命短し恋せよ乙女

 駅員から、薔子と似たような女が『大山』行きの電車に乗っていったという情報を得た吾涼は、電車に乗って彼女の後を追い、大山駅に到着した。

 駆け足で改札を出ると、開けた駅前の右手には薄墨の空の下に、一見黒に見えるほどの濃い深緑の山が見える。


(あいつが縁もゆかりもない大山にひとりで来るなんておかしい。あいつ、何考えとるんや……)


 薔子の生まれは京都の下鴨しもがもであると、大吉が以前言っていた。

 彼女の血縁者は、すでにいない。両親は十年以上前に鬼籍きせきに入っており、実の姉とも幼い頃に別れ、別々の場に奉公に出たまま会うことが叶わず、去年の春に結核けっかくで亡くなったという電報が人伝ひとづてで届いたという。

 天涯孤独だった。

 遠くに行くために電車に乗ったのであれば、わざわざ京都の大山で降りた意味がわからなかった。


「あいつ……もしかして山の方に一人で行ったんか」


 もしも大山の奥にひとりで進んだのだとしたら、雨をはらんだ雲が、空に浮き出ている現在の天候を見る限り、危険極まりない。ましてや今は真冬である。

 歯噛みし、きつい視線を山へ送る。


「あの……阿呆が!」


 本能が察知したまま暗い山へ向かって走り出していた。下駄が蹴り上げた湿った土が、宙に舞って落ちてゆく。


 山の土は雨の空気を帯びて、つめたく湿っていた。その土が泥となって吾涼の下駄や足袋を、彼が一歩ずつ踏み出すたびにけがす。

 鬱蒼としてわずらわしいほどの木々は、彼の行く手をところどころで遮った。

 その度に腕や手を使用して退かすが、代償として葉がペーパーナイフのような切れ味をもたらし、彼の肌をこまかく裂いていった。

 昇る前はまだ薄墨であった雲は、徐々に暗さを増し、今では天から等間隔に重みを増す雨を降らせている。

 つややかな木の葉から雨のしずくが伝い、吾涼の頬を打つ。


(……薔子……)


 急斜面を険しい顔で昇っていた吾涼には、自然の仕打ちが如何様いかように厳しくとも効果をもたらすことはなかった。

 ただひとつの想いだけが、彼の心を熱く濡らしていた。


「……そうやって俺から逃げてなんになる」


 誰に聞かれるともなく、かすれた声で呟く。

 目の前に迫った葉の群れをき分ける。 

 刹那。

 彼の耳朶じだを、玲瓏れいろうな、だがひとさじの艶をはらんだ女の歌声が打った。


「――命短し、恋せよ乙女、あかきくちびる、あせぬ間に、熱き血潮の、冷えぬ間に――」


 湿った空気に少し掠れてちいさく響いている。

 吾涼は瞠目し、真顔になる。ちいさくため息を吐き出し、目を閉じた。

 見慣れた小柄な背中が、数歩先にあった。しゃがみ、うずくまっている。髪はほつれ、雨のしずくをまとっているが、まぎれもなく自分が一度この腕に抱いた女の体であった。

 吾涼はちいさく息を吸うと、肺に溜め、喉を震わせた。


「――明日の月日はないものを」


 低い男声が、薔子の途切れたアルトを繋ぐ。

 薔子は吾涼の歌声に気付き、はっと、体をふるわせると、口を開き、かすかに振り向いた。

 淡雪の肌は寒さで一層しろく、くちびるも淡い紫色に変化しているが、濡れた瞳をふるわせ、形の良い眉を寄せてこちらを見ているのは、求めていた女・薔子であった。


「……吾涼さん……」


 震え声で応える。 

 完全に吾涼を認めると、しゃがんだまま、すっと、背筋を伸ばした。


「ゴンドラの歌、上手いやないか」


 皮肉な笑みをくちもとにだけ浮かべて、すぐにまた真剣な顔に戻ると、吾涼は薔子に向かって歩き出した。

 ぬかるんだ土から跳ねる泥を気にも留めず、とんびコートと袴を汚す。黒を、さらにくろく。

 雨で濡れた前髪から、しずくが地に落ちる。

 薔子は怯えた顔で、びくっと震えると、両腕を胸元に当て、そのままの体勢で、じりじりと後ろに下がろうとした。

 気にせず吾涼は薔子との距離を詰めていく。

 はあはあ、と呼吸をみだして自分を震える瞳で見続ける薔子に、一定のつめたさをはらんだ声を掛ける。


「なんで俺から逃げた」


「……うちに近寄らん取ってください」


 先ほどの歌声と違って切迫した声色で、薔子は告げた。

 吾涼は声に反応し、半分まぶたを伏せ、だが薔子をとらえたまま立ち止まった。

 薔子はうつむきながら立ち上がり、吾涼に背を向ける。立ち上がると、彼女の小柄さがあたりの大きな樹々の中、一層際立った。

 そのちいさな肩は、小刻みに震えていた。


「それ以上近寄らんで」


「何でや……。女中辞めたん、俺と寝たからやろ。俺のせいやろ」


「ちゃいます。あんさんは関係あらしまへん」


「せやったら、何で急に女中辞めたんや。辻褄が合わん。おかしいやろ」


 吾涼は声音にひとしずくの怒気をふくみ、一歩前に踏み出した。

 薔子は背を向けたままその足音を聞いてたじろぐ。胸に当てた両腕を震わせた。


「あんさんに抱かれるんが、うちの夢やった。ずっと、ずっと夢見とった。夢が叶ってしもてから、うちが辻本の家におる意味はのうなりました。あんさんに抱かれてた時のうちが、今まで生きてきたうちの中で、一番生きてるいう感覚になってまいました」


 薔子はそこで声音を低くし、自嘲気味じちょうぎみに話した。


「後は枯れるだけや。枯れるだけのうちを、あんさんに見られるんは死ぬより辛うございます。……あんさんは源氏物語の光源氏と一緒や。源氏が藤壺の代わりに他の女抱いたように、うちを百合子様の代わりに見立てとるだけどす」


 泣くような語尾は尻すぼみとなって虚空に消えた。

 吾涼は黙って薔子の独白を聴いていたが、溜息をつき、まぶたを閉じる。

 そしてまた開くと、ひとみを眇めて彼女の背に語り掛けた。


「お前が言うてること、俺にはさっぱりわからんけどな。そない薄着で真冬の京都、しかもこない寒い山奥にひとりでおったら、凍え死んで、お前の死体を後で俺が見ることになるで。……こっち見いや」


 薔子ははっと瞠目どうもくすると、身を固くし、後ろをゆっくりと振り返った。

 半目で彼女をしずめるように見つめている吾涼の切れ長の瞳と視線がかち合う。

 くちびるを噛み、長いまつげを震わせ、俯いた。

 吾涼はもう一度短く溜息をつくと、薔子の足元に視線を落とす。

 彼女の足は、自分と同じように泥で汚れ、下駄の赤い鼻緒は切れていた。

 視線を上げ、首をすっと伸ばすと、ゆっくりと薔子に近付いた。

 薔子はそれに気づき、はっと息を吸うと、両手を固く握りしめる。そして警戒する猫のように身を固めた。


「いや、近寄らんとってください……!」


 着物の袷に片手を入れると、黒漆に蝶の螺鈿が施された細長い物を素早く取り出した。

 彼女の両手が上下にそれに添わされたかと思うと、くっと裂け、間から月光のように青白く光る刃が現れた。

 ――小刀である。


「……お前、それ」


 薔子はふるえる両手で小刀を構えると、鋭利な刃を吾涼に向けた。


「……それ以上近づいたら、刺します」


「……本気で言うとるんか」


「本気や。うちはいつだって」


 暗い雲から鈍くさすが、刃の輪郭を白くきらめかせる。


「……阿呆あほうの極みどすな」


 吾涼は口の端を上げて、俯きまぶたを閉じた。

 その飄々とした彼の表情に、薔子は一瞬たじろいだ。

 だが、次の瞬間には吾涼はまぶたを上げ、三白眼さんぱくがんで薔子を睨んだ。鬼火のような光が灯ったひと身は、薔子をつららの如くつらぬいた。

 湿った大地に下駄を鳴らし、彼女との距離を詰めていく。

 薔子は自分が小刀を持っているというのに、怯え、恐ろしくなり、眼を見開いてかたかたと震えた。吾涼が何を思って近づいてくるのかが、まったくわからなかった。

 小刀の切っ先に触れるか触れないかの距離まで、吾涼の腹が近づく。

 このままでは彼を本当に刺してしまう。

 血しぶきが上がる映像を思い浮かべ、薔子は小刀を持った手をさらにふるわせた。

 逃げ帰るだろうと思っていた。脅しのつもりだった。

 まさか近づいてくるとは思わず、薔子は動揺から小刀を持った手をさらに震わせた。最早狐に睨まれた蛇である。どちらが刃を向けているのかわからない。

 吾涼の顔は凪いでいたが、眸は怒りに燃え、くちびるは引き結ばれている。


「いやっ……」


 身じろぎ、横へ移動しようとする。

 吾涼はそれを許さず、薔子の小刀の刃を、上から左手で強く掴んだ。

 はっと薔子は目を見開く。


「なっ……」


 吾涼のてのひらとゆびの関節が切れ、粘度のないさらりとしたあざやかな血が流れ、刃に伝う。やがて雫となると、地にぽたぽたと落ちていく。止まることはなかった。


「なにをっ……」


 一瞬何が起きているのかわからず、薔子は呆然としていた。やがてゆっくりと視界が定まり、吾涼の手が小刀の刃を掴んで血を流している像が結ばれた。

 目を見開く。

 この寒さだというのに、こめかみに熱い汗がひとつ、たら、と流れる。


「吾涼さん、手ぇがっ……」


「ふざけるなっちゅうねん! おい!!」


 目の前で吠えるような怒声が薔子の頬を打つ。

 水をかけられたようにはっと顔を上げると、吾涼のうつくしく厳しい顔が鼻の先にあった。自分を鋭く見下ろしている。

 まるであの抱かれた日の、貫かれる前のようだ。


「吾涼さん……」


「こない子供騙しの脅しで、俺がお前の、命諦めるわけないやろ」


 先ほどとは打って変わり優しい声で吾涼は応えた。

 その唐突なやわらかさに、薔子は張りつめていた糸が切れ、まばたきすると、大きな瞳から涙を溢れさせる。


「っ……」


 青白かった頬に朱が差し、次々と大粒の涙を流す薔子は、男を知らない乙女のようやな、と吾涼はぼんやりと思った。

 ふいにその涙で濡れるやわくなめらかに赤い頬に、右手で触れる。

 一瞬びくっと動いたが、躊躇わずにおやゆびで涙をそっとぬぐってやった。

 耐えるようにまぶたをぎゅっと閉じる。睫毛の影が頬に落ちる。

 その様子が愛らしく、少し口の端を上げ、微笑んだ。


(この女を、愛らしいと思うことがあるなんてな)


 二、三度おやゆびを動かして涙をぬぐってやり、最後に頬を摘まんだ。幼き子供にするように。

 彼女の頬は、思ったよりもやわらかだった。


「いたっ」


「くくっ……」


 吾涼は彼女の反応と、自分の場違いな行動が可笑しく、不覚にも笑ってしまった。その事で緊迫していた空気が少しゆるんだ。

 あれほど何度も抱いたというのに、自分は薔子のことを何も分かっていなかった。彼女は、吾涼が考えていたよりも、はるかに心は幼いままなのかもしれない。

 薔子は吾涼の笑顔を唖然として見上げていたが、はっと小刀を握り続けている吾涼の手を思い出し、見下ろした。


「吾涼さん、手ぇが……」


「ああ……」


 吾涼の手からは止まることなく、あざやかな血が少しずつだが、確実に流れている。

 うつむいたまま、薔子は顔を上げない。


「薔子……」


 彼女の具合が悪くなったかと心配になった時、小刀を握った手の上に、熱いしずくが、ぽつぽつと落とされた。

 雨ではない。薔子のなみだだった。

 ほつれた長い前髪が斜めに覆い、彼女の顔は見えづらくなっていた。だが間から見えるその表情は、先ほどと比にならぬほどの痛々しい泣き顔である。


「お前……」


 心配する吾涼に応えることなく、小刀を握ったままの吾涼の手に己の手を重ね、ゆっくりほどいてゆく。

 手の上には、ただ熱い涙が次々と落とされていき、血を洗い流していく。

「なん……で」


「えっ?」


 切れ切れになった声を聞き取ろうと、吾涼は耳を研ぎ澄ませる。


「なんで……優しくしてくれるんどすか?……こんなうちに……」


「……」


 吾涼は何と言葉を返せばよいのかわからず、気付けば両腕を背に回し、彼女を強く抱きしめていた。

 自分でも自分のしたことに驚いていた。

 彼女の頭に右手を当て、胸元に顔を埋めさせる。薔子の額が鎖骨の位置に当たった。

 薔子は戸惑っていたが、吾涼の熱い胸を顔の肌に感じると、嗚咽おえつを漏らし、さらに肩を揺らしてその固い胸で泣き続けた。

 そんな彼女にぬくもりを与えるように、自分も彼女の頭に頬を寄せる。背に回した血塗られた手で、より強く抱きしめた。

 薔子の背中が血の絵の具で染められていく。

 雨は止むことなく、雨脚を強める。豪雨に塗られた若いふたりは、ながい間ずっとそのまま抱き合っていた。

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