迫る刻

 ケンタロウは、クレセントの放牧の様子を柵の外から眺めていた。

 馬は、のんびりすることが好きだ。自然界において、草食動物であり戦うための武器を持たない馬は、肉食動物から狙われる立場にある。馬は360度近くある視野の広さと、ピンと立った耳でいち早く危険を察知する聴覚、そして速く長く走り続けることのできる脚力をもって自然界で生き残ってきた。また馬は社会性のある動物であり、個では敵わなくとも群れを成すことで、自分たちの身を守ってきた。とても知性的な動物で、だからこそ人間とも良好な関係を築くことができた。

 敵から逃げることを宿命づけられてきた馬の遺伝子は、周りに危険のない安心できる状況を好ましく感じる。

 クレセントは放牧場の中でゆったりと過ごしていた。時折心地良さそうに駆け回る姿は、はしゃいで遊ぶ子供のようだ。

 厩舎に帰す時間になり、ケンタロウは放牧場の入り口を開けた。クレセントはすぐにこちらへ向かってくる。

 ケンタロウの近くまで来たところで、クレセントは一度立ち止まった。その場に立ったまま、じっとケンタロウのことを眺めている。

 ケンタロウもクレセントを見つめた。

 両者はしばらく見つめ合った。

 数秒の間、言葉ではない何かが両者の間を流れた。

 クレセントの顔はどこか悲しげに見える。しかしそれは、ケンタロウの主観からくる感じ方かもしれない。

 ケンタロウはクレセントに近づき、ホルターに手綱を繋いだ。

 馬を曳いて厩舎のほうに歩いていく。

 厩舎の近くに来た時、見慣れない黒塗りの車が停まっていることに気づいた。磨き上げられたピカピカの車体が、なんとなく気になった。

 ケンタロウはクレセントを厩舎に帰した。馬房の中に入ったクレセントは、一度先ほどと同じようにケンタロウのことを見た。

 クレセントが自分に何かを伝えようとしているような気がした。クレセントは気づいているのかもしれない。もうすぐ別れの時が来るということを。

 その後ケンタロウは厩舎を出て、クラブハウスに向かった。

 中に入ると、父のシゲルと、シゲルと同年代ぐらいに見える上等なスーツを着た男が話し込んでいた。

「おっ、ケンタロウ、いいところに」

 シゲルの言葉に反応し、男もケンタロウのほうを振り返った。

 男はレンズに色のついた眼鏡をしていた。それとも色の薄いサングラスか。

「うちのお得意様のシガサキさんだ」

 シゲルが男を紹介した。ケンタロウはシガサキに向かってペコッと頭を下げた。

「シガサキさんがうちの馬たちの様子を見てみたいらしくてね。厩舎をちょっと案内してもらえるか?」

 シゲルは家族だが、仕事においてはケンタロウの上司だ。断ることなどできない。

 シガサキが立ち上がった。ケンタロウよりもだいぶ背が高い。馬の乗り手ではないな、と勝手に考えた。

「よろしく」

 シガサキがケンタロウに向かって微笑んだ。それは品のある笑みに見えたが、ケンタロウはなぜか不安にさせられた。

 ケンタロウはクラブハウスを出てシガサキを厩舎に案内し、牧場にいる馬たちを紹介していった。

 シガサキは終始楽しそうな笑みを浮かべていたが、本心で彼が何を考えているのか、ケンタロウにはわからない。いつも言葉を話さない馬たちの感情を読み取る生活を送っているので、他人の心情に敏感なほうだと思っているが、この男の内面はまるでわからなかった。

 だが、クレセントの馬房の前まで来た時、シガサキの表情が僅かに変わったことに気づいた。

「この馬は?」

 シガサキが鋭い目つきでクレセントを観察しながら訊いた。

「昔からうちにいる乗用馬です。だいぶベテランですけど、まだまだ乗れますよ」

 その当たり障りのないような紹介を、シガサキはまるで聞いていない。何かに魅入られたように目を見開いてクレセントを見つめている。

 馬房の中にいるクレセントがケンタロウたちに気づき、そわそわし始めた。クレセントはケンタロウが来た時にそんな反応はしない。

 それからしばらく、シガサキは難しい顔をして何かを考えているようだった。

 クレセントはシガサキを怖がるように、馬房の奥へ引っ込んでいった。



 その日サツキが新聞社でデスクワークをこなしていると、電話がかかってきた。

 相手は、以前サツキが取材を行ったスターダストファームのシゲルだった。

 お互いに簡単な挨拶をした後、シゲルはこんなことを訊いてきた。

『記者さんはなにかと物知りだろう? シガサキという名の人物について、何か知っていたりするかい?』

 サツキは電気が走ったような衝撃を受けた。

 忘れるはずもない。あの非情極まりない男。

 まるで馬の命を弄ぶように、馬が辿った最期を見せつけた。

『私に天馬についてやたらと尋ねてきたんだ。ちょっと気になってね』

 サツキは胸騒ぎがした。何か良くないことが起こりそうな気がする。

 シゲルとの電話を終えた後、サツキはもう仕事が手につかなくなった。



 夜、ケンタロウは自室のテレビで天気予報を観ていた。

 テレビの画面の中の天気予報士が、今週末の天気について語っている。

 その日はよく晴れて、流星群を見るには絶好のコンディションだそうだ。きっと世の中の大抵の人間にとってはめでたいニュースだろう。

 ケンタロウはリモコンのボタンを押し、テレビを消した。

 もうあまり、時間がない。やり残したことはないだろうか。ケンタロウは考える。なにか、してあげられることはないだろうか。

 自分の可愛い可愛い弟に。

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