最高の栄誉

 アルタイルステークス。競馬の中で最も伝統と格式のあるレースであり、このレースで勝利することは全ての競馬関係者、生産者に調教師、騎手たちにとって最高の栄誉となる。その世代を担う三歳馬たちの頂点を決める争いだ。

 最高のレースだけに、多くの馬、騎手や調教師たちがしのぎを削ることになるため、実績のある騎手にとってもこのレースに勝つことは容易ではない。多くの大レースに勝ち、名の知れた騎手であっても、このアルタイルステークスだけは一着を獲ったことがないという騎手は多い。

 そしてカズマも、その一人であった。これまで様々な馬に乗って十回以上の挑戦を経てきたが、アルタイルステークスで勝利を掴んだことがないのだ。いつもあと一歩のところで、勝利が手から零れていく。

 カズマはトレーニング場で記者たちの質疑に応答した。

「シルバーライトは先日のデネブ賞で勝利しました。今年はチャンスではないでしょうか。今度こそはアルタイルステークスで勝ちたいという想いはありますか?」

「いいえ。騎手を辞めさえしなければ、自分には何度でもチャンスはあります。大事なのは、自分よりも馬にとって。シルバーライトが挑戦できるのは生涯一度きりです。シルバーライトと走れるアルタイルステークスは、一度きりです。重要なのはそのことです。今まで勝ったことがないから勝ちたいとか、そういう気持ちはありません」

 インタビューの後、カズマが建物のほうへ向かっていると、スーツ姿のサツキが小声で声をかけてきた。

「嘘ばっかり」

 サツキはクスクス笑いながら話す。

「本当は勝ちたくて勝ちたくてしょうがないんでしょう?」

 図星だった。やはり、彼女には見抜かれている。アルタイルステークスで勝利したことがなければ、真に一流の騎手とは呼べない。

 カズマは初めてシルバーライトに乗った時、もしかしたらこの馬ならあの場所へ連れていってくれるかもしれない、手にさせてくれるかもしれない、と感じた。アルタイルステークスという最高の舞台。その舞台で掴む、最高の栄誉を。それだけの可能性を感じたのだ。だからこそともに歩む相棒として、その後も調教師のミズタニに騎乗を志願した。他の騎手には渡したくなかった。そのモチベーションがあったからこそ、カズマは騎手として復帰を果たすことができた。シルバーライトとの出会いがなかったら、もしかしたら騎手を辞めていたかもしれない。

 カズマにとってシルバーライトは、新しい相棒であると同時に、恩人……恩馬だった。もう一度夢を見させてくれた。だからこそこの馬で、どうか勝利を掴みたい。

 アルタイルステークスはデネブ賞のあった四月の翌月、五月の月末に行われる。このレースが終われば、馬は秋に向けて避暑地で休養することになるだろう。今年の上半期を締め括る、重要なレースだ。そして、シルバーライトのキャリアにとって最も重要なレースとなる。

 勝利を意識しすぎることは、冷静さを欠き視野を狭める要因となる。しかし胸の内から湧き上がるこの勝利への想いは、決して消えることはなかった。



 厩舎の一角で、カンコンカンと金属のぶつかる小気味良い音が響く。

 この日はシルバーライトの装蹄を行っていた。

 まずは装蹄師の前でミドリがシルバーライトを歩かせ、歩き方の確認をする。装蹄師はパッと見ただけで、馬の歩き方の癖や脚の状態がわかる。それだけの知識と観察眼を持ち合わせている。

 歩き方の確認を終えると、摩耗した蹄鉄の取り外しにかかる。額にタオルを巻いた装蹄師が馬の片脚を持ち上げ、その脚を自分の腿で挟んで固定し、蹄の裏を見ながら作業を行う。その間ミドリはシルバーライトの気持ちを紛らわせるために馬の前に立ってご機嫌を取った。

 蹄鉄を外した後は、鎌で余分な蹄を削り、形を整えていく。それが終わると、あらかじめある程度型を作ってきたアルミの蹄鉄を蹄に合わせる。蹄の状態を見て、そこからさらに正確に蹄鉄を加工していく。

 カンコンカン。

 金床かなどこという台の上で、火ばしというペンチで蹄鉄を挟み固定し、手鎚てづちで蹄鉄を打ちつけ型を仕上げていく。ミドリはこの時の金属が鳴る音の響きがすごく好きだ。

 装蹄師の仕事は速く、そして正確だ。競走馬の蹄というとてもデリケートな場所に関わる仕事。そこにミスは許されない。装蹄師は真剣な眼差しで仕事を続ける。

 仕上げた蹄鉄を、馬の蹄に固定する。蹄鉄の穴の開いている部分から蹄に釘を打ち込んでいく。シルバーライトはこの蹄に釘を打ち込まれる感覚が好きではなく、体を動かして逃れようとする。装蹄師は焦らず、馬の状態を見ながらじっくり装蹄を行った。

 装蹄が終わると、最後にまた馬の歩き方の確認をする。人間でいう新しい靴を履いた状態だ。装蹄師からオーケーのサインが出て、シルバーライトの装蹄は終わった。

「アルタイルステークス、頑張れよ」

 それまで真剣な表情で仕事をしていた装蹄師の男性が初めて笑顔になり、そう声をかけてくれた。ミドリもその言葉に返事をする。

「はい、頑張ります! あっ、走るのは私じゃないですけど」

 シルバーライトは、多くの人に期待を寄せられている。アルタイルステークスは誰もが注目する最高のレースだ。

 その時が、刻一刻と近づいている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る