死神

ヤチヨリコ

第1話

 ある日の夕暮れのこと、富竹氏はあまりにも退屈であったので死神を捕まえてみた。

「しかし、君はつまらんやつだなあ」

 富竹氏はあくびをしながら死神にそう言った。

「へ、へえ、恐縮でございます…」

 死神は縮こまってブツブツ何やら言った。

「褒めてないよ」

 捕まえてはみたものの正直、幻滅した。死神というものは黒いローブを着て大鎌を持った不気味な骸骨であるはずだ。だが、実際はどうだ。くたびれたスーツを着て、なんとも健康そうな若僧ではないか。スーツのくたびれ具合は気になるが、それ以外は人間と何一つ変わらない。

「ははあ、君は上等なもんじゃないみたいだねえ」

「はい、私は下等な死神でございます」

 だろうな、と富竹氏は思った。こんな老爺に上等な死神なぞ捕まえられるはずがない。

「それじゃあ、なにかね。僕にもついにお迎えが来たと」

「い、いえ、そうではなく…………」

 死神はモゴモゴと口ごもる。

「怒らないからはっきり言いなさい」

 諭すような口調で富竹氏は死神の肩を叩く。

「し、しかし、ですねぇ」

「しかし、なんだね?」

 何故、こんなヤツに老い先短い自分の時間を使ってしまっているのだ? 死神の煮えきらない態度に富竹氏はだんだん腹が立ってきた。

「……」

 死神はしばらく口を結ぶと、何かを決心した表情で、

「あの!」

と大声を出した。

「なんだい、なんだい、どうかしたか?」

「貴方様はついさっき、自分にお迎えが来た、と、そうおっしゃいましたよね?」

「ああ、言ったね」

「実は、そうではないのです」

「そうではない?」

 富竹氏はかすんだ目をパチクリさせる。

「私がお迎えに参ったのは奥様でございます」

 死神がそう言うや否や、富竹氏の顔色はサッと変わった。それからすぐに富竹氏は年不相応の動きで死神に飛びかかって胸ぐらを掴み上げた。死神は富竹氏の老木のような細腕でも、赤子の手をひねるように簡単に取り押さえられた。

「ひ、ひえええ、お助け、お助け」

 顔色を真っ青にした哀れな死神は、両手をわなわな震えさせて、肩で息を切りながら、目を目玉が飛び出そうなほど大きく見開いて、情けを請うた。

 しかし、富竹氏は死神を許せるほどの心の余裕など微塵もなかった。

「死ぬのかね、僕の妻は?」

「ええ、ええ、死にます、死にます、死にますとも。人間、いや、それが生き物の摂理、自然の営みというものでございます」

「何故、死ぬ?」

 富竹氏は湧き上がる感情を堪えながら静かに問う。

 妻はまだ若く美しい。若さも美しさも目減りする資産だが、死ぬまでの間、側に侍らせるにはちょうどいい。そんな妻が死ぬ?どれだけの金額を彼女に投資したと思っている。新しい妻を買い直す時間もないのだ。そうなったら大損だ。

「私が彼女のベッドの近くに立ちます。そうすると皆死ぬのです」

「僕は妻の死因を聞いているんだよ。それとも、君が妻を殺すのかい?」

「いいえ、運命のあんちくしょうが殺すのです」

「妻が死ぬのも運命なのか」

「我々だって死ぬのを見届けたくはないのです。しかし、運命のくそったれがそうするのです」

 富竹氏はそれを聞くとけらけら笑いだして、死神を掴んだ手を離してしまった。

 死神は富竹氏からぬらりと抜け出すと、モジモジしながらこう言った。

「私の同僚が奥様をお迎えに参ります。私は、たぶん、失敗したから左遷されるでしょう」

 彼は恭しく頭を下げながら、

「それではまた会いましょう」

パッと姿を消した。



 そのことをふと思い出して、夕食のときに妻に話した。

 妻は退屈そうに話を聞いていて、富竹氏が

「ちゃんと人の話を聞きなさい」

と言えば、妻は舌をちょろりと出して応戦した。

「死神が君を殺しにくるんだよ」

 富竹氏は脅すようにささやく。

「貴方、ついに耄碌したの」

「耄碌なんかしちゃいないさ。その死神が言うにはね、運命が君を殺すんだそうだ」

「死神なんかいるわけないじゃない。夢を見たのね」

 妻はため息を吐くと、富竹氏に背を向けて寝室に去っていった。

 相変わらず愛想のない妻である。とはいえ、死んでも構わないというわけではない。

 昔、落語の演目で「死神」というのを見たことがある。

 その話のあらすじを簡単に説明すると、ある阿呆が死神と出会って、死神を追い払う呪文を教えてもらい、医者の真似事をする。しかし、死神との約束事を破ってしまい、阿呆の寿命が縮んでしまう。死神が寿命を伸ばす方法を教えるが……。ここから先は演者によって異なる。

 富竹氏は死神を追い払う呪文というのを思い出そうとするが、はっきり思い出そうとすればするほど、つかみどころなくぼやけていく。

「ア、アジャ、アジャなんたら……。ああ、そうだ。アジャラカモクレン。で、そのあとが、なんだっけなあ。テンテケテンみたいな」

「旦那様、食後のお薬はお飲みになられましたか?」

 声をかけられたから忘れてしまったではないか。富竹氏は声のした方を憎々しげに睨みつける。そこには死神と同じ年頃の醜男が立っていた。

「まだだよ」

「ならば、お水を用意しましょう」

 まったく、間が悪い男だ。わざわざ金を出して家事手伝いとして雇ってやっているというのに使えないったらない。あの死神のほうが使えるんじゃないのか?

 富竹氏は男の持ってきた水で口に含んだ粉末を飲み干すと、家事手伝いに暇を出すことにした。

「君、今日中に荷物をまとめて出て行きたまえよ」

 男は激昂するのでもなく、泣くのでもなく、

「それではまた会いましょう」

とだけポツリと言い残し、部屋を出ていった。

 ボーン、ボーンとアンティークの古時計が時間を知らせるための音を響かせていた。

「なんとも不気味。死神と同じ台詞を吐くだなんて」

 富竹氏はぶつくさと元家事手伝いの文句を言いながら、妻の待つ寝室に向かう。そんなことをしていたものだから、怒りがふつふつと沸き上がってきて、妻や死神なんかの気に食わない全てのことに文句を言いたくなって、実際、言った。

 使えない家事手伝い、つまらない妻、退屈な死神。この世は面白くないことだらけ。

 そうこうしているうちに妻の待つ寝室にたどり着いた。

 ベッドで待っている妻に文句を聞かれていたら面倒だ。何かを寄越して機嫌を損ねないようにせねばならない。なんと金のかかる女だろう。

 富竹氏が寝室のドアを開けると、髑髏が洞穴のような目で彼を見た。

 いや、髑髏ではない。これは、人間だ。黒いパーカーを着た、背の低い、痩せぎすの、無精髭を生やした、骸骨のような若い男であった。その男はあろうことか自分と妻のベッドの上で、静かに眠る妻の顔を覗き込むように眺めていた。

「旦那様、お久しゅうございます」

 男はあの醜くって、卑しい、暇を出したはずの家事手伝いであった。

「さっきぶりだね、君。ところで今夜は何をするんだい」

「さっさと荷物をまとめて郷里の死にかけの母の元に帰ろうというところでございます」

「先程までは何をしていたのかね」

「この悪い女の首元をキュッと締めておりました。女ははじめはじたばたと暴れていましたが、しばらくすると人形のように静かになりました」

 そうか、そうか。なるほど、と富竹氏は思った。妻はいつにもまして静かに眠っていた。運命が、上等な死神が、彼女を殺しに来たのだ。何故だか不思議と腑に落ちた。

 こうなっては、妻が生きていようが死んでいようがどうでもいい。

 ああ、そうだ。思い出した。死神を追い払う呪文とやらを。

「アジャラカモクレン、テケレッツのパー」

 男は眉をひそめるばかりで、まったくもって効いている様子はない。

「大恩ある旦那様、私は心残りを無くして故郷に帰りたい。けれど、たった今、心残りが出来てしまった」

「なんだね」

「貴方が私を見逃してくださるかどうかということでございます」

 男は不気味な三日月のように口角を上げた。


 青白い顔をした女がベッドの上に仰向けに横たわっていた。女は枕に長い髪を広げ、輪郭の柔らかな身体を無防備に晒している。その隣にはいつものように富竹氏が眠っていた。気配はしいんと死んだように静かになっていた。

「だから、言ったじゃあないですか」

 死神は笑った。

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死神 ヤチヨリコ @ricoyachiyo0

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