11 成果の可視化

 囀の森を出てしばらく、正確にはトレーラーに揺られ始めて十五分くらい経過した。

 運転席に座るイオン以外がダイネットに集まる様子を見て、身を寄せ合って眠るハムスターを連想したのは囀の森を出発する直前のこと。今回の修理でも改善されなかったトレーラーの大きな揺れにより、子どもたちが重なりあうように倒れているのを見て、ますますそう思った。

 そんな子どもたちは最初こそ遠足気分の小学生たちのように高い声を上げて盛り上がっていたが、ダイネットの隅で表情を強張らせたクラム・ハープの緊張を察して次第に静かになっていった。

 この静寂が落ち着かないようで、ツナグは空気を和らげるために何かを言おうとしていた。しかし、結局何も言うことなく口を閉ざす。この様子に動揺したのは近と笑流。空気を読んで言いかけた言葉を飲み込むなんてツナグらしくない行動に何か変なものを食べたのか、体調でも悪いのかと心配していた。

 恐らくだけれど、私が眠りについた後か今朝にでもツナグとイオンは話し合い、もしくはイオンがツナグを更に叱り、状況を拗らせたのだろう。非常に、とてつもなく、これ以上になく、面倒臭いことをしてくれている。


「放置したいなあ。でもなあ、うーん」

「一人で何をぼやいてんだ」

「……ま、いっか。後のことは近に託すよ」

「は?」

「いろいろと面倒臭いし、大変だろうけれど大丈夫。意外となんとかできるものだから」

「いや、何の話?」


 話を飲み込めず、首を傾げて困惑の表情を浮かべる近を置いて窓から外を確認する。囀の森からイシアまで、道路もなければ障害物もないから到着は早い。イシア東地区に続く石門はもう目の前にある。

 大木の洞で話しをしていたときに緩んでいた頭のネジもしっかりと締まったらしい。今のクラム・ハープには余裕がなく、視野は狭まっているようだ。まもなくイシアに到着することにすら気付いていない。


「これはとあるお姫様の話でね」

「お姫様!」

「しゃま!」

「たぶん、ネルトリアの蜜姫みつひめのことです。萩野と仲良しなんですよ」


 お姫様という単語は年頃の女の子に刺激が強い。これは万国共通のことらしく、それまで静かにしていたアミィとキィが目を輝かせて立ち上がる。そして、笑流の補足説明に更に盛り上がる。

 え、私はこの空気の中で話を続けなければならないの? そういう心踊るファンタジーな物語を語るわけではないのに。二人ほどの反応は見せないけれど、好奇心を隠せていない男の子たちの視線も感じ、頬を引き攣らせて続きを語ることに躊躇いを覚える。

 けれど、この空気の中でやっぱり何でもないとも言えないので、咳払いを一つして話を続ける。


「良く言えば謙虚。悪く言えば卑屈。非常に優れた二人の兄王子に意地悪されていたお姫様は自分の価値を正しく評価することができず、背を丸め、息を潜めて暮らしていました」

「それはいけませんね。兄というのは後から生まれてくる妹や弟を守るべきだというのに、意地悪をするなんて」

「う!」

「そこがまた厄介なお話。その意地悪は王位継承が絡んでいて、悪意によるものとかじゃないの。ファルがキィを守ろうとしているように、兄王子たちもまた妹を守ろうとしていたの」

「守るために意地悪を? 意味が分からないです」

「王族という国の頂点とも言える地位に生まれ、その上非常に優れているとなったらね。凡人には想像もつかないくらい苦労をするものなのよ。その苦労は妹への思いを拗らせるのに十二分なもの。同じ苦労を妹にもさせないように、他人から傷つけられないように、表舞台から降ろすことにした。わざと息を潜めて暮らしたくなるように仕向けるなんて酷い話よね」

「妹を守るために自分たちで妹を傷つけるってこと?」

「不器用すぎじゃん。ファルならもっと上手にやるよな」

「ねー。ファルもサシェもうるさーい。お話が全然進まないじゃん!」


 妹がいるファルからしたら聞き捨てならない話だろう。そういえば、当時この話を目のあたりにして近も似たような表情を浮かべていた気がする。直接口を挟むことはしなかったけれど、理解できないとでも言うような。

 当時のことを思い出しながら、次から次へとなんでなんでと質問をしてくるファルとサシェの質問に対する答えを交えながら話を続ける。


「兄王子たちによって自己評価を下げに下げていたところで、とどめを刺すように同世代の女の子の中から聖女様が現れたの。彼女もまた秀でていて、皆がもてはやした。兄王子たちなんてここぞとばかりに囲ってみせたわ。こうして立場を失い、お姫様という肩書きのみとなった彼女は自分は役立たずなのだと思い込んだ。まあ、当然のことね」

「思い込んでいた……ということは、実際は違うのですか?」

「捻くれた兄王子に挟まれて育ってきたとは思えないくらい心優しくてね。貴族の令嬢であれば賞賛すべき、王家の姫としては致命的なほど、無償な愛を惜しみなく差し出せる女の子だったの。そんな彼女に心打たれた人は多い。けれど、表面化されていない支持をお姫様は知りようない。どれだけ思っていても、伝わらなければも同然ね」


 それはつまり、どれだけやっても成果が可視化されないということ。

 彼女は感謝されたいわけではない。ましてや、見返りを求めているわけでもない。ただ、自分の行いで一人でも多くの民が救われてくれたらそれでいいと思っていた。だからこそ、成果が知りたかった。やっても民が救われないのであれば意味がない。別のやり方を試みるから、知りたい。本当にそれだけ。

 どれだけ豊かでも、どれだけ平穏でも、隅に追いやられて苦しい生活を強いられている人はいる。そう、彼女が救おうとしていたのは兄王子たちも、聖女ですら手が届かない者たちだった。だから、必死になっていた。そして、その人たちが笑顔を浮かべて安らかに生活ができるようになっていたら、それ以上の褒美はない。あのお姫様は本気でそう考えていたし、今でもそう考えている。

 私には全く共感できない思考ね。捻くれた兄王子たちの王家に生まれた者の責務として国を、そして民を守る必要があるのだという話の方が頷けた。


「そんなお姫様は涙を流して言った。民からこんなにも慕われていて、こんなわたしを支持してくれる人がいたなんて。わたしの行いは誰かの救いになっていたのですね、って」


 これまで王家の者として人前に立つことなく、存在を認知されているかも怪しいお姫様。だからこそ、直接現地に赴くことができた。知識に富んでいる変わり者の令嬢として話を聞き、小さな問題から解決していった。結果、お姫様が表舞台に上がったとき、国民に認知されたとき、惰性による支持ではなく功績を評価した支持を得ることができた。

 国民からの支持を得るということはそれまでの行いが認められ、これからの行いに期待をされているということ。私ならそのプレッシャーに面倒臭さが勝って投げ捨てたくなっている。けれど、あのお姫様は涙を流して幸せを噛み締めていた。


「親の光は七光り。先代までの地位や名声をそのまま引き継いで国民からの支持を得ることは簡単よ。積み重ねてきた先祖に感謝することね。聖女というネームブランドも便利よ。逆に言えば、そういうものを持たずして支持を得るのは難しい。教養があっても、私財を蓄えていても、何かを成し遂げていても、信用も信頼もなければ人の心を掴めないからね」

「先祖の積み重ねやネームブランドがあるだけでも十分恵まれていると思います。そのお姫様もお姫様だからできたこともあるでしょうし。……えーっと、つまりその話って」

「私はさ、中途半端で生温い、根本的な解決にはならず問題を引き延ばすだけだと思っているよ。炊き出しは空腹を一時的に緩和させるだけだし、家から持ち出した食料を一部の人に与えるだけなんて論外」

「あれ、唐突に私の行いに駄目出しですか? 改めて言われる流れですか」

「していいならいくらでもするよ。でも、私がそう思えるのも物資も人材もなんとでもできる環境にあるから。旅をしている今ですら人材に恵まれているし、そもそも三割くらいは八つ当たり」

「八つ当たりされていたんですか!?」


 素っ頓狂な声を出し、それまで強張らせていた顔を膨れっ面にする。いい年した大人が何をしているのやら。溜め息まじりに言えばクラム・ハープの機嫌は更に斜めにする。

 そんな子どもっぽいクラム・ハープの姿を見て、シーナたちが声を潜めてオレたちみたいだと話していた。笑いを噛み殺し切れていないので、いっそのこと大きな声で笑ってあげてほしい。


「それで! いったい、何のお話をしたかったのですか!」

「声を荒げて誤魔化そうとすればするほど痛々しくなるよ」

「指摘しない優しさはないのですか?」

「それで、お姫様を見て思ったのよ」

「また人の話を無視する!」


 煽り耐性もなければ揶揄われることも少ないクラム・ハープは少し意地悪しただけで涙目になる。私が虐めているみたいじゃないと言えば、近にみたいもなにもその通りだろと肯定される。まさか近に言われるとは。

 頷く近を見たキィは私の怪我に響かないように注意しながら、小さな手の平で私の膝を叩いてくる。見下ろせば、キィは可愛らしい唸り声を上げる。ファルの通訳がなくとも分かる。意地悪はよくないと言いたいのだろう。

 皮脂でべたついていた髪はすっかり柔らかくなっており、撫で心地が良くなっている。そんなキィの頭を撫でながら話を続ける。


「王であれ、領主であれ。何にしても国の上に立つ人というのはそういう形で選ばれるべきなのよ」


 見計らったかのようにトレーラーの揺れが収まる。数秒遅れてエンジン音も消える。

 運転席からイオンが目的地に到着したことを伝えると、待っていましたと言うようにシーナとサシェが飛び出す。予測できなかった二人の行動にクラム・ハープは悲鳴に近い驚きの声を上げる。

 混乱する様子にキィとファルは悪戯が成功したとでも言うようにハイタッチをしてからクラム・ハープを二人で挟み、手を握る。


「萩野お姉さんはクラムお姉ちゃんにこう言いたいんだよ」


 兄妹に手を引かれるクラム・ハープの背をアミィが押す。それだけなら無邪気な笑顔を浮かべていることだし、微笑ましいと見守れた。けれど、その発言は聞き捨てならない。

 やってくれたな。そう思って笑流に目を向ければ、小さく舌を出して片目を瞑る。誰よ、この子にこんな可愛いウインクのやり方を教えたの。そこで鼻を鳴らしてざまあみろと笑う近ね。

 意味あり気な言葉に首を傾げるクラム・ハープと続きが言いたくてたまらないと輝いた目を私に向けてくるアミィ。私はもう好きにしてと返すしかない。


「クラムお姉ちゃんがしてきたことは根本的な解決にはならなくても、信頼作りに繋げることはできていた。つまり、ムダなことをしてきたわけではない。むしろ、この数年間、心折ることなく機会が訪れるまで粘ったことは褒められるべきこと。って!」


 胸を張り、宣言するように言い切るアミィに私は深い溜め息を吐く。そして、本日の自分の仕事は終えたと言わんばかりの態度で運転席にてくつろぐイオンの頭を軽く叩く。力いっぱいではなく軽くなのはイオンのことを思ってではなく、彼の硬い頭を力いっぱい叩けば痛むのは私の手だから。

 四人の後に続いてトレーラーを降りるはずの私が運転席に来ていることを不思議に思ったのか、イオンは数度瞬きしてから首を傾げる。

 なんだ? じゃないのよ。ああいう余計なお喋りは身内の良いところを知ってほしいという思いで動く笑流か私を困らせたいがためにわざと口を滑らせる近のすることでしょう。もしくは意味深長な話し方をするツナグ。そして、今日のツナグは怖いくらいに静かね。


「で、そんなお喋りになんでイオンまで混ざっているの」

「おっと、ばれたか!」

「あの二人の頭で考えつく言い回しじゃないからね」


 からりと笑うイオンにはこれ以上何も言うまい。更に余計なことを言われたら、先程とは別の意味で浮かんでいる涙が大粒で零れて面倒臭いことになりそうだもの。

 足を止め、潤んだアップルグリーンの目をこちらに向けてくるクラム・ハープに早く外に出るように手で払いながら溜め息を吐く。


「萩野さん、私に対する悪態が多いのは実は……!」

「九割九分九厘が心からの言葉ね」

「期待の裏返しということですね!」

「まだ仮眠が足りなかった? でももう時間ないから早く緩んだ頭の螺子を締め直して」

「クラムお姉ちゃん、もともとこんな感じだよ?」

「最近は緊張していて控えめだっただけですね」

「あい!」


 感激して今にも飛びついてきそうな勢いなので距離を置く。そんな私の背中をイオンが笑いながら押してくるからやめてほしい。

 けれど、一つだけ分かったことがある。元はそういう性格をしていたというなら、そんな彼女だから救われた国民もいるのだろう。感情表現が豊かで可愛らしい頭をしている人は神経を逆撫ですることもあれば琴線に触れることもあるからね。


「なあ、まだー?」

「クラムねえちゃん、はーやーくー!」

「……私の言葉なんかより、外の景色を心に刻んだ方がいいよ」

「外?」


 先に飛び出した二人が乗降口から顔を覗かせ、なかなか降りてこないクラム・ハープを呼び出す。それを聞いた三人は掛け声を揃え、クラム・ハープを引っ張り出す。

 クラム・ハープがトレーラーを降りると同時にクラッカーの弾ける音と驚きの悲鳴が上がる。そして、遅れてやってくる笑い声の波。外は随分と賑やかなことになっている。


「クラッカーなんてあったんだ」

「物置にありました!」

「あの子たちと関わるの嫌がっていたのに、随分と協力的になったね」

「萩野のいいところを広めるのを約束したので!」

「……」

「だめですよ、萩野。イシアが追いつめられたのは鳥籠が放置したせいでもあるからって嫌われるような振る舞いをするなんて」

「ねえ」

「俺じゃないぞ」

「私でもありません」

「どうせ萩野のことだから、そう考えて感謝とかされないようにとか考えてクラムさんに態度が厳しいんだって近が言いました」

「俺が言った」


 普段、近と笑流が私の指示通りに動くことはあれど、口を挟むことはしない。行動の理由が分からなくて説明を求められることはあれど、納得したらそれ以上聞いてくることはない。特に笑流。私を困らせるために近が悪戯心で、もしくは腹癒せにやってくれることはあるけれど、素直で良い子の笑流はまずない。

 それなのに、今回は私に隠れて動くなんて……そんなに露骨だっただろうか。それとも、何かを察してしまったのか。


「萩野……怒っていますか?」

「ちょっと困ってる。苦手意識を抱いてくれていた方が都合が良かったからね」

「どうしてですか? いつもは旅において人脈はとても大切なものだから、好意的に思ってもらえる方がいいって言うじゃないですか」

「大人の事情ってやつだよ。笑流にはまだ難しい話かもね」

「あの女に気に入らないって言ったのは本心だよな」

「うん」


 黙り込んだ私に不安になった笑流は顔を覗き込んでくる。不安に揺れる紫色を帯びた暗い青の目が罪悪感を煽ってくる。近が会話に混ざっていなければ悲しそうにする笑流に免じてクラム・ハープへの態度を改めるところだった。

 フィッシュボーンに結わえた頭を撫でて、困りはするけれど怒っていないことを伝える。笑流は顔を綻ばせて抱き着いてくる。可愛いは正義とはよく言ってものね。許したくなった。本当に怒っていないから許すも何もないけど。


「萩野。そろそろよい頃合いかと」

「それもそうね」


 窓にもたれていたツナグから声がかかったのでクラム・ハープたちから十分くらい遅れて私もトレーから降りる。

 イシアまでの搬送を終えたイオンは今日の仕事は終わりだと言うように運転席から降りてダイネットで寛ぎ始める。ツナグもここから先のことには関心が薄いみたいで、優雅なティータイムの準備を始めている。その暢気さ、私からついて離れない近と笑流にも分けてほしい。


「思ったより集まったのね」

「東地区376人、西地区107人。その中で動ける者が集まりましたからね」

「声をかけてくれてありがとう」

「いえいえ、東は楽なものですよ。それよりも西の人たちを集めた手腕、見事です」

「ホロ爺の手を借りたし、子どもたちを使ったから」


 ハープ家の屋敷周りには人が集まっている。その中心にいるのはクラム・ハープ。国民からの鼓舞激励に今にも泣き崩れそうだ。

 イックスさんに混ざらないのか聞かれるが、部外者の私があの中に混ざれるはずないし、何より私はクラム・ハープと違ってああいうのは苦手なので嫌だ。


「夜な夜な、子どもたちを連れてイシアに戻っていたかいあったな」

「日中はイオンとツナグの下で勉強。夜はイシアに戻って西地区を駆け回り、今日のことを伝える。あの子たちには苦労をかけたわ」

「みんな、クラムさんを驚かせるために頑張ってました」

「そうね。おかげで視野が狭くるほどの緊張も解れたでしょう」


 東地区はイックスさんに、西地区は子どもたちに任せて今日この時間にハープ家の屋敷に人が集まるように手配してもらった。イックスさんはともかく、子どもたちは私たちと一緒に囀の森で過ごしていたし、クラム・ハープに気取られないように準備は大変だった。それでもやる必要があった。

 今のハープ家はクライ・ハープの行いによって心象が良くない。けれど、それを考慮しても彼女は国民に慕われていた。彼女を連れ歩いてイシアを回るだけで、よく分かった。

 ならば、目に見える形にしてしまおう。クラム・ハープみたいなタイプは重たい期待で退路を絶った方が力を発揮するから。例にあげたお姫様と同じね。ただし、期待に応えようと一人で抱え込みすぎて潰れるリスクもあるので、そこをどうするかが今後の課題。それは本人になんとかしてもらおう。


「ようこそ、いらっしゃいました」


 凍てつくように冷たい声が喧噪を切り裂く。

 クラム・ハープを囲って思い思いの言葉を伝える人々も、その言葉を一つ一つ丁寧に受け取っていたクラム・ハープも、そろそろ屋敷の中に入ろうと声をかけようとした私も。その場にいた全員が声の主に視線を向けた。


「壱檻萩野様。クラム・ハープ様。主が中でお待ちしております」


 目が冴えるような白銀世界がそこに在った。

 髪も目も肌も、そして身に纏っている給仕服。全てが純白であり、彼女に自分が雪の精霊だと名乗られたら誰もが信じるだろう。それだけ、不純物の混じらない白は印象的だ。

 先日、モップを携えて現れた凶悪な白い女と目の前にいる洗練された美しい従者が同一人物とは思えない。フルスイングしたモップでゴルフボールの如く吹っ飛ばされたことを思い出すだけで全身が痛んでくるというのに、だ。


「人様の家なのに我が物顔で出迎えるのね」

「主からの命令ですので。これについての非難は主へ直接お願い致します」

「直接言っていいのね」

「私に言われても対応を変えることはできませんので」


 彼女の言う主が誰のことを言っているのか、心当たりはある。その可能性は考慮していた。その通りであったら今回の件については話が楽にまとまるが、後が面倒臭そうで嫌だったのよね。

 予想通りの展開に溜め息を吐く。重たい足取りで白い女の案内を受けようとすると、背後から伸びる手に首根っこを掴まれる。勢いよく後ろへ引っ張られたので、潰れた蛙の断末魔のような声を上げてしまった。


「近」

「……」

「ちーかーちゃーん-?」

「……」

「ちょ、ぎぶぎぶ。首絞まる」

「絞めてんだよ」


 俺もついていく。無言の圧で伝わってくる。

 近が言いたいことに気付かないふりをして名前を呼べば首根っこを引っ張る力が強まる。情けない声を上げれば悪びれもなくそう返してくるのだから酷い男。それすら絵になるというのは一体全体どういうことなのか。


「俺もついていく」

「申し訳ございません。主からはお二人以外は入れぬように言われておりますので、お控え下さい」

「だって。だから昨日から言ってるでしょう。近はお留守番だって」

「納得してないし、こいつらがいるのに萩野一人なんて尚更ダメだ」


 白い女が忠告すれば、近は逆毛を立たせて警戒心を露わにする猫のように威嚇をする。

 美男美女の迫力があるやりとりに、自宅へ戻るだけのクラム・ハープが狼狽えている。縋りつくような目で私に助けを求めてくるけれど、助けてほしいのは二人に挟まれる私の方よ。

 というか、きみはこの女の案内を待つことなく屋敷に入ればいいでしょう。そうしてくれたら私はこの二人を放置してついていくのに。


「はあ。……貴方には主より言伝を預かっております」


 唯一、白以外の色に染まっている唇から吐息を漏らす。その仕草が艶っぽいと思っているうちに、白い女は私と近の間に立っていた。

 音を立てず、気配を悟られず。まるで手品みたいな接近に近の警戒心が強まる。白い女はそれを気に留めず、傍にいる私に聞こえない声量で近に耳打ちをする。


「っ、なんで」

「それを私に聞きますか?」

「……萩野、やっぱりダメだ。こいつらがいるなら話し合いそのものに反対だ」

「妨害されるようであれば、この言伝を彼女にもお伝えするように命じられております」


 何かが近の琴線に触れた。

 目を見開き、眼球が固定される。顔はあっという間に青白くなり、微かに震える指先を隠すように爪先を丸める。

 いつもなら、動揺する姿も儚さが増して美しさに磨きがかかるのだから恐ろしいよね。なんて言って揶揄うけれど、ここまで動揺している姿を見るのは初めてなので言うに言えない。

 しばらくの間、沈黙している近の様子を窺う。これ以上、顔色が悪くなるようなら引きずってでもトレーラーの中へ連れて行こう。そう思って声をかけようとしたら、近の方が先に舌打ちをして私から手を放した。


「彼は貴方の安全より自分の秘密を守りたいそうですよ」

「そういうものでしょう」

「貴方はどちらかというと自分の命よりも周囲の命を優先して守りそうですが」

「どうかしら」

「自らを優先し、生きることに執着しないように作られているのであればそう考えると思ったのですが……違いましたか?」

「……」

「秘密を守るために貴方を見捨てる者たちなど切り捨てて我々につくというのはどうでしょう。貴方の安全を確約しますよ」

「お断り」

「即答ですね」

「だって、そんなことをしたら近が作るご飯が食べられなくなる」


 どういうつもりでそんなこお誘いをしているのか、、白い女の意図が分からない。淡々としていて、一切の変化が見られない表情からでは思考を読み取ることも難しい。こんなとき、ツナグのように読心術でも使えたらいいのに。

 何も考えていないということはないだろう。近を攻撃することが目的なら大成功ね。捨てられた子犬のような、迷子になって怯えている子どものような顔になったもの。そんな顔をしないでほしい。このまま放置して屋敷の中に入るなんてことはさすがに心苦しいし、つられて笑流まで不安になっているじゃない。笑流を泣かしたら優白に噛みつかれる勢いの怒りをぶつけられるのは私なのよ。


「そういうことだから。私が戻ってきたらすぐにご飯を食べられるように準備しておいてね。笑流がお手伝いしたものなら尚良し」

「はぎ、の」

「そんなに心配しないで。これはイシアにとっては決戦の場になるけど、同時に予め用意された茶番でもあるの」


 こんなこと、クラム・ハープにはもちろん、イシアに住まう人々には聞かせられない。国の一大事だというのに、それを私的なやりとりに利用しようとするなんて許されるはずがないのだから。

 声量を抑えて、内緒話をするように伝える。それでも近の不安は拭えないらしい。案の定、笑流もつられている。けれど、先程のように力技で引き留めることはしない。まあ、先程よりも引き留めたそうにしているけど。


「あちらは私とお話がしたいだけ。敵意はないよ」

「なんでそう言い切れるんだよ」

「そう思う理由はいくつかあるけど……まず、彼女の主と私が接触するように仕向けたのはツナグよ。どこまで読んでのことかは分からないけれど、それで命の危険に及ぶことがあればさすがに回避しているはず」

「その右腕じゃ説得力ないな」

「確かに。でも、敵意がないから私たちがここに来るまで待っていてくれた。そうでなければ日を置くことなく囀の森まで追ってきた。そうでしょう?」


 私の問いかけに白い女は肯定も否定もしないどころか反応すらしない。ただ、無表情で見つめてくるのみ。刺すような視線にはそろそろ中へ案内してもよいかという催促が込められているのだろう。先に仕掛けてきたのはそっちだというのに。

 痺れを切らした白い女が更に近を傷つけるようなことを言う前に行くとしよう。笑流の教育にもよろしくないし、蚊帳の外となっているクラム・ハープの心が折れてしまいそうだ。彼女の士気を上げるためにしてきた五日間の苦労を水の泡にしたくない。


「じゃ、いってくるね」

「……ここで待ってるからな」

「え、ここで待たなくていいよ。トレーラーに戻って」

「待ってるからな」


 どうやら一仕事終えたらすぐに近が作ったご飯を食べることはできないらしい。残念。






 砂汚れを纏った外壁に反して清潔感を保たれていた屋敷内。毛足の長い絨毯に埃が絡みついていないどころか、天井から吊るされたガラス細工の電灯も曇りがなかった。驚くほど清潔だった。

 しかし、クラム・ハープが不在となった二週間でその清潔感は見る影もなくなっている。


「きみの魔法がいかに大切か、失ってから分かるというやつだね」

「この状況で褒められても」

「掃除屋としてどう思う? 電灯まで簡単に掃除できる魔法」

「……」

「お喋りに興じる余裕はないみたい」

「……」

「萩野さんだけですよ。この場において書斎に到着するまで暇だからお喋りしようなんて思えるのは」


 そうだとしても、全部無視なんて悲しくて泣けてきちゃう。しくしく。

 わざとらしく泣いてみせれば、クラム・ハープに少しは緊張感をもってほしいと頼み込まれる。そうは言われても、私が緊張する要素はないもの。


「こちらです」


 二階にある一室の前で白い女は立ち止まる。ノックを四回し、一声かけてから扉を開ける。ノックの回数まで簡略化されない礼儀正しい態度は従者の鑑なのかもしれない。

 白い女が支える開いた扉にクラム・ハープは躊躇う。広い屋敷に住む領主の娘とはいえ、従者のいる生活を過ごしたことがないもしくはその期間が短いのだろう。どうするのが正解か分からず、私に助けを求めてくる。


「目上の人から入室するものよ。というか、早く入ってあげたら? お父様が今にも飛び出してきそうよ」

「……お父様」


 立ち止まるクラム・ハープの背中を押す。彼女が一歩踏み出し、部屋に入ると同時にクライ・ハープが抱き締めにくる。

 肩を震わし、力強く抱き締める父親にクラム・ハープは何を思っているのだろう。国を犠牲にして守られてきた娘の気持ちは想像つかない。


「じゃあ、あとは親子水入らずやってね」

「えっ」

「クライ・ハープにとって私は殺したいくらい憎い相手よ。そんな奴がいたら冷静になれるものもなれなくなるわ。それに、ね」


 クラム・ハープを私から引き離すように抱き締め、鬼の形相で睨んでくるクライ・ハープ。その背後で足を組んで優雅に座する人形のような男に目を向ける。

 ガラス玉を嵌め込んだような青い目が視線を絡みつけてくる。まとわりつくような視線が気持ち悪くて、咄嗟に目を逸らす。


「露骨に嫌そうな顔しないでくださいよ。酷いなあ」

「音も立てず気配もなく近寄ってくるのがきみたちの流行りなの?」

「おや、シェリエル。そんな距離の詰め方をされたのですか? お嬢様に失礼ですよ」

「そうですね。人の振り見て我が振り直せということですね」


 目を逸らした次の瞬間、人形のような男は私の隣に立っていた。左肩に置かれた手は酷く冷えており、反射的に振り払う。気安く触らないでほしい。舌打ちをすれば怖い怖いと肩を竦める。

 人形のような男に窘められた白い女は不快感を隠すことなく、舌打ちをする。おっと、彼女の言う主とは彼のことだとばかり思っていたけれど、珍しく私の予想が外れたかしら。


「従者としての振る舞いは洗練されておりますが、主に対する礼儀だけは欠けてる子でして」

「じゃ、頑張って領主を説得してね」

「あ、はい。頑張ります」

「あれ、もしかして無視されていますか?」

「無視したくなる気持ちはよく分かります」


 人形のような容姿をしておいて、口を開くと緊張感が霧散する。ツナグの面影がある。魔法使い独特の空気というやつだろうか。

 私の言葉に困惑するクラム・ハープと猜疑の光を含んで睨みつけるクライ・ハープ。二人に軽く手を振る。クライ・ハープの視線が更に鋭くなるので、怖い怖いと肩を竦めて書斎を出る。うわ、さっきの人形のような男と同じ行動をしちゃった。


「気分落ちた」

「心中お察し致します」

「あれ。そこまでの不幸なのですか」

「別室にてリディがお茶を用意しております。そちらで心を慰めてください」

「鬼が淹れたお茶ね。それはそれで楽しみかも」

「あれー。僕が予想していた展開と異なる……というか、お嬢様。よくもまあシェリエルと親しく会話なんてできますね。モップで吹っ飛ばされたでしょう」

「さっきまで無視を決め込まれていたから同情でも会話が弾ませてくれることが嬉しくて。それを言ったらきみには右腕折られているしね」

「共通の敵を認識すれば親近感を抱くというものです」

「共通の敵ってもしかして僕ですか」


 白い女の案内に付いて歩く間、人形のような男が粘着質に絡んでくる。非常に面倒臭い……それを通り越してうざい。それまで私が提供する話題に全て無反応だった白い女が同情してくれるほどだから、日頃からこういう態度なのだろう。それに仕える彼女に私の方こそ同情したい。

 共通の敵について話を弾ませながら、埃を絡めた毛足の長い絨毯の道を進む。そして私は以前と同じ場所で目を留め、足を止め、そして思考を止める。


「……」

「美しい絵ですよね。愛がたっぷり込められている」

「絵から込められた愛とか分かるものかしら」

「一本一本描かれた丁寧な線などから込められた愛が伝わってくるでしょう」

「使われている技法や素材は分かるけれど、感情的なものは……」

「ですが、その愛に感動したから立ち止まったのでしょう?」


 イシアを訪れた初日に私の意識を奪ったのは一枚の肖像画。

 ダークブラウンの髪は一本一本丁寧に描き込まれ、触れてみたくなる柔らかさ。年季の入った絵画にも関わらず、アップルグリーンの目は瑞々しい。

 クラム・ハープが不在になり、屋敷内の至る所に埃が積もっている。けれど、この絵画だけには埃が積もっていない。最愛の娘が不在となっていても、作者であるクライ・ハープはこの絵画の手入れだけは欠かさなかったらしい。


「これを愛と呼んで良いものかしら」

「愛の形は人それぞれ。故に、愛の正否は他人が決められるものではありません」

「でも、きみはこの肖像画には愛がたっぷり込められていると断言したじゃない」

「絵画に抱く感想も人それぞれ。僕はこの肖像画から過剰なまでの愛が込められており、それ故に美しい。そう思っただけですよ」

「ふうん」


 見透かすように私を見つめる人形のような男から視線を外し、再び肖像画に目を向ける。

 愛だの恋だの不確かな感情を語る人を見るのは初めてではない。美術品に触れる機会もそれなりにあった。でも、この肖像画のように思考を奪われることはなかった。このような気持ちになることもなかった。というより、そもそも。


「私にも感動する心というものがあったのね」

「もしくは旅の最中に物事に揺れ動く心が芽生えたか」


 その言い方では私が物事に心を動かすことのない無感動な人形か何かのようじゃない。なんて失礼な。

 そう言い返したくなるけれど、少し過去を振り返るだけでそう言われる心当たりが見つかるので言い返すことをやめる。

 一つ道が異なっていれば、私はこの男の言うように物事に動じることのない人形同然なものになっていた。それをどうして出会ってまもない男に指摘されることになるのかという疑問が浮上するけれど……それよりも先に訂正すべきことがある。

 胸元で転がるペンダントをひと撫でしてから笑顔を貼り付けたままの人形のような男に向き直る。


「それは違うわ」

「おや、否定されますか」

「芽生えたきっかけは別にあるもの。正しくは旅の最中に育った、よ」


 閑話休題。

 肖像画の話題を最後に会話は止み、沈黙の中で別室に移動する。時間にしてみれば五分も満たないが、増えた情報をもとに考えをまとめるには十二分な時間だった。


「準備は整っております」


 案内された応接室に入れば褐色肌の巨体が恭しく頭を下げる。その仕草は上品な黒の燕尾服に相応しい。

 けれど、私は知っている。客人をエスコートするこの巨体は大型キャンピングトレーラーを砲丸投げの如く上空へ投げる、暴力的な身体能力を有していることを。

 白い女よりもこちらの巨体の男の方に生命を脅かされた回数が多いからか、目の前にするとどうしても身体が強張る。


「これ以上貴女に危害を加えるつもりはありません」

「主人。彼女、スカートの下に」

「彼には透視能力でもあるのかしら。破廉恥ね」

「リディ。女性の服の下を暴くなんて無礼極まりないですよ」

「しかし」

「ああ、こちらのことは気にせず。楽にしてください」

「……よくもまあ、人様の屋敷でここまで我が物顔に振る舞えること」


 巨体の男の指摘に咄嗟に左足を後ろに下げる。動揺を悟られないようにスカートを押さえて、わざとらしく照れてみせるがそれに突っ込みを入れてくれる人はこの場にいない。

 人形のような男は美しい木彫装飾が施されたアンティークソファに腰を掛け、向かいのソファを私に勧める。この場において私が取れる行動は彼の誘いに乗ることのみなので、彼の両脇に立つ二人の従者を一瞥してから指定のソファに腰を下ろす。


「……」

「警戒せずに召し上がってください。毒なんて物騒なものは持っておりませんから」

「その心配はしていないわ。私に何かしようと思うなら、毒なんて回りくどい手を使わないでしょう」

「ではそんなに睨みつけてどうしたというのですか」

「美味しそうな見た目だけで味は壊滅的という可能性を考えている」

「リディの腕を疑うと」

「彼の腕を疑っているのではなく、芸術的な見た目をした茶菓子の味が壊滅的だったという経験があるだけよ。おかげで店ではなく個人から差し出されたものは見栄えが良いほど警戒するようになったわ」


 なお、そのトラウマを植え付けた犯人はイオンである。絶対に許さない。

 かつての出来事に一瞬意識が遠のく。あれから年単位で時間が経っているのに、未だにあの味を鮮明に思い出すのだから本当に酷い。

 五味を全て混ぜ合わせた上で辛味の刺激と渋みの痺れを掛け合わせた兵器を忘れるために持ち手が二つ並び、つぶらな赤い瞳とY字の口が描かれたマグカップに注がれた口腔内に珈琲を流し込む。それからパンダやらヒヨコやら、やたらと可愛らしいアニマルクッキーを咀嚼する。この流れからいくと、この二つ並んだ持ち手は長い耳を表現した兎型のマグカップなのだろう。

 ……これを私より一回りどころか二回り以上大きい男が用意をする光景は少し見たいな。


「さて。それでは最初に貴女がどこまで理解しているかお聞きしても?」

「何のために」

「お手並み拝見というやつですよ」


 それは名探偵による推理ショーを待ち侘びた観客のような目の輝かせ方だった。今の今まで笑顔を貼り付けているだけで表情が少しも変わらない人形みたいだったのが嘘みたい。

 そこまで期待されても、私は名探偵でもなければ噺家でもない。あっと驚くような推理を披露することもできないし、滑稽な笑い話を挟むこともできない。

 耳の黒い部分をチョコレートでコーティングされたパンダのバタークッキーを頬張りながら、どうしたものかと考える。ここで話がつまらない、なんて機嫌を損なわれたら困る。


「きみたちの組織内には二つの派閥がある。一つは人身売買、武器の密輸、違法薬物、あらゆる闇商売に手を出して金を稼ぐ破落戸ごろつき。もう一つはフードを目深にかぶって素顔を隠した、獣と人間が掛け合わされたモルモット」

「二つ、ですか」

「前者はもともと組織に属していた構成員。お目にかかることのなかったボスとやらが率いていたのでしょうね。後者はきみが引き連れてきたのでしょう。どうやってかまでは知らないけれど、新たな構成員として内部に潜り込み、目的を果たすために利用している」


 パンダのクッキーを三枚食べたところで次はヒヨコのクッキーに手を伸ばす。なんとこちらはカボチャの味。噛めば噛むほど味が濃くなり、カボチャのペーストを食べていると勘違いしそうになる。とても美味しい。気に入ったのでもう一枚食べよう。

 舌の上で蕩ける甘味に浸りながら反応を窺えば、つまらなそうに溜め息を吐いていた。両脇に立つ二人の反応は薄い。……薄いけれど、反応をみせた。

 なるほど、そういう感じか。そっちの方がやりにくいし面倒臭い。埋もれるように背もたれに寄りかかり、肩の力を抜く。


「前者の方はどうでもいいから割愛するわ。どうせきみに言いくるめられて金にならないイシアで人攫いをしたのでしょう。そうね、例えば……ここで問題を起こせば、現在鳥籠で指名手配されている女がやってくる。そいつは神の域に達する脳を持っていて、鳥籠の最重要人物だ。人質にすれば莫大な金を得られるぞ、とかね」

「うんうん」

「私を捕らえて鳥籠を脅迫しようとする目的は同じ。ただ、利用されている彼らは知らない。その目的は金銭なんてものではなく、復讐テロリズムであるということを」

「あは。それはまた飛んだ考え方ですね。そんなことして僕たちは何を得られるというのですか」

「さあ。私と引き換えに壱檻知易を捕らえたきみたちが二錠翠仙にじょう すいせんへの復讐を果たした結果、何を得られるかなんて知らないよ」


 沈黙が落ちる。

 視線を上げれば、従者の二人は目を見開いて身体を強張らせている。喉の奥に引っ込むかのように二人は揃って息を呑み、薄く開いた唇からは言葉が発せられることはない。人形のような男も瞬きを繰り返して驚きを隠せていない。

 この三人は私が思っていたよりも感情豊かなのかもしれない。


「得られるものは少ない、もしくは無に等しい。そう思っているからきみたちは復讐という形ではなく、私に協力を仰ごうと交渉の場を作ったのでしょう」

「二つに分かれていると言ったじゃないですか」

「後者を更に細かくカテゴリー分けすれば三つになるね」

「ならば最初からそう言えば一手間省けたでしょう」

「獣と掛け合わされた人間。太陽の下を歩くアルビニズムの人。鬼の生態は詳しく分からないけれど、丈夫な身体は無茶な治験にも耐えられるのでしょうね。でも、きみだけは分からない」

「ふふ、ふふふふ」

「モルモットと称したとき、きみの従者は僅かな反応をした。言い方が悪かったね、ごめんなさい。でも、きみはそれについては無反応。つまり、きみは」


 なんと表現するのが正しいのだろう。

 二錠翠仙が何を目的として人体実験および人体改造を行ったのか、察しはついている。この従者二人も、そしてあの場にいた豚の男も、容貌を確認することができなかったフードを目深にかぶって姿を隠していた者も、二錠翠仙の手にかかっている。

 あのときは二錠翠仙の存在を考慮していなかったし、感情的に動いてもらうために煽る必要があったとはいえ我ながらに酷い言葉を選んだと今更ながらに後悔する。

 そこを踏まえて、この人形のような男を表現する言葉としてはきっとこれが一番適している


「きみだけが二錠翠仙の被害者ではない」


 オブラートに包もうが、言葉を選ぼうが、結局のところこれに辿り着く。

 鳥籠代表としてイシアが凋落ちょうらくしていることを責められることはお断りだけれど、この件に関しては甘んじて受け入れよう。

 大衆を黙らせた凍てつくように冷たい声が嘘のように、煮えたぎる怒りを滲ませて白い女は問う。


「あの男が何をするか分かっていて、野放しにしたのですか」

「まずは私の身の安全を確保するために言わせて。彼が脱獄したとき、私はまだ子どもだった。さすがに何もできないわ」

「……」

「それ以前の話。彼が生存しているなんて誰も考えていなかった。鳥籠で生まれ、一度も外に出たことのない、それも下肢の完全麻痺というハンディキャップを背負った彼が外で生きていけるわけがないと思っていたからね」


 激しい怒りが殺意に変わるのは珍しくない。クライ・ハープだって無遠慮に向けてきた。それこそ、怒気や殺意で人を殺せるのであれば私は三回くらい殺されている。

 クライ・ハープはともかく、白い女に関しては彼女の怒りを抑えつける理性が途切れた場合は本当に殺されかねないので前もって主張させてもらおう。責任の追及は甘んじて受け入れるけれど、今殺されるのは困るのよ。近の心に深い傷を残すことになるじゃない。

 両手を挙げて降参のポーズを取りながら言えば、白い女は唇を噛む。薄桃色の唇が赤く滲んでいくのを眺めながら考える。どうしよう。彼の鬼畜ともいえる所業をあの子に、そしてあの人にどう言えばいいのだろう。


「イシアに残っているのは後方支援を行うためかな。それとも、いずれ私が訪れることを予見して巣食っていたのか。どちらにせよ、迷惑な話ね」

「誰よりも迷惑をかけているのはあの男でしょう」

「それは同意。迷惑って規模の話でもないわね」

「……あの日、アンタは主の提案を断っている。今回は聞き入れてもらえるか」

「ああ、僕たちの人生においての大役を担ってほしいっていう気持ち悪い提案ね」


 他のことを考えながら、会話を進めていく。白い女の言葉には激しく同意したい。というか、同意した。

 毒を含んだ発言をする度に怒りが漏れ出そうなのを察したのか、彼女の発言を制して巨体の男が代わりに本題に入る。あの場では意味不明だし、物言いが気持ち悪いと思っていた提案はそういうことだったのね。頷きながらそう返せば、二人は気味の悪いものを見るような目を己の主に向ける。

 従者に呆れた目を向けられるならともかく、蔑んだ目を向けられたらさすがの私でも心が折れて態度を改めるだろう。けれど、当の本人は何事もないような顔をして温く《ぬる》なり始めた珈琲に口をつけていた。

 ここから先の話は二人にお任せということなのだろうか。過大評価をしていたかとつまらなそうにしたと思えば笑い始め、そうかと思えば再び表情を引っ込めて人形のような顔に戻る。情緒不安定なのだろうか。腕の良い精神科医を紹介したい。


「内容によっては、とだけ言わせてちょうだい。先程伝えた通り、私でさえ二錠翠仙の生存は考慮していなかったの。彼をどうこうする以前に見つけることさえ鳥籠の者にはできないわ」

「それについて頼むつもりはない」

「だったら何?」

「私たちが貴女に望むのは──」


 それは、白い女が言い終えるのと同時だった。

 書斎の方から乾いた破裂音が響いてきたのは。それが銃声であると理解するのに数十秒の時間を要し、理解すると同時に応接室を飛び出す。


「ああ、幕引きですか。早かったですね」


 酷くつまらなそうに吐き出された男の呟きは私の耳に届かなかった。

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