし」
青木姉弟も頷く。
何だか、ここまで言われるとくすぐったくなってくる。
「ふふ、要さ~ん。言われちゃってるじゃないですか~」
「何でお前が得意気なんだよ。ほら、前置きはこれくらいにして、早く作業始めるぞ。もちろん、今日も暑いからな。休憩時間は適宜とるようにするんだぞ」
「それ、要さんが一番意識すべきことですからね」
「わかってるっつーの」
ここからはしばらく、特に何事もなく、時折会話も交わしつつ、和やかな空気で作業が進んだ。
「へぇ、トーン貼りってこんな感じなんだ。結構楽しいかも!」
「そうか? そりゃよかったが、案外、最初だけだよ。繰り返すにつれ、単なる必須作業以上じゃなくなる」
「何かもう漫画家というより職人ですよその発言は」
「何だよそれ」
妹さんの方に目配せする。普段の人物像からなんとなく想像はついていたが、やはりとてつもなく丁寧にやっている。何なら俺の方が大雑把なまである。
「ちょっとお兄、もっと丁寧にやってよ。人様の作品なんだから」
「えっ、いや、これでも丁寧にやってる方なんだけど!? 細けーって」
妹さん、秋人のオカンとか通り越して最早姑の域だな……。
一方で、黙々と取り組んでいるのが、青木姉弟だ。作業も細やかで、真剣に取り組んでくれているのがわかる。無論、こいつらなら賑やかでも、ふざけるなどということは有り得ないが。
「よしっ、背景できた! こんな感じ?」
「いいな、イメージ通りだ。ありがとう、秋人」
「私もできました。トーンのありなしでこんなにイメージが違うんですね」
「妹さんもありがとう。本当にその通りなんだよ」
「お役に立てて嬉しいです」
妹さんは、おずおずと続けた。
「……あの、その『妹さん』って呼ぶのやめてもらえませんか。まぁ、一宮さんにとっては兄の──秋人の妹なので、仕方ないとは思いますが。私には秋葉という名前があるので」
「あっ、そうだよな。申し訳ない……秋葉さん」
妹さん、もとい秋葉さんは「いえ、決して怒っているわけでは」と首を横に振る。しかし彼女の指摘は尤もだ。秋人の妹なので、つい『妹さん』と呼んでしまっていた。俺と彼女の距離感的にも、名前呼びがなかなかしづらかったのも事実だ。
秋葉さんは、話題を切り替えるように咳払いをした後、続ける。
「で、一宮さん。いかがでしょうか。何か至らない点がありましたら、何なりと」
「い、至らない点? そんなんないよ。秋葉さんはとても丁寧にやってくれてる。寧ろ俺の方が見習いたいくらいの出来だ」
「ほ、本当ですか? ありがとうございます」
「秋葉、堅いって~。もうちょい肩の力抜けよ、お仕事じゃないんだから」
「そう言われても、難しいものは難しいの。私からしたら、人様の家なのにそんなに寛げるお兄の方が不思議」
「はは、マジで面白いよな~。兄妹なのにここまで違うとか」
確かに。俺はきょうだいがいないのでよくわからないが、現実的に考えると、育ちが同じだと基本的に思考回路もある程度似たものになりそうなものだ。小坂兄妹のような、まるでフィクションみたいな正反対なタイプというのはなかなか興味深い。……いや、考えてみれば、光と侑さんなんか真逆だし、冬樹と春樹先生、唯奈と唯也先輩、小春と初夏もさして近いタイプではない。きょうだいって案外、性格似ないもんなのか? 俺の周りじゃ、(たった今出会ったばかりだが)青木姉弟のようなタイプの方が少数派だ。
「……僕も、できた」
などと考えを巡らせていると、右隣から小さい声が聞こえてきた。玲音だ。彼には、登場人物の髪のトーンを任せていた。
「おー、綺麗にできたな」
「……頑張った。髪の細いところまでやるの……大変だった」
「ごめんな、その描き方、手癖で。俺もやってて『誰だこんな細かく描いた奴』って思う。自分なのにな」
「……責めてるわけじゃ、ない。すごく、繊細な絵柄で……僕は好き」
「え、そ、そうか。ありがとう」
どうやら、ストレートすぎる褒め言葉も、双子で共通のようだ。こう褒められるのは、どうも慣れない。
談笑は続く。もちろん、作業を進めながら。
「そういや、美玲と玲音のじいちゃん、かっこよかったな! 何か、いい年の取り方っていうか」
「それ僕も思いました! すごいシュッとしてて、ダンディーな雰囲気で、ああいうおじいさんになりたいってみんなが憧れる感じの人でしたよね」
「やっぱお前らも思ったか。あんなおじいさん、そうそう周りにいないよな」
「……おじいちゃんは、昔は、警察の人だったみたい。……私たちが産まれた時に、定年退職したって聞いてる」
「元警察? なるほどなぁ」
道理で、人を見る目に自信があるはずだ。それはもう、その道においては百戦錬磨。数々の修羅場を乗り越えてきたのだろうから。こちらがいくら猫を被って取り繕ったとしても、あちらには全て見抜かれるに違いない。あのスマートなかっこよさにも納得だ。
そこから、話題は自然と、それぞれの家族のことになった。
「……私たちの両親は、仕事でほとんど海外にいる」
「……うん、だから、おじいちゃんが、僕たちの面倒、見てくれてる」
「へぇ、すげーんだな、二人の家族! 俺らんとこはそういうのないよなぁ。父ちゃんはサラリーマンで、母ちゃんは主婦」
「うん。何か、典型的な昔の家庭像って感じ。それでも別にいいんだけどね。何も不自由はしてないし、二人もそれで納得してるみたいだし」
「僕のところも同じようなものですよ。まぁ、こっちは共働きですし、兄弟も多いですけど。久しぶりに顔見たいなぁ」
「……? 相沢さんって、一人暮らしなんですか?」
「あ、そういえば言ってなかったですね。一人暮らしじゃないんですけど、色々あって故郷出て、今は兄と──その兄は、僕が通う高校で、ずっと前から教師やってるんですけど──二人で暮らしてるんです。つまり、両親と弟二人を残して、高校入学を期に上京したんですよ。まぁ、定期的に連絡は取り合ってますけどね」
冬樹の家族事情については、ざっくりだが知っている。家族の話、俺が会ったことのない弟二人の話も、冬樹から度々話は聞いている。仲は極めて良好。温かい家庭であることが窺える。
「そーいや、冬樹と要さんって、中学同じだったよな」
「あぁ、そうそう。冬樹の家族のことも、ちょっとは知ってる」
「じゃあ、冬樹も要さんの家族のこと知ってたり?」
「要さんの、家族、ですか……」
冬樹が、ちらっと俺を横目で見やる。俺の家族について話すべきかどうかの判断を、俺本人に委ねている。
ここで黙っているのもおかしい。簡潔に述べて、早く終わらせてしまおう。
「……別に、そんな面白いもんでもないよ。きょうだいはいないし、母親は日中働きに出ていて、父親は──」
そこで言葉に詰まる。次に続けるワードを、必死に探し出す。
「父親は、今は、遠くに行ってる。……家には、いない」
「ふーん、単身赴任的な?」
「……まぁ、そういう認識で構わない。もうこんなもんでいいだろ、俺の家族の話は。ほら、作業進めるぞ」
「え、は、はーい」
流石に不自然すぎたか……? とは思ったが、一先ずはこの場を切り上げることができた。秋人たちには悪いが、ここで俺の家族について、詳しく話をする気はない。
……詳しく話をする勇気は、ない。
原稿の半分程を終えた時、冬樹から提案があった。
「キリのいいところで、そろそろ休憩した方がいいんじゃないですか。ほら要さんも!」
「あー、そうだな」
気付いたら、喉が渇き切っている。そういえば、冬樹にあれだけ言われたのに、碌に水分も摂っていなかったなと思い出す。
「よし、一旦休憩とするか。飲み物とか用意したけど、何かリクエストは?」
「コーラある? 俺コーラがいい!」
「オッケー、コーラな。しっかり確保してある」
「私は、麦茶で大丈夫です。何かお手伝いしましょうか?」
「いいって、お客さんなんだから。ゆっくりしてな」
「……私は、水で」
「……僕も」
「僕はいつものでお願いしまーす!」
「はいよー」
人数分のコップを用意し、それぞれのリクエストのものを注ぐ。ちなみに、冬樹の『いつもの』というのはエナジードリンクで、俺も同じものを好んで飲む。そもそも、俺が飲んでいたのを見て、冬樹も飲むようになったのだ。
あ、そうだ。お菓子も用意してたんだった。大したものは用意できなかったが、何もないよりはずっとましだろう。
「はい、お待ちどおさん」
テーブルに菓子と、飲み物の入ったコップを置く。当然、原稿たちは安全な場所に避難させている。
「ありがとー。あ、この煎餅! 俺好きなんだよね」
「家にずっと常備してあるやつだよね。うちの家族、それくらいこのお煎餅好きなんです」
「本当か。ならよかった」
その辺のスーパーで買える市販の安物とはいえ、無論適当に選んだわけではない。こう喜んでもらえるのは、もてなす側としても嬉しい限りだ。
思えば、俺の家にここまで多くの客が訪れるのは初めてのことだ。あっちにいた時はもちろん、ここへ引っ越してきて一年目──ちいサポ会に入る前──の頃は、家へ招く程の親しい友人など冬樹以外(その冬樹も、俺が一年生の頃はまだあっちにいたので、この家に招くことはほとんどなかった)にいなかった。
だから、こんな光景は、俺にとって新鮮極まりない。我が家に複数の客が訪れていて、その全員が俺関連の知り合いで、俺のために集まってくれているだなんて、未だに実感が薄い。あっちにいた頃、ここへ来て間もない頃には想像もつかなかった。夢のまた夢の話だと思っていた。それが今、現実としてここにある。
人生、どうなるかわからないもんだな。十二分に理解していたつもりだが、改めてまた理解する。
「あ」
また思い出す。
「そうそう、アイスも用意してたんだった」
アイス、と聞いてみんな目を輝かせる。この暑い時季、アイスとキンキンに冷えたドリンク程のご褒美はないように思う。
「アイス!? マジで!? やったー!」
「わざわざすみません。それで、どんな種類があるんですか?」
「おっ、秋葉アイス好きだもんな~。わくわくしてる!」
「い、いいでしょ別に」
アイスが好物らしい秋葉さんのためにも、キッチンの冷凍庫へ向かい、そこから取り出して種類をみんなにわかるように見せた。
「好物だっていうなら、用意した甲斐があったよ。種類はざっとこんな感じ。後でもいいけど、今食うか?」
「今食う! よな、みんな!」
みんな大きく頷く。キッチンに、この場にいる人間全員が集結した。
「あっ、僕これ好きなんですよね~。他に好きな人いません? いないなら僕貰っちゃいますよ」
「だいじょぶ! 早い者勝ちっしょ、こういうのは! あれ、これ秋葉のお気に入りじゃね? はい!」
「あ、ありがとう。やった……!」
「シューアイスもあんじゃん!」
「これも美味しいんですよね。要さん、かなり品揃え豊富じゃないですか。こんな用意するの大変だったでしょうに」
「みんな何が好きなのかわからなかったからな。とりあえずたくさん用意しとけば、誰かしらの好みには当てはまるだろって思っただけだ。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるってやつだよ」
まぁ、こういうところに、今まで家に人を呼ばなかった影響が尾を引いているんだろうな。
アイスも完食し、場の空気を切り替えるように、改めて、周りと己を鼓舞する。
「休憩終わり。もうここからは折り返しだ。ゴールも近い。気合い入れていこう」
おー、と俺に呼応する声が、リビング中に響き渡った。
秋人が、仕上がった原稿を見て、感嘆の声を上げている。
「どんどん、ちゃんと漫画になってってる……! 自分の手で何かを完成させるのって、すげー気持ちいいな!」
「あ……」
思い出した。俺も最初は、そんな気持ちだったっけ。
「お兄、私たちはただのお手伝いでしょ。自分が全部つくってるみたいに言っちゃって」
「あはは、そうだった」
「でも、気持ちはわかるけどね。完成したものを見て、そこに自分の手も加わってると思うと、感慨深いよね」
「……うん。……僕は、漫画が好きだから、その好きなものに関われるの、すごいと思う」
「だよね。あ、すみません、そんなこと。まだ途中なのに、気が早いですよね」
「ううん。俺の方こそ、みんなのおかげで初心を取り戻せた気がするよ。……って、こっちの方が締めの言葉っぽいな」
趣味を仕事にしてしまうと徐々に作業的になってしまい、昔のような純粋な高揚感が失われてしまう場合もある、とはよく言ったものだ。
「ほら、要さん。手が止まっちゃってますよ。ここのリーダーなんですから、しっかりしてくださいよ」
「リーダー? 俺が?」
「だって、これの原案者は要さんじゃないですか。それに、僕たちはみんな要さんのために集まってますしね。ここで僕らをまとめられる人と言えば、要さんになりますよ」
「そ、そう、か……」
リーダーなんて柄じゃない。俺に、人をまとめる力なんてない。ずっとそうだったが、今日くらいは、今この瞬間くらいは、この立ち位置を受け入れてもいいかもしれない。
「なら、お言葉に甘えさせてもらうぞ。早速、ここのトーン入れ頼む」
「はーい、お任せください!」
俺たちは、勢いそのまま、ラストスパートに向かって走り出した。
そして、遂に──。
「終わったぁ~!」
全ての作業を、滞りなく終わらせることができた。
肩の荷が下りた俺たちは、試合終了後の談話に花を咲かす。
「みんな、お疲れ様。今日は本当にありがとう。助かった。みんながいなかったら、今頃もっと大変なことになってたよ。これに懲りて、次からは計画的に進めようと思う」
「いやいや、今後も頼ってくれてもいいんですよ~。 あー、そういえば思ったんですけど、これってちいサポ会の仕事になるんですかね? 要さんが依頼人ってことで」
「確かに。全然考えてなかったけど。もう目の前の原稿のことに必死すぎて」
「私は、ただお手伝いに来ただけって認識でしたけど。そもそも、その、ちいサポ会には所属していませんし」
「まぁまぁ、どっちでもいいっしょ! 何が変わるわけでもないし、要さんは助かったし!」
「まぁ、それはそうだな」
窓の外を見ると、もうすっかり日が沈んでいる。この時季なのでまだそこまで暗いわけではないが、特に美玲たち小学生は、早めに帰した方がいい。とはいえ、二人の祖父からの迎えが来ないことには、当然この家から出すわけにはいかない。
「……連絡、取れた。すぐ行くって」
「そっか。それまで暇になっちゃったな。冬樹たちは帰らなくていいのか?」
「帰ったって、何も用事なんかありませんし。それに、要さんだけで、美玲ちゃんと玲音君の暇を潰せるとは思えませんからね」
「う、それは、そうだな……」
何もそこまではっきり言わなくても、と思ったが、確かに的を射ているので、何も言い返す言葉が見つからなかった。
「しかし、何をしようかな……。あ、そういや、お前ら宿題進めろよ。秋人なんか、絶対後回しするタイプ──でも、秋葉さんがいるしな」
「そうそう……。秋葉の奴、めっちゃ急かしてくるんだよ? 見逃してくんないっつーか」
「見逃すわけないでしょ。結局やらなきゃならないのに後回しにして、休み終盤に苦しむのはお兄自身じゃない」
「うっ、耳が痛いですね……」
「でもお前だって、こないだも言ったけど、今年は春樹先生がいるから大丈夫じゃね? もちろん、代わりにやってもらうとかは論外だけど」
「そんなことしませんよ! 大体、お兄ちゃんはそんな、生徒に不利になることするような人じゃありませんし。計画的に頑張りますから……できるだけ」
「なら、今度みんなでまた勉強会でもするか? みんなの都合次第だけどな」
「まぁ、みんなとなら悪くないよな!」
「ですね!」
と、美玲と玲音が、徐ろに持参したリュックサックから絵日記帳と筆記用具を取り出した。表紙には、それぞれ二人の、クラスと出席番号と名前が記されている。それを見て直感的に、これは夏休みの宿題なのだと理解した。
秋人が「それって夏休みの宿題?」と聞くと、案の定二人は頷く。
「懐かしいな~。絵日記の宿題って、いつの間にかなくなったよな」
「ですよね~。あれなら毎日でも続けられるんですけどね」
冬樹たちの雑談を尻目に、美玲たちに尋ねる。
「今日のこと、かくのか?」
「……今日は、とても楽しかったから。……ね、玲音」
「……うん。……今日は、ありがとう、みんな」
「楽しかった──そうか。よかった。俺の方こそ、力を貸してくれてありがとう」
原稿の完成ももちろん大事だが、二人の、夏休みの思い出の一頁になったのなら、それに超したことはない。……二人の周囲、少なくとも先生に、俺の同人活動がバレてしまうのは気まずいが。
もうそろそろ迎えが来る頃じゃないか、と玄関の外を覗いてみると、そのタイミングを待ちかねていたように、見覚えのある車がこちらへやってきた。
「二人とも、お迎えだぞ」
こうして青木姉弟は、無事家路に就いた。小坂兄妹も、二人を見届けると、アパートを後にした。
が……。
「で、何でお前は帰らないんだよ」
「だから、帰ったって何も用事なんかないって、さっき言ったじゃないですか」
「あまり遅いと、春樹先生が心配するぞ」
「そのお兄ちゃんが遅くなりそうなんですよ。いくら僕たち生徒が夏休みでも、先生はそうはいかないですからね。どうです? 久しぶりにテレビゲームでもしませんか? 一回だけなんで!」
「お前の『一回だけ』が本当に一回だけだった試しなんてないだろ。全く……仕方ないな」
「やったー! 手加減なしですよ!」
子供みたいに、無邪気に喜ぶ冬樹。思えば、今回のことはこいつが言い出しっぺだ。ひと夏のいい思い出ができたのも、こいつのおかげだ。今日くらいは、こいつのわがままに付き合ってもいいかもしれない。
俺は、同人誌の販売開始日が、俄然楽しみになった。
甲斐性なしの青春録 てんし @ani_vca
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