毒島薬利

 一瞬、何が起きたのか理解が追いつかなかった。

「っか、は……ぁ!?」

 まるで、いつか見た悪夢のように。全身を触手に巻き付かれ、足は地面から浮いている。持ち上げられ、締め付けられ、抵抗してみるがびくともしない。しかしいつもの悪夢と違うのは、視界が触手に覆われておらず、触手の主が目の前に見えているという点だった。

「新楽……? どうして、これは……夢の……っ!」

「ち、違っ……! 違う、そんなつもりじゃ……なくて……」

 私を掴んで離さないいくつもの触手は全て、新楽の体から伸びていた。何が起きているのか、さっぱり分からない。疑問が多すぎて頭が回らない。ただ、一つだけ確信を持って言えることがある。、ということだ。

「嫌だ、違う、こんなことしたくない……私は、ただ、先輩を……!」

 普段のにやにや笑いはどこへやら、ぼろぼろと涙を零しながら顔を歪める新楽の姿は、見ているのが辛くなるほど悲痛だった。そして彼女もまた、悲痛に感じている。私にはそれが分かっていた。いや、伝わっている、と表現した方が正しいか。彼女の考えていることが、願っていることが、望んでいることが、求めていることが、私の中に流れ込んでくる。今でも目を閉じれば、悪夢の続きを見ることが出来た。自らの手足を、触手を、自分の意思で引き千切る彼女の姿が見える。これは新楽の願望だ。あの言葉は、繰り返されていた謝罪の言葉は、全て私に向けられていたものだった。

 彼女のすすり泣く声を聞いて、私は階段を上ることを決めた。そして一段ずつ足を進めるごとに、私の胸に溢れる得体の知れない悲しさは、徐々に輪郭をはっきりさせていった。それは新楽が抱え込んだ、否、抱えきれなかった深い悲しみ。私に対して許しを乞う、後悔と自責の重圧だった。

 彼女は、私の見た悪夢を自分のせいだと思っている。そしてそれは、実際にそうなのだろう。現に私は、今も彼女の願望を見せられている。謝りたい、許されたい、死んでしまいたい。夢の中だけでなく、今この瞬間の意識にそれが流れ込んできているということは、それだけ彼女の想いが強いということだろう。

 だとしたら──こんなにも重い後悔の念を抱えている人間が、自分の意思でこんなことをするはずがない。

「新楽、君は──」

「分かってます! 私が、私が全部悪いんです……! 分かってますから……貴女の口から、拒絶の言葉を聞きたくない……っ。憎まれても、恨まれても構わないから。どうか、私にそれを突きつけないでください……!」

「……っ」

 触手の拘束は緩まないが、それは彼女の敵意を意味しない。不思議と私は、新楽に対して恐怖を抱かなかった。私以上に、彼女が私の言葉に怯えているからだろうか。彼女がその気になれば、私の胴体を引き千切ることも、首をへし折ることも、簡単なことに違いない。それでも、彼女は私よりも遥かに弱く見えた。弱って見えた。私の前に、慇懃無礼とすら思える飄々とした態度の新楽瑠璃は居ない。それでいて、私を苦しめる怪物の姿もない。私は、目の前で泣き喚く後輩と話をする必要があった。

「聞け、新楽」

「っ……!」

「正直、私は今、何が起きてるのかさっぱり分からない。どうして君の体からこんな触手が生えてるのかも、君の考えていることが私の頭に流れ込んでくるのかも、全然理解が出来ない。だけど、一つだけ断言するぞ。私は、君という人間が悪い奴じゃあないと信じている。もしも君が私の信用に応えてくれるなら、事情を説明してくれ」

 私がそう告げると、新楽は心底驚いたというふうに目を見開いて、その場から数歩後ずさった。信じられない、とでも言っているようだ。私だって信じられない、私がこんなに冷静なことが。

「……ごめんなさい、先輩。説明します。全部、包み隠さず、何もかも」

 そう言って、新楽は話し始めた。と言っても、話の全てを理解できた訳ではない。突然ナイアルラとかいうよく分からない奴の話をされても、まるで読んだことのない推理小説の難解なトリックについて説明されているような感じで、細かい部分は頭に入ってこなかった。

 とはいえ、ぼんやりと理解出来た部分もある。ナイアルラの化身である新楽は、要するに人間であって人間ではない。だから触手のような人間らしくない力を持ってはいるが、彼女自身はそれを喜ばしく思っていない。人間らしく生きる為にナイアルラの力を使わないようには自制しているが、全てが全て制御できるわけではない、と。そして、私が見た悪夢はまさしくその「制御出来なかったナイアルラの力」の影響ということらしい。昨日教えられた魔除けの儀式は全くのデタラメで、本当は自分自身が原因だと気づいていた新楽が、どうにかしようと頑張ってはみたらしいが……結果は私が知る通り。悪夢の内容が変化した理由は、彼女が私に悪夢を見せている事実を知ったことで、自責の念を膨らませてしまったのが原因だろう。

「だからもう、方法は一つしかないんです。私と先輩の記憶を消して、私たちの交流をなかったことにする。そうすれば、先輩はもう悪夢を見ないで済む。私は、先輩に迷惑をかけずに済む。だけど、私は……っ」

「だからか」

「……?」

「今日に限って、君は『また明日』ではなく『さようなら』と言った。今までに、君がそう言って私と別れた日があったか? いいや、無いはずだ。それは君が一番よく分かっているはずだろう。さっき私に言ったじゃないか。私とあの部屋で過ごす時間が楽しかったんだと。だから別れの挨拶は、いつも『また明日』だった」

「そ、れは……」

 私は、彼女がそれほど私を好いてくれているなんてことは知らなかった。単に先輩後輩という言うには少し特殊な関係だったが、良くて友達、せいぜい顔見知り程度に思われているのだろうと思っていた。だがそれは、どうも間違いだったようだ。

 彼女は、全てを話してくれた。私の記憶を消すつもりだから、というわけでもないだろう。きっとこれは、誠意だ。嘘で誤魔化して罪を逃れたくない、そういう感情が手に取るように分かる。だから彼女は話してくれた、私に対する気持ちを。ならば、私はそれに応える必要がある。許容にせよ拒絶にせよ、私がここで誤魔化してはいけない。それは、新楽に対する裏切りだ。

「一つ、確認したいことがある」

「……なんですか」

「私が見た悪夢は、君の願望が表れているというけれど……だとしたら、私が半年間見続けていたあの夢は、君のどういう願望が表れていたんだ」

「そ、それは……」

「正直、毎晩見るにはしんどい夢だったよ。夢なのに少し痛いし、怖いし、何されるのか気が気でなかった。ただ、今こうして似たような状況になってみると……触手の主が君だと分かった今だと、少し感じ方は変わってくる」

「っ……! 私は、私はただ、先輩に触れたかっただけなんです。何も我慢せずに、自分を偽ることなく、先輩を思う存分抱き締めて、愛したかった、愛されたかった。でも、こんな醜い正体を見せるわけにはいけない。そんな願いは叶わない。だから、ずっと胸の奥にしまい込んで、絶対に隠し通すつもりで、ずっと……!」

 気持ち悪い、そう言ってしまうのは簡単だろう。だがそもそもの話、。彼女はそれを隠してきた。抑えてきた。神の力とやらを持っているのだ。私に対してぶつけることは容易だったろうに、新楽は善い人間であり続ける為にそれをしなかった。

 そんな健気な後輩を、私は拒絶したくなかった。

「段階を踏もう、新楽」

「え……?」

「新楽、君は人間だよ。怪物なんかじゃない。少なくとも、心の部分に関してはね。怪物がこんなに苦悩するもんか。善悪なんて概念に悩むのは人間だけの特権だ」

 私がそう告げた瞬間、彼女の全身から伸びていた無数の触手は一瞬で姿を消した。すると当然、触手に持ち上げられていた私の体は宙に放り出される。まずい、と私は着地に備えようとしたが、中途半端な高さのせいで体が上手く傾かない。ああ、これは本当にまずい。そう思った直後、再度出現した触手が私の体を支え、それからゆっくりと床におろしてくれた。当然それは、新楽の仕業である。

「……私が、人間。本当にそう思っていますか? こんなに気持ちの悪い姿なのに」

「今の行動が答えだろう。見た目が醜かろうと、新楽瑠璃きみという人間が醜いことにはならない。ありがとう、助けてくれて。お陰で怪我をせずに済んだ」

 ぶっちゃけ上手く着地出来そうにないと思った瞬間は冷や汗ものだったが、まあ、結果オーライだ。新楽瑠璃は人間である。決して怪物などではない。ましてや邪悪な神なんかでもない。それが、私の出した結論だった。

「それで、だ。君が私に恋愛感情を抱いているということは分かった。そして私は、正直なところ君をそういう対象として見たことがない」

「……はい」

「だから、付き合おう、私たち」

「はい。……はい?」

 私の言葉に、新楽は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。そんなにおかしなことは言っていないはずだが、と考えてから、少し誤解を生む話の流れだったと気づいた私は、説明を付け加えた。

「良いかい、そもそもの話だが、最初から両思いで付き合うカップルなんて居ないだろう。まあ中には居るかもしれないが、それこそ奇跡みたいなものだ。私が君に恋愛感情を抱いていないこと、それは君の気持ちを受け入れない理由にはならない。重要なのは付き合ってみてどう思うか、だ。だから、付き合おう。結論はそれからだ」

「え、あっ、え? いや、それは……でも、私の記憶を消さないと、先輩の悪夢が」

「悪夢? 別にもう良いだろう、正体が分かったのだから。まあ、君には恥ずかしい思いをしてもらうことになるけどね。願望が全部私の夢に現れてしまうわけだし」

「っ……! ん、んんん~!」

 新楽はなんとも言えない表情を浮かべながら顔を真っ赤にすると、私を助ける為に出現させた触手を再び消失させ、代わりに両手で顔を覆いながらその場にしゃがみ込んだ。

「せ、先輩がそれで良いなら……私は、構いませんけど。でも、それは……うぅん、卑怯ですよ。そんなに度量の広いキャラでしたか? 私、他人との接し方とかろくに知りませんし、きっと今以上に面倒くさいことになりますよ」

「それはお互い様だね。私も恋人はおろか、友達もろくに居ない人間なもので」

「……分かりました。私と付き合ってください、先輩。多分、迷惑かけると思いますし……嫌な夢を、見せるかもしれないですけど。でも私は、先輩と仲良くしていたいです」

「ようやく泣き止んだのに、また泣くのかい? 仕方ない。まだ触手に弄ばれる覚悟は出来ないけどね、胸を貸すくらいならまあ、許すよ」

 そう言って私が両手を広げると、泣いてるのか笑ってるのか分からないような顔をした新楽は、少し戸惑いながら私の胸に飛び込んできた。控えめに抱き返してあげると、私とさほど変わらない、華奢な体つきがよく分かる。

「……ああ、そうだ。君にばかり本心を打ち明けさせるのは可哀想だから、私からも一つ、私の隠し事を明かしておこうか」

「隠し事?」

「私こう見えて、他人の泣き顔とか見て興奮しちゃうタイプ」

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