黄昏の約束

 ミドリとシルバーライトがトレーニング場の厩舎に帰ってきた。

 カズマは夏の間、遠く離れた恋人、もとい恋馬への恋しさを紛らわせるため、シルバーライト以外の馬の調教で騎乗したり、レースにも出るようになった。

 ノーザンスカイとの悲しい別れ以来、シルバーライトの騎乗だけに専念していたカズマだが、ここにきて騎手としての本来の姿に戻りつつある。依頼をされ、そこに馬がいれば乗る。それが騎手の務めだ。

 ただ違う馬に乗っても、心のどこかでは常にシルバーライトのことを考えている自分がいた。乗っている馬には申し訳ないが、それが正直な気持ちである。自分には心に決めた愛すべき人、ではなく馬がいるのだ。

 自分はどうしてここまでシルバーライトに入れ込むのだろう、とカズマは考えた。普通の馬の何倍も手がかかるし、あまり人懐っこい馬ではない。好き嫌いの激しい、常に自身を中心に物事を見ているような馬だ。

 シルバーライトはカズマを再び舞台へと上げてくれた恩のある馬である。だがきっと、この揺れる想いの理由はそれだけではない。

 夏の休暇を経て帰還したシルバーライト。英気を養い調教にもバリバリ熱が入っていた、ということはなかった。むしろ休みボケしてしまったようで、なかなかやる気を出して走ってくれない。やれやれ。またこの馬との叩き合いの日々が始まりそうだ。そう呆れながら、心の内では喜んでいるカズマがいた。

 九月末、カズマとシルバーライトのコンビはベガ賞の前哨戦となるSⅡのフェクダ杯で勝利した。まだまだ馬体は絞り切れていなかったが、それでも二着に三馬身の差をつける完勝だった。

 調整を進め、十月に行われる最後のアステリズムレース、ベガ賞に備えた。

 ベガ賞は3000mの長距離コース。最も強い馬が勝つと言われるレースだ。この長いレースを最後まで走り切る豊富なスタミナが要求される。

 シルバーライトは陣営内でも批評家たちの間でも、長距離に適性があるということは言われていた。距離の面からアルタイルステークスで大金星を上げたクラシオンがベガ賞の出走を見送ったため、現三歳馬ではシルバーライトが圧倒的有利と予想された。当事者であるカズマはそんな簡単にいくはずがないと思っていたが。

 そして秋に競馬で盛り上がりを見せるのはベガ賞だけではない。とくに十月、十一月、十二月と、三歳以上の古馬たちの集う三レース、シリウス賞、プロキオンカップ、ペテルギウス記念は、アステリズム三冠にも引けを取らない注目のレースだ。

 去年もそうだったが、この時期になるとカズマの気持ちが少し沈んだ。ベガ賞の一週間後には、シリウス賞が開催される。二年前のそのシリウス賞で、ノーザンスカイの悲劇が起きたのだ。

 調教師のミズタニを始め、カズマの周りの人間はシルバーライトの二冠達成へ向けて意気込んでいた。彼の心の傷を気遣う者は、いない。

 二人の女性を除いて。



 日の沈む時刻が徐々に早くなり、肌寒さも感じるようになった十月の夕刻。

 トレーニング場の外周で走り込みをしていたカズマは、ベンチに座ってスケッチブックに筆を走らせているミドリの姿を見かけた。カズマは彼女のほうに近づいていく。

「本当に絵を描くのが好きなんだね」

 カズマがそう声をかけると、ミドリは少しはにかみながら頷いた。

「隣、座ってもいい?」

 カズマの問いに、ミドリはスケッチブックを持ち上げて半ば顔を隠しながら頷いた。彼女のその反応は、去年初めて会ったころとほとんど変わらない。けれどシルバーライトを通して築いた目に見えない絆は、この一年でかなり大きくなった。

 カズマはリラックスした体勢で、しばらく辺りの景色を眺めた。頭の中では様々な思考が行ったり来たりしている。

「あの」

 ミドリが声を出したので、カズマは彼女に目を向けた。

「カズマさんにとって、ノーザンスカイという馬はどんな存在でしたか?」

 その問いかけをするためにミドリはかなりの勇気を振り絞った様子だった。おそらく前々から尋ねてみたいことだったのだろう。

 カズマはゆっくりと息を吐き、かつての相棒へ想いを馳せる。

「そうだなあ。鍵、みたいなものかな」

「鍵?」

「美しい場所へ繋がる扉を開いてくれる。誰も見たことのない景色を見せてくれる。肌身離さず持ち歩く、大切な存在。鍵を無くしたら大変だろう? いや、これだとちょっと失礼かな。彼は道具じゃない。こんなこと聞かれたらきっと噛みつかれるな」

 カズマは見当違いの比喩に苦笑いを浮かべたが、話を聞いたミドリは満足げに微笑んだ。

 彼女がこの質問をした背景には、おそらくカズマに対する気遣いがある。ノーザンスカイの命日が近づき、カズマが今は亡き相棒のことを考えているだろうと想像を巡らせた結果だ。彼女はとても優しい人なのだ。馬にも、人にも。

「僕からも一つ質問していい?」

 ミドリは頷いた。

「ミドリさんにとって、シルバーライトはどんな存在?」

 問われたミドリは、少しだけ目を見開いた。

 その問いは同時に、カズマ自身に対する問いでもあった。

 二人の頭の中に今、惚けた顔の葦毛の馬の姿が浮かんでいる。

 ミドリが口を開いた。

「私にとって、シルバーライトは――」

 茜色の夕日が世界を染めていた。

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