部屋とYシャツと私

朝飯抜太郎

部屋とYシャツと私

 その部屋にはYシャツと私しかなかった。


 私が思いだせる最初の記憶は、真っ白な四角い部屋と、綺麗に畳まれて重ねられたまっさらなYシャツ、そしてYシャツを着た私。私はそこでYシャツに包まって寝て、Yシャツを刻んで食べて生を繋いだ。その部屋の天井はとても高くかった。でも、その真ん中に天窓がついていて、私は青い空や雲、夜は月や星を見て過ごした。天窓以外の唯一の外界との接点は、部屋の四方の壁に付けられた鉄格子の窓と、一つの白いドア。鉄格子には私の手は届かないし、白いドアは押しても引いてもびくともしなかった。


 私はYシャツがYシャツであることがわかった。天窓という言葉を知っていた。部屋も、壁も。ドアが開くものだと知っていた。私がここにいることはおかしなことなのだと言うことも。誰かが私を閉じ込めたのだということも。でも、私が誰なのかはわからなかった。

 なるべく綿100%のYシャツを選んで食べた。一度、ポリエステルの混じったシャツを食べた日は、腹痛で悶え苦しんだ。しかし、部屋に現れるシャツの種類は決まってなくて、ときには少しポリエステルの混じったものを食べなくてはならない日もあった。水は、鉄格子から振りこんで来る雨をYシャツに吸い取らせて溜め、口に含み吸い出すように飲んだ。

 思い出せる記憶の中で、私はいつも泣いていたと思う。でも、いつしか私は泣くことをやめた。そして、いつか、ここを出る、それだけを考えるようになった。そして、そのとき私は、私をここに閉じ込めた誰かを殺すだろうと思っていた。


 チャンスはあった。

 朝になると、私の部屋にはいつのまにか新しいYシャツが畳まれて置かれていて、古いYシャツは持っていかれていた。排泄物をYシャツに包んで置いておけば、次の日にはなくなっていた。誰かがこの部屋に入り、そして出て行ったのだ。しかし、不思議なことに私はその瞬間を見たことはない。その誰かの気配に一度も気づく事ができなかった。

 ある夜、私は寝ないで誰かが来るのを待った。でも途中抗い難い眠気に襲われて、その日も確認することができなかった。次の日も、その次の日も、私は異常な眠気に襲われて、それを確認することはできなかった。そして、Yシャツに睡眠薬が入っていたのだと気付いた。


 私はYシャツを食べる事を止めた。そして眠った振りをして、待った。その日の真夜中、私はついにYシャツが持ち去られるのを見た。床に近い壁がわずかに開いた。高さ15センチくらいの長方形の穴。そこから、大きなモップのような棒が出てきて、排泄物の入ったYシャツを持っていく。私の心臓は外に聞こえるような音でドクドクと波打った。どうする。どうすればいい。壁一枚のところに、私を閉じ込めた奴がいる。

 私が動けない間に、モップは全てのYシャツを取り出し、代わりに新しいYシャツを押し出すと、再び壁の穴に消え、壁の穴はまたパチリと閉まった。

 次の日、壁を調べたが、壁に切れ目を見つけたものの、こちらから開きそうにはなかった。開いたとしても、狭すぎて、ここから脱出することはできないだろう。


 鉄格子にYシャツの袖を通し、丁度袖が輪になるように結ぶ。輪の中に首を入れる。体をそれに預ける。ぐっと首が絞まった。かひゅっと最後の声が漏れて、息が出来なくなる。頭が白くなる寸前で、私は立ち上がった。一度に空気を吸おうとして、ひどい咳を繰り返した。私は死ぬ所だったと気付いたら、吐いた。そして、大声をあげて、手当たり次第にYシャツを掴んで、めちゃくちゃに撒き散らした。涙とよだれと鼻水が顔を汚す。私はわざと不快なまま、暴れまわった。

 私が静かになると、部屋も静かになった。狂いそうだった。

 ここにはYシャツと私しかいない。

 私は、疲れ、膝をつき、そのまま横になると、自らの嘔吐物の中で眠った。Yシャツと共に。



 希望を絶たれた私が選んだのは死ぬ事だった。次の日から食べる事を完全にやめた。追加されていく部屋いっぱいのYシャツの中で私は眠り続けた。緩やかに死んでいく。それは想像以上の苦痛だった。自分を殺すのは自分の本能を殺す事だ。生きたいという思いを、殺したいという思いで塗りつぶしていく。白を黒に。光を闇に。


 それから一週間が経った。私は二日前に動くのもやめていた。死を感じ始めたそのとき、ついにたったひとつのドアが開いた。私の視界は、まだ闇に覆われている。ただ床を通して、誰かが近づいている事がわかった。部屋に散らばったYシャツを踏む音が聞こえた。

 そして、私の心臓は再び鳴り始める。

 私は立ち上がっていた。犯人が目の前にいた。立ち上がるのは計画になかった。ただ、殺しきれなかった感情が、そうさせた。予定では後ろから襲うつもりだったが、やはり、最後に生きている顔を見てやろうという思いにとらわれた。それが必要だと信じた。それが力になると信じた。


 犯人は男だった。驚いた顔で立っている。背はそんなに高くない。痩せている。観察したのはそこまでだった。

 私はにっこりと微笑んだ。ここには鏡がなかったので、吐しゃ物と排泄物で、汚れた私の顔が、どのように相手に見えたのかわからない。私は天使のように微笑んだつもりだったけれども、怪物のように見えたのかもしれない。とにかく男は一瞬動きを止めた。

 手に持ったYシャツで作った投げ縄の輪の方を投げる。Yシャツのリングは男の首にかかり、私はすばやく手に持った方のYシャツを引っ張る。リングは男の首を完全にロックする。Yシャツは幾重にも繋がって、あの鉄格子にかかっている。私は鉄格子からぶら下がるYシャツを手に持ち、全体重をかけて、それを引っ張った。



 私の計画はシンプルだった。薬物で薄ぼんやりとした頭でそれ以外に考えることもできなかった。死にそうになった私の様子を見に、または死体を回収しようと部屋に入ってきたヤツの首にYシャツを巻いて、鉄格子で作った絞首台にて吊るす。犯人が一人だとも、私の細い腕や体重で可能になるかもわからない。これは賭けだった。私は本当に死を覚悟していた。


 部屋を出ると、やはり、そこが地下にあったことがわかった。階段を上がると、そこはまた別の部屋だったが、窓から日の光がさしていた。私は窓のロックを開け、大きく開いた。懐かしい空気と日の光が流れ込み、私はめいいっぱいそれを浴びた。

 知っている。私はこの光を知っている。このにおいを知っている。

 私は覚えている。この肌にあたるあたたかさを、かぜが頬をなでていく感覚を。

 私は、ここに、この世界に生きていたのだ。


 その部屋には、私のいた部屋を映したモニターと、テレビ局にあるような機材がたくさん置いてあった。酒とタバコの匂い、散乱した菓子などが一人暮らしの男の生活を感じさせた。並べられたテープやディスクを見ていると、後ろで扉が開く音がした。


 私は恐怖した。そして、その恐怖に自分で面食らう。絶望の果て、恐怖や痛みを忘れていた私にとって、久しぶりの感覚だった。希望が、私を弱い人間に戻していた。

 そして、ゆっくりと振り向く間に、賭けに負けたのだと悟った。ヤツは、たった一人の変態性欲を持った吐き気がする糞野郎ではなかった。徒党をなした変態性欲アウトロー達だった。そんなやつに負けたくない。

 数秒で恐怖を新しい殺意に変えて奮い立たせた私を迎えたのは、予想とは違う、怯えた顔をした老婆だった。老婆は私を見ると、短くひっと声を上げて硬直した。その様子が私を少し安堵させ、私の最後の緊張の糸を切ってしまった。私の体は既に限界を迎えていたのだった。私の意識は緩やかに断ち切られた。視界が闇に染まる中で、ごめんなさいという声が聞こえたような気がした。



 目を覚ました私が見たのは白い天井だった。関節が錆付いたかのような抵抗を感じながら、顔を横に向けると、そこには私と同じ年くらいの、薄いピンクの色の白衣を着た看護士の女性がにこやかな笑顔で立っていた。

「もう大丈夫ですよ」と女性は微笑んだ。そして、私は、ようやく泣いた。


 病院に運ばれた私は、点滴を受けながら警察の事情聴取を受けた。私はあの部屋での生活を包み隠さずに話した。私の事情聴取をした年配の刑事は時折涙ぐみながら、私の話を聞いた。刑事は泣いている事を悟られないように途中で缶コーヒーを買いに行ったりしていたが、私が生きる為にヤツを殺した事も少し緊張しながら話したとき、ついに私の目の前で泣いた。しかし、刑事が私の罪を追求する事は無かった。


 後で教えられた事だが、私が首を絞めたときヤツは死んでいなかった。しかし、気絶していた男は、目を覚ます前に、自分の母親によって旨に包丁を付きたてられて死んだ。私は老婆の最後の声を思い出していた。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。


 私を閉じ込めていた男は元テレビ局のプロデューサーで、「Yシャツ生活」というタイトルで、私の生活を記録し、編集していたそうだ。世に出す事のできないそれを男が何故撮っていたのかはわからない。


 病院を出るときも私の記憶は戻らなかったし、私の身元はわからなかった。インターネットを通して世界中が私に同情と好奇のない交ぜになった視線を向けたが、それが私を救う事は無かった。

 結局、ほとぼりが冷めた頃、私は、私を担当した年配の刑事に引き取られる事になった。彼が、新しい私の父となった。今でも人々は、私の父でさえ、私を哀れだと言う。確かに私は哀れだった。狂気にとり憑かれた男に監禁され、虐待され、殺されかけた、可哀想私。しかし、今は私はそうは思わない。

 父は、私を学校に入れてくれた。学校の幾人かの友達は年のわからない私を同級生として受け入れてくれた。勉強して、部活をして、ときには父や、父の友達と遊びにいったり護身術をならったり……。そうして、私の真っ白い記憶には、色とりどりの思い出が書き込まれていったのだった。


 あの白い部屋にはYシャツと私しかなかった。しかし、この世界には、まだまだ私が知り尽くせないほどのことが存在している。私は過去の可哀想な私になど構っている時間はないのだ。私の父は、私の中にある当たり前の親の愛情を再び教えてくれた。友達は、親愛を、笑うということを、泣きたい気持ちを、恋焦がれる気持ちを教えてくれた。私は、私の知識の中にだけあるそれらを一つ、一つ確認していこうと思うのだ。私の一生など、それだけで過ぎてしまうだろうから。



「……という過去を引きずる私に対して、あなたは自らの歪んだ欲望のままに、ワザと私に少し大きすぎる男物のYシャツを着せて、長い袖から少しだけ手が出ている様子や、シャツの裾が揺れる度に私の下着が見え隠れする様子を眺める事で、時代遅れの自らのフェチズムを満足させ、過剰な性的興奮を得ようとするわけね。わかったわ。私、着るわ」

「ごめんごめんごめんごめんごめん!。僕が悪かったから、もうやめて」

「ううん…! わかってくれると思ってた……!」



 ――時に男は女以上にナイーブな生き物……無理な注文にはこのようにやんわりと断ってあげましょう。(とっさの一言~夫婦生活編)


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