馬と子供

 とある十二月の日。カズマは郊外にある施設を訪れていた。そこには、競走馬を引退した馬たちが住んでいる。

 ここにいるのは元々もらい手のいなくなった馬たちで、共同里親制度、多くの人に少しずつ支援してもらうことで生活することができている。

 この日は、里親となった人たちと馬が触れ合う機会が設けられた。馬に餌を与えたり、触ったり、希望があれば乗ることもできる。

 カズマはこの引退馬を支援する運動に、時折こうやって参加している。自分の騎手としての名を利用しているようではあるが、支援の輪を広げていくためだ。参加者の中には馬そっちのけでカズマと記念撮影をしたがる厄介者もいるが、彼は嫌な顔一つ見せず笑顔で応じた。

 長くこの業界の仕事をしていれば、当然一般の人間より内情に詳しくなる。競馬の世界は華やかさだけでは語れない。

 カズマは子供のころから馬が好きだった。馬に乗ること、そして馬と触れ合うことが好きだった。

 馬は人間に近い心を持っている。カズマはそのことをなによりも馬から教えられた。馬は人間の行動を理解し、意思を読み取ってくれる。こちらの期待に応えてくれる。パートナーとして人間を認め、優しく寄り添ってくれる。そんな馬のことが、カズマは好きだ。

 だからこそ、人間の身勝手な都合で断たれる命があることをとても残念に思っている。

 カズマが里親の参加者たちと話をしたり、写真を撮ったり、一緒に馬と触れ合っていると、輪に加わっていない人間がいることに気づいた。

 そちらを見ると、お母さんらしき人物と、その後ろに隠れるようにしている七歳ぐらいの男の子がいた。男の子はお母さんの服の裾を掴みながら、ちらちらと馬のほうを見ている。

 カズマは集まりを抜けて二人のいるほうに向かった。お母さんが気づき、カズマに視線を向ける。男の子はカズマから見えない位置に隠れてしまった。

「どうかしましたか?」

 カズマは声をかけた。

「あっ、すみません」

 お母さんは言ってから、後ろに隠れている男の子をちらっと見る。男の子は出てくる様子はない。

「馬を見たいって言って出てきたんですけど。どうもこの調子で」

 男の子はお母さんの後ろにピタッと張りついている。

 なんとなく状況を理解したカズマは、踵を返した。

 そして一頭の馬の手綱を取り、男の子たちのいるほうに引いていった。

 馬が近づいてきたことに気づいた男の子が、ビクッと体を震わせた。内気さと好奇心の葛藤があるようで、出ようか出まいか迷っているようだ。結局、体は隠しながらもちらっと顔を出して馬を見た。馬を目撃した男の子の目が、大きく開かれる。

「触ってごらん」

 カズマは男の子に言った。男の子はカズマを見上げ、それからまた馬を見た。

 初めにお母さんが馬に触れた。首筋を触られた馬は、気持ち良さそうに目を細めた。その様子を男の子が一心に見つめている。男の子の体はもうお母さんの横まで出ていた。

 次に、馬が男の子のほうに首を下ろした。さあ触れてごらん、と言わんばかりだ。

 男の子は恐る恐る、馬の顔のほうに手を伸ばした。そして、触れた。たてがみの辺りをそっと擦った。馬は首を上に戻す。男の子はもう馬から目を離せなくなっていた。

「乗ってみたい?」

 カズマは男の子に訊いた。男の子は顔を紅潮させ驚いている様子だったが、否定はしなかった。

 お母さんのほうを見ると、カズマにアイコンタクトをして小さく会釈をした。

 馬には既にハミや鞍が取りつけてある。安全のために男の子にヘルメットを被せた。

「いいかい? 注意することはただ一つ。馬の上で暴れないことだ。馬はびっくりすることが嫌いだからね」

 支援団体のスタッフに前で手綱を持ってもらい、カズマは男の子を抱えて馬の背中に乗せた。人間が乗る鞍の前側に取っ手があるので、それを男の子に掴ませた。

「どう? 高いだろう?」

 カズマが訊くと、男の子は大きく頷いた。

 スタッフが手綱を引いてゆっくり歩き始める。カズマは馬の横に沿って歩いた。男の子は少し緊張しながらも、その瞳は爛々と輝いていた。

 一般的にあまり知られていないが、馬と触れ合うことは子供にとってとても良い影響がある。ホースセラピーという言葉があるぐらいで、馬は人の心を癒してくれる。馬に乗ることを遊びだ娯楽だと言う人間がいるが、そんな単純なものではない。馬と接することで学べることは多い。

 ゆっくり歩く馬に乗っている男の子が、初めて笑顔になった。自然とこぼれた笑顔だ。お母さんは馬に乗っている男の子の写真を撮った。

 後になってから、カズマはお母さんから男の子のことを聞いた。男の子には自閉症の症状があり、学校にも上手く通えていないということだった。

 別れ際、カズマは男の子に一つプレセントをした。競走馬のイラストの描かれたバッジだ。

「また馬に会いにおいで」

 男の子はお母さんの服の裾をつまみながらも、小さく頷いた。



 サツキから、「会いたい」という連絡が来た。そんな直球なメッセージは珍しい。初めてかもしれない。

 駅前のロータリーにある広場で待ち合わせる。季節柄、街のいたるところにイルミネーションが施されていた。日はもう暮れている。

「待った?」

 カズマの到着に少し遅れてやってきたサツキが訊いた。彼女の吐く息が白い。

「大丈夫だよ。まだ二年ぐらいしか経ってない」

「じゃあ、行きましょ」

 相変わらず、彼のジョークにつれないサツキである。

 サツキはいくつかのショップに立ち寄った。服や小物などいろいろ見ていたが、結局何も買わなかった。その間カズマは若干手持ち無沙汰で、なぜ自分が呼ばれたのかはわからなかったが、べつに構わなかった。彼女と一緒にいることは嫌いではない。

 イルミネーションに彩られた通りを二人で歩く。周りにはカップルで歩いている人間も多い。

「もうそういう季節なんだね」

 何気なくサツキが呟いた。

 カズマはそこに対するコメントは既に考えてあった。

「ああ。ペテルギウス記念の季節だ」

 ペテルギウス記念とは、毎年年末に行われる競馬の祭典、最後のビックレースの名だ。三冠の一つであるアルタイルステークスとともに、最も注目度の高いレースである。

「はあ」

 サツキがあからさまな溜め息を吐いた。

「まあ言うと思ったけど」

 呆れたような言葉だが、彼女の顔はどこか楽しそうだった。

 街中から少し外れて、左右に樹木の立ち並んだ散歩道に来た。木もイルミネーションに侵食され、昼と見紛うような明るさだ。

「ねえ、ちょっと休んでいい?」

 サツキが言い、道の途中にあるベンチを示した。もちろんカズマに断る理由などない。

 二人並んでベンチに座る。

 二人の間に会話はなかった。話すなら話してもいいが、とくに話す必要もなかった。

 カズマはふっと右手に温もりを感じた。サツキが手に触れたのだ。

 自分よりも細くて頼りない、華奢な指。カズマはそこに自分の指を絡めた。

 何をそんなに不安がっているんだ、とカズマは彼女に訊きたかった。そうでなければ彼女が自分から「会いたい」なんて言ったりはしない。だけどその理由は、きっと訊いてはいけない。今自分に必要なのは、言葉ではない。ただ傍にいてあげること。彼はそう思った。だから、何も尋ねなかった。彼女の気の済むまで、こうしていればいい。

 月の綺麗な夜だった。そう感じるのはきっと、今この時を大事にしたいと思っているからだ。

 その日の別れ際、サツキは「ありがとう」と彼に言った。何に対しての「ありがとう」なのかはわからない。だけど彼女のためになったのなら、それでよかった。

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