飢えた子どもたちはがむしゃらに生きる

1 砂塵の国の鬼ごっこ

 乾いた空気に吹く砂っぽい風。照りつける日差しによりひび割れた干からびた地面。石造りの壁は脆くなり、ほんの少しの強風が吹くだけでぽろぽろと剥がれ落ちる。強い衝撃を与えられたらこの壁は崩壊するだろ。車道どころか整備された道そのものもがなく、車は一台も通っていないどころか人通りそのものがない。

 先日、土砂降りの雨が降っていたにも関わらずこの町は乾いていた。あの雨は局所的なものだったのだろうか。それにしても私の知る限りではイシアは貧富の差は目立つものの、商業で切り盛りして助け合いの精神で支え合ってたはず。

 しかし、現実のイシアは国境となる石の壁に設けられた石門付近にかろうじて店らしきものがある程度。そして、奥に進めば進むほど貧しさが露わになる。


「貧富の差が激しいというより貧しい国だろ、これ」

「そうだね。想像以上に貧困化が進んでいる」

「燃料と食料を補充するために寄ったんだよな?」

「寄るかどうか悩んでいたところをどこぞの悪戯っ子がトレーラーに魔法をかけたの」


 イオンの頑張りによりトレーラーはなんとかイシアの石門まで持ちこたえた。しかし、そこで力尽きたのかトレーラーはうんともすんとも言わなくなり停止。トレーラーと共に力尽きたイオンは停車させるなりツナグに拳骨を落として説教をしていた。イオンのお小言が長くなりそうだと判断した私と近は笑流に留守番を任せて買い出しをすることにした。

 笑流に留守番を任せて役に立つのかという話ならば問題ない。あの子がいるところには必ず凶暴な番犬がついているのだ。わざわざ盗みに入ろうとする者はいないだろう。優白は狼だからそこらの番犬よりも怖いのよね。

 そういう経緯で散策を開始してから既に三十分は経っている。ガソリンスタンドはもちろんのこと食材を売っている店もほとんどなかった。ようやく見つけた店に並ぶのは数少ない野菜。しかも酷くやせ細ったもので栄養価は期待できない。それどころか腹の虫一匹だって満足させることはできないだろう。


「言い出したのお前だろ。何が目的だったんだ?」

「目的なんて特にないよ。これはそういう旅でしょう」

「目的はなくとも理由はあるだろ」

「知らないよ。私はツナグの誘導に乗っただけだから」

「つーさんが誘導なんていつしたんだよ」

「……呆れた。一緒に旅をしてそれなりに経つのに気付いてないの?」


 察しが悪い男としつこい男は嫌われるよ。と、言いたいところだが近の場合はどれだけ性格が歪んでいようと全てを帳消しできる容姿なので問題ないのだろう。本当、見た目がいいとは便利なものね。

 とはいえ、私は美醜の評価はできてもそれに心躍らせることはできないので近の顔の良さに免じて帳消しにすることはできない。結果、眉間に皺を寄せて頭上にハテナを浮かべる察しの悪い近に呆れることになる。

 呆れついでにツナグの思惑には微塵にも気付かないくせに私の考えていることは読めるのね。なんて茶化せば軽く小突かれる。暴力的な男も嫌われる要素の一つだと誰か教えてあげてほしい。


「ツナグがトレーラーに魔法をかけるときって寄りたい場所が近くにあるのよ」

「……わざわざそんなことをしなくても口で言えばいいだろ。ざまあみろと笑ったがさすがに同情したくなった」

「私だったら理由もなくイシアに立ち寄りたいと言われたら躊躇うよ。でも、あの秘密主義がその理由を説明するわけないでしょう。だからこんな回りくどい手を使っているんでしょう」


 理由は話せないが立ち寄りたい。トラブルを招かなければ立ち寄る可能性が低い。

 いつだって、ツナグはそういうタイミングで誘導を仕掛けてくる。そして毎度何かしらの事件に巻き込まれる。何がしたいのかは分からないが、そうまでして立ち寄りたかった理由があるのだろう。あの男は昔からそういうところがある。


「少なくとも、私は道端で立ち往生するかイシアに寄るかの二択に迫られなければこの国に踏み込む気になれなかった」

「うげ、砂が口に入った。……で、なんだって?」


 小さく吐き捨てた言葉は突風に煽られて軋んだ音を鳴らした看板に遮られ、近の耳にまで届かなかったらしい。私が何かを言ったということには気付いたようで聞き返してくる。けれど、私の言葉よりも口の中に入った砂の方が気になるようで、砂を取り除くことに意識が傾いていた。

 私は思う。近って見た目こそは一級品だが中身は男子高校生並みにアホな気がする。ジャージの下に潜ませているペンダントをいじりながら溜め息を吐く。

 吐き捨てた言葉をもう一度言う気にもなれず、美しい間抜け面を晒す近を無視して軋んだ音をたてて揺れる看板に近寄る。指先が隠れるほど伸びたジャージの袖で砂汚れを拭い、掠れているがなんとか読めそうな文字を指さす。


「この店ならなんとかなりそうだよ」

「なんとかなるといいな」

「目が死んでいる」

「なりたくもなる。なんで毎度俺たちが買い出しに行かされるんだ」

「ツナグとイオンが外に出ないのはいつものことでしょう。見るからに治安が悪そうな国で笑流を連れ回すのは教育上よろしくない」

「驚いた。考えがあってのことだったのか」

「まさか」


 目を丸めてわざとらしく驚いて見せる近に肩を竦めてみせる。人間、単純が一番だと言ったばかりじゃない。考え事が多いと自覚はしているが、いつも考えがあって行動をしているわけがない。

 買い出しについていけばその場で出会った美味しい食べ物をその場で口にできるし、近を連れて行けば値切りに有効活用できる上におまけをつけてもらえる。なんて言ってしまえば拳骨を落とされそうなのでお口にチャック。余計なことを口走る前に重たい扉を押して店に入る。


「…………」

「…………」

「なんとかなりそうか?」

「必要最低限のものなら。小麦粉とか買えそうだし」

「本当に必要最低限だな」


 薄汚れた棚に陳列する商品を見比べ、近と目を合わせる。お世辞にも綺麗とは言えない店に並ぶ商品だから品質に不安はある。しかしそれを口にするのは店主に失礼というものだから言葉にはしない。だが、目は口程に物を言う。近の濡羽色の目がこんな薄汚い小麦粉で大丈夫か、虫が湧いていそうだがなどなどと訴えていた。

 小麦粉を生で食べることはないし、虫だって食べられるものもあるし焼けば問題ない。不満を訴える近の目を一瞥してから小麦粉とその他の乾いた野菜を手にして会計をする。

 泥のように澱んだ目をした店主は緩慢とした動作で計算をし、値段を提示してくる。若干の計算間違いが気になるところだが余計なやりとりを増やしたくないので言われた通り支払う。お金を受け取る手は骨に皮が張り付いているだけ、ひび割れた爪は抉れたように剝がれている部分もあり、視界に入るだけで背筋が冷えた。


「お前でも臆することがあるんだな」

「失礼な物言いね。私ほどか弱い女の子はいないから」

「か弱い女の子は汚れた店に並ぶ商品を躊躇いなく手に取ることはしない」

「それは偏見というものでは」

「常々お前には女としてどうなんだと言いたいことが山ほどある」

「奇遇だね。私も常日頃から近ちゃんに男としてその美貌はいかがなものかと言いたいと思っているよ」


 店から出るなり始まる軽口の叩き合い。ここまで言い終えたところで数歩下がって近との距離を置く。念には念を入れて小麦粉を入れた袋を盾にする。叩かれることを分かって口にはするけれど、一日に何回も叩かれて喜ぶような性癖は持ち合わせていない。そういうのはイオンだけで十分だ。

 完全な防御態勢をとる私を見た近は挙げていた手を降ろす。代わりに額に手を当て、うんざりとしたように頭を振る。


「お前と喋ると疲れる」

「それはありがとう。これ以上にない褒め言葉だよ」


 淡々と弾む会話は意味も価値も利益だって少しも発生しない。ただただ時間を浪費するだけ。私も近も抑揚をつけて喋る方ではないし、皮肉も嫌味もたっぷりと孕ませた言葉で刺しにいくこともある。だからたまに私たちの会話はゴムボールが弾む勢いで相手を傷つけようとするほど仲が悪いのかと心配されるのだろう。

 けれど、私たちはそう言われる度に否定をするし、訂正も入れる。これでも一応仲は良いほうなのだ。行動を共にすることは一番多いし、思考と行動パターンもだいたい把握している。だからこそできる会話なのだ。


「あーあー。近のせいだよ」

「お前が目立つ格好してるからだろ」

「ジャージのどこが目立つの。近の素敵で魅惑的な美貌のほうが異彩を放ってる」

「お前の国では一般的かもしれないけれど他国では目立つってことを考えろ。あとそれ褒めてないな」

「私が近を褒める必要性が感じられないので」


 こうして何かがあるたびに責任を擦りつけ合ったり冷たい視線を送ることも当然する。ちなみに、面倒事に巻き込まれそうになったら押し付け合うし、荒くれ者に囲まれていたらお互いを囮にして逃げようともする。私と近はそういう関係である。だが、何度でも言おう。私たちは仲は良い方だ。あの中で一番気が合う相手は近だと言ってもいいくらいだ。

 さて、現実逃避もここまでとしよう。抱えている紙袋を持ち直し、数歩置いていた近との距離をつめる。この状況で離れていても良いことは何一つとしてないのだ。そして、些細なことでも根に持ちやすく、いかなるときでも晴らせる恨みはその場で晴らすと決めている近はすかさず私の後頭部を手刀で打つ。なんたる仕打ち。


「三節混は置いてきた」

「意思の疎通ができれば乱暴なことにはならないでしょう」

「笑流を連れて来なくて正解だな」

「彼女がいればもれなく優白もついてくるから不正解かもね」

「とりあえず荷物を全部持て。お前、小麦粉しか持っていないだろ」

「か弱い女の子に荷物を持たせるなんて最低」

「か弱い女の子にこの場を切り抜ける力があるとは思えないから気遣ってやってるんだが?」


 そう言われてしまったらこれ以上の文句をつけることはできないので近が持っている荷物を受け取る。中身の詰まっていない野菜ばかりだったから重量そのものはそこまでないのだけれど、手にしている袋が増えるというだけで気持ちが疲れる。

 こんなことになるならば、どうせトレーラーの修理に時間がかかるだろうからもう少し散策してみようとか言わず引き返せばよかった。

 少し考えれば想像できることだ。小綺麗な格好をした男女がこのような貧困が目立つ場所をほっつき歩けばどうなるかなんて。しかも、片方は身に着けているものがどんな安物だろうと高級品に見えてくる美貌の持ち主ときたものだ。


「想像通りだけれど予想外ってところかな」

「どっちなんだよ、それ」

「金品目的で囲まれるのは想像できたけれど、子どもに囲まれるのは予想外ということ」

「なるほど、分かりやすい」


 子どもが相手だとしても、多勢に囲まれるというだけ面倒臭いし疲労感に襲われる。左側にある壁にもたれて一息。それから買い物袋を持ち直して相手を観察し始める。

 なんてのんびりとした対応だろうと思われるかもしれないが、私が慌てて何か行動をしたところで無駄なのだ。荒事はさり気なく私を背に隠して構える近に託すに限る。ここで背に隠してくれるなんて近ちゃん優しい、よっ王子様。なんてからかえば首根っこ掴んで肉壁にされるので余計なことは思考の片隅に収めておく。

 さて、ここは私たちが来た道と進む予定だった道の他、右側に細い通り道がある。いわゆる不格好なT字路だ。当然、どの道にも人が立っている。来た道に二人、進む予定だった道に三人、細い通りに一人。合計六人。

 擦り切れた薄手の衣服から伸びる四肢は骨ばっており、肌は浅黒い。恐らく本来の肌の色ではないだろう。全員、身バレ防止のつもりなのか色褪せた布を顔に巻き付けている。そのようなことをせずとも、余所者の私たちは顔を見たところでどこぞの誰か把握できないのだから無意味に見えるが……この場合、隠そうとしている相手は私たちなのではないかもしれない。


「時に、言葉とは偉大だと私は考えている」

「唐突に何を語りだす気だ」

「思考から言葉が生み出されたのではなく、言葉があるから人間は思考をすることができるのだ」

「それはこの状況に役立てる知識か?」

「いいや、全く。これっぽっちも役立たない。ただの豆知識だよ」

「つまり、今それを話す必要はないってことだな」

「教養がない近に、心優しい私が知識を分け与えたかったという理由があるかな」

「表に出ろ。今すぐ締める」

「既に表に出ているからどうしようもない命令なのだけれど、私はどうしたらいい?」

「黙ればいい」


 艶やかな唇から苛立ちをたっぷりと孕ませた舌打ちが放たれる。空気を読まない質なのは知っているが空気をの読めという圧力が近の背からひしひしと伝わってくる。

 空気は読むものではなく吸うものだから不可能だよ、なんてべったべたな返しをしたいところだがやめておこう。実は言うと近だけなら容易く逃げることができる状況なのよね。

 ここ数年食べ物に困ることなく、タンパク質も脂質もしっかり摂取している近。対して相手は複数人であるが全員が食べ物に飢えており極限までやせ細っている。力比べを行うまでもない。つまり、近一人ならいくらでも強行突破可能ということ。だが、私を連れ出そうとすれば話が変わってくる。

 肉壁にしながらも連れ出してくれるならともかく、私を見捨てて一人で逃げるというのは勘弁していただきたい。揶揄うのにも引き際が大事ということで、伸び切ったジャージの袖で口を隠す。そういえばこの袖、少し前に砂埃を被って錆び付いた看板を拭ったのだった。うっかり深く息を吸い込んだら噎せてしまいそうだから気をつけないと。


「俺たちに何の用だ?」

「…………」

「遊び相手が欲しいなら私たちはやめた方がいいよ。そういうの全然向いていないから」

「…………」


 問いかけに対する返答はない。その態度に近の機嫌は急降下する。形の良い爪が手の平に食い込むように握られ、肩が震えている。近の機嫌につられて周囲の気温も数度下がった気がしたので、ジャージのファスナーを一番上まであげて首を竦める。

 ほんのわずかなやり取りだけで脳血管を破裂させそうな近を横目に面倒なことにならないといいなあ、と。ぼんやり思いながら言葉の偉大さを再確認する。

 思考にもっとも大切なのはその人の感性ではなく言語化するための言葉だと私は考えるが、それは意志の疎通に関しても言えるだろう。第一言語が異なっていたとしても、言葉を伝える手段があるのとないのとでは差が大きい。あと相手がこちらの言葉を受け入れるつもりがあるかないか。

 先程、私が言いたかったのはこの人たちにその言葉が通じるかどうかということだったのだが……近には全く伝わらなかったようね。


「おい、屋根にいるお前。見下ろしてねぇで降りてこい」

「へえ。俺も見つけれたんだ」

「それで隠れているつもりだったのか」


 はんっと鼻で笑い飛ばす。子ども相手に大人げないと思うけれど、近はこう見えても短気なのだ。相手は所詮ガキ。煽るだけ煽って、乗ってきたところを潰そうとか考えているのだろう。近の思惑にまんまと通りに、近に声を投げかけられた子どもは低い屋根から軽快な動きで降りてきた。とっ、と。軽い着地音。私は目を丸くする。

 他の子どもたちと同じように擦り切れた服から伸びる下肢は酷く細い。必要最低限にも満たないエネルギー摂取量だから生きていくことに、ただ身体を動かすだけのことに、使い切ってしまうのだろう。だから余計などころか必要な脂肪もつかない。にも関わらず、子ども。声質から恐らく少年。彼は屋根から飛び降りることをした。ということは、屋根に登ることもできたということ。いくら低い屋根とはいえ、自分の体重を支えることでやっとであろうその細い下肢で。飛び降りたときの衝撃に耐えられている。


「お前ら見かけない顔だ。いや、見慣れない姿だ。観光客か?」

「この国を観光目的で訪れた大人は総じてクズで危険と捉えた方が身のためよ」

「はあ?」

「荒れ果てた国。飢えて痩せこけた民。自分よりも哀れで不幸なものを見て安心する。自分は恵まれているのだと優越感を得る。そういうことを目的にしているわけだからね」

「…………」

「でも安心して。私たちはただの旅人。この国が荒れ果てようと、きみたちが飢えていようと、哀れんで優越感を得るなんてことはしない。最低限の食料を買うこともできたし、早々に出でいくつもりよ」


 少年は随分と偉そうに、私の目線よりも下にある頭で上から物を言ってくる。なので、その偉そうにしている頬に張り手をするがごとく言葉を投げつける。

 近が苛立っているのは前述の通りだが、実は言うと私も結構気が立っている。なぜならば、お目当てのソフトクリームが売っていなのだ。イシアに寄るのであれば絶対にソフトクリームを食べようと心を躍らせていたのに叶えることができなかった悲しみときたらもう。それに加え、散策をしていたからお腹も空いてきた。

 だから、これくらいの八つ当たりは許してほしい。いや、許されるべきね。


「……そんなこと、どうでもいいよ。痛い目みたくなかったら金目のものとその袋を置いていけ」


 だって私たちは今集団に囲われ、カツアゲをされているのだから。言葉の暴力は正当防衛だろう。

 近から大人げないのはどっちだという視線を感じたが知らん顔をする。わざわざ私をチラ見してそのようなことを訴えず、この場から逃げるシミュレーションをしていてほしい。そのための時間稼ぎならばいくらでもしよう。幸いなことに会話を成立させる程度には言葉が通じるらしいし。


「人にものを頼むときはそれなりの態度があるんじゃない?」

「下手に出て物乞いでもすればくれんのかよ」

「そうね……例え土下座をされたとしても、幼子が両手を差し出してねだっても、お断りするわ。私に利益がない」

「冷たいな」

「褒め言葉ね」


 肩を竦めて、笑ってみせる。それが気に障ったようだ。少年は音を立てて歯を軋ませる。

 いいこと、近。煽るというのはこういうことよ。多方面から突き刺してくる、鋭さを増した眼光をどこ吹く風で流しながら近にそう伝える。もしも視線だけで人を射殺すことができるのならば私はこの場で身体中穴だらけになって絶命していたことだろう。しかし、残念なことに視線では人を射殺すことはできない。


「本当、いい性格をしているよな」

「今日はよく褒められる日だこと」

「その上、神経も図太いときたものだ」

「旅人の必需品でしょうが」

「それもそうだ」


 近は視線を落とす。辿った先には赤茶の錆びがこびりついた鉄パイプが転がっていた。なるほど、これが本日の獲物か。ふむ、と頷いてからぐるりと辺りを見渡す。屋根から降りてきた少年を合わせて数え直すと来た道に二人、進む予定だった道に四人、細い通りに一人。とる道は一つしかない。

 買い物袋を持ち直し、乾いた音を鳴らすように両手を合わせる。ねこだまし、にはならないけれど注目を集めるには十分。その一瞬の隙をついて、近は鉄パイプを蹴り上げて炊事に洗濯と水仕事をしているわりに荒れていない綺麗な手で掴む。少年たちがしまったと声を上げたときにはもう遅い。


「本能に従って行動したことを同情するよ」

「なにを」

「私たちにカツアゲをするのであったら私の言葉に惑わされて意識を傾けるべきではなかった。きみたちが恐怖心を抱くほど美しい男から目を逸らすべきではなかった」


 荒事処理を担当している近に集中すべきだったのよ。

 私が呟くと同時に、近は鉄パイプを振るう。どうやら、不意打ちに対応できるほど子どもたちは喧嘩慣れしていないらしい。来た道を塞いでいた子どもたちは小さな悲鳴をあげて身を引く。開けた道を逃す手はない。私と近はリーダー格であろう少年に背を向けて走り出す。


「あ」


 ここで、とても大切な話をしよう。

 これは国語のテストであれば漢字、英語のテストなら英単語の書き取り問題。数学のテストであれば設問一を陣取る単純な計算問題。点数の稼ぎどころ、つまり基礎中の基礎となる情報だ。

 私、萩野は何の変哲もないありふれた凡人である。かの国の作家が書いた児童文学に登場するヒロインみたいだとからかわれた赤毛。残念ながら私は彼女ほどロマンチストでなければお喋りもそこまで好きではないので似ても似つかない。それに、この赤毛も近や笑流の容姿と比べたら何も目立たないし、目を痛めるような赤々しい髪色をしたイオンと並べば印象に残ることもない。そんな私にも特筆すべきものがあった。これに関しては右に出るものはいないだろうと豪語できる。


「んべしっ」

「…………」

「……い、今だ! そいつを捕まえろ!」

「ちょ、ちょっと待って。痛い痛い」


 私は救いようがないくらい運動能力が欠落している。

 近の背中を追って走り出そうとする。ただそれだけ。それだけなのだが、私の足はもつれて転倒した。それも顔から派手に。額に熱が集まる。そっと触れればぺたぺたとした独特の感触がして気持ち悪い。最悪だと溜め息をついていると、二人の子どもが背中に乗ってきた。どれだけ痩せ細っていても人の体重、しかも二人分。重たい。

 これはいけないと抵抗するため、身体を起こそうとする。するとなんということか、子どもたちは私の赤毛を鷲掴みにして引っ張ってきた。酷い。いくら寝癖を放置しているとはいえ髪は女の命と言うではないか。それを鷲掴みにするとはどういう教育を受けているのか。……子どもたちに教育を施す余裕があるとは到底思えないので、そんなこと知らないのかもしれない。

 そのようなことを思いながらも私なりに一生懸命もがいていると背中で好き勝手していた子どもからきゃっと可愛らしい悲鳴があがる。同時に背中の重みが一つ減った。顔を向けて確認すれば鉄パイプの先を子どもの服に引っかけ持ち上げていた。器用なことをすると感心していると、近は持ち上げた子どもをリーダー格の少年へ投げつけた。そして間髪入れずに私の背に乗るもう一人の子どにも同じようなことをする。

 くる、くるりん。錆び付いた鉄パイプをこれほどまでに美しく見せられるのは近くらいだろう。思わず拍手をする。その音に近はいっそう冷めた目をして私を抱える。米俵のように。この間、彼は一言も言葉を発しなかった。どうやら呆れて言葉が出ないらしい。


「近、近ってば」

「走り出そうとした直後にこけるほど間抜けなんだから黙ってろ。次は舌を噛むぞ」

「この姿勢、お腹が痛くなる」

「次はお前が投げられるか?」

「お口にチャックをしておく」


 近の肩が私のお腹を圧迫する。加えて、足場の悪い道を走るせいで揺れが大きく、その都度刺激されるのだから痛いのなんの。不満を訴えれば恐ろしく綺麗な顔で睨んでくるものだから口を閉ざす。

 今の私ができることといえばせいぜい買い物袋に入ったものを潰さないように、こぼさないようにと気をつけるくらいだ。


「ねえ、近」

「口を開くのが早い。それともなんだ、もう追いつかれそうなのか?」

「転がってくるドラム缶を止めるにはどれだけの力を要すると思う?」

「こんなときにまで雑学か」

「そうじゃない。近が追いつかれそうなのかっていう質問に対しての答えだよ。人間じゃなくてドラム缶に追いつかれそう」

「は?」


 重たく激しい音が近づいてくるので顔をあげたら吃驚仰天。大きなドラム缶がその身を絶え間なく回して坂を下ってきていた。でこぼことした道を弾みながら、道中に転がっている大きめの石を踏んで更に激しい音と共に跳ね上がりながら。そして、着地地点にあった物を薙ぎ倒しながら、私たちを追いかける。

 待ち伏せしていた他の仲間が飛び出してくる。それくらいのことなら想定していた。けれど、まさかドラム缶が子どもたちの仲間になっているとは考えてもいなかった。そんなの信じられるかという顔をしていた近だが凄まじい音に頬を引き攣らせていた。振り返りたい衝動を抑え、進行方向に顔を向けたまま手にしている鉄パイプをドラム缶めがけて投げつける。鉄パイプは見事にクリーンヒットした。されど、ドラム缶の歩は緩まず。弾かれた鉄パイプは私たちの横を通り過ぎ、地面に突き刺さる。


「ツナグほどではないけど、誘導上手だね」

「あらかじめ用意されていたってか?」

「あの少年が何も考えず既に三人が塞いでいる道に降りたのではなく、こっちの道の方が手薄で逃げやすいと判断させるために降りたと考えればね」

「そうか。早く打開策を見つけろ」

「あまり勧めない方法なら一つ。トレーラーに戻る」

「道、分かるか?」

「この道、とても入り組んでいるよね。初見で覚えるには地図がいる」

「つまり何も解決してないな」


 初めての土地。地図もなければ標識もない。来た道を辿るだけならまだしも、逃げている間に別の道に入ってしまった。この状況から道を把握するには入り組んだ全ての道を通るか、地図を手に入れるか。そのどちらかをしないと難しい。イオンならば科学で、ツナグならば魔法で、笑流ならば優白の嗅覚で。何かしらの手段があったのだが、残念ながら私たちにはそういうものがない。

 子どもだと甘くみていたけれどまんまと罠にハメられた。ああ、これはお手上げだ。ばんざーい。買い物袋は手放さず、下肢だけを脱力する。ゆらゆら、ぶらんぶらん。近の動きに合わせて下肢が揺れる。そしてうっかり、膝が近の背中に当たってしまった。


「ドラム缶の下敷きにするぞ」

「それは嫌だ。このジャージ、お気に入りなの。これ以上汚したくない」

「だったら思考を止めるな。足を動かせない分、ご自慢の頭を動かせ」

「そんな自慢、一度もしたことないのだけれど。そうね、とりあえずどこかの角で曲がって。ドラム缶は急ブレーキもできなければ曲がることもできない」

「分かった」


 視界の端に映った角を指さす。その先に視線を向けた近は急ブレーキをかけることなく曲がる。その勢いに私の足はコンパスのペンホルダーのように伸びた。靴の先が通り過ぎたドラム缶に掠った気がしたが……気のせいということにしよう。例え、さっきまで白かった靴の先が黒ずんでいたとしても。もう数歩遅れていたら、近が角を曲がるためにスピードを落としていたら。そう考えると背筋が凍りそうなので気のせいということにしよう。

 どんがらがっしゃん。今までの比ではないほどの音がした。恐らくあの先にあった壁にぶつかったのだろう。ふう、危機一髪。と、一息ついたところで頭上から聞き慣れない舌打ちが聞こえてくる。聞き慣れない、というのは近の舌打ちではないということ。では、誰のものか。顔をあげれば例の少年が再び屋根の上から私たちを見下ろしていた。ちょうど、少年の頭が太陽と重なっていて眩しい。目を細め、地上から少年のいる屋根までの高さを目算を立てる。


「この屋根、登ることは可能?」

「低い建物とはいえ、一回の跳躍じゃ無理だ。なんだ、屋根に登ってあのクソガキを仕留めろって?」

「そんな物騒なことを言うつもりはないわよ。ただ、あの飢えを堪えている身体でよく登れたものだと感心しただけ」

「それだけ必死ってことだろ」

「なるほど、火事場の馬鹿力ってやつね」


 時には科学で証明できないものがある。それは人体にも言えるだろう。飢えがもたらす火事場の馬鹿力。きっとそれは私の想像をひょいと飛び越えるほどのもの。

 だから、ああして屋根から飛び降りることができたのだろう。だらか、今こうして私たちを見張るために屋根から屋根へと飛び越えて追いかけることができるのだろう。

 なんとなく観察していると、目深に被った布の下から覗く目と合う。瞳の色とか目の形とか、さすがにそこまでは見えない。ただ、飢えた獣が久方ぶりに見つけた獲物を逃すまいとぎらついていることだけは分かった。


「あの子、ぴったりくっついてくるね」

「そいつを目印に他の奴らが先回りしてるのか」

「あちらには地の利があるからね。素晴らしい連係プレー」


 近が走り始めてどれくらい経ったのか。額から滲む汗が顎を伝って滴り落ちる。

 無理もない。私を抱えながら全力疾走をしているのだから。体重50kgを超えてる私を抱えたまま走れるなと感心するくらいだ。近が本日のMVPだと拍手喝采。

 さてさて。こうしてのんびりと会話をしながら逃げている間もあの少年は私たちを追いかけ続ける。ドラム缶の他にも鉄パイプの雪崩に襲われたり、砂を詰め込んだ袋を投げつけられたり。冗談抜きで、笑えないくらい危ない仕掛けが飛んでくる。そう簡単に諦めないという意思表示なのだろう。観光客ならドラム缶に襲われた時点で心が折れて要求に従っていたかもしれない。残念ながら私たちはこのようなトラブルに慣れた旅人なので折れる心を用意すらしていないのよね。


「そこまでして生きたいものなのか、是非とも聞いてみたい」

「は、何か言ったか?」

「んーん、何も。あ、次の道を右に行って。そうしたら大通りに出るから」

「……おい。お前、なんだかんだで道の把握を」

「全部はしてないよ。ただ、ようやく見覚えのある道に来たってだけ」

「俺の記憶が正しければ通っていない道だぞ」

「近の記憶は正しいよ。私たちが歩いたのは向こうの道だからね」

「つまり、お前が本気で頭を働かせたら脳内で地図を書き起こせたってことだな?」

「否定はしない」

「お前ってやつは! 本当に! そういうところがだな!」


 もう我慢ならないと怒鳴る近。耳元でそう叫ばないでほしい。私の両手は買い物袋を抱えることに精一杯で耳を塞ぐことができないのだから。

 近の怒声を右から左へ聞き流している間も少年はぴったりとくっついてくる。大通りに出てからは密接した建物も少なくなり、さすがに屋根から屋根へ移ることはできなくなっていた様子だったが、それでも追いかけてきた。

 いい加減この鬼ごっこも飽きてきた。あるはずの場所にトレーラーが停まっていなかったせいで延長戦に突入してしまい、近の機嫌は更に悪くなる。どこまでも落ちていく近の機嫌に下限という言葉を教えてあげたい。

 まったく、やれやれ。生理前の女子かと心配したくなるくらい。


「近、お腹でも痛い?」

「急に、これだけ動けばな!」

「それもそうよね。身体が左に傾き始めているし、脾臓が頑張りすぎている証拠ね」


 試しに腹痛の有無を確認したら当然のように痛みを訴えられる。それもそうだ。生理前とかじゃなくても準備体操もなしに人ひとり抱えて走ればそうもなる。けれど、申し訳ない。心配することはいくらでもできるが立場を変わってあげることはできない。できたらそもそも抱えて走ってもらうなんてこともしていない。

 さて、本格的にどうしようか。息を切らしながらも未だ追いかけてくる少年を観察しながら思考する。いっそのこと迎え撃つか。これが一番手っ取り早いのだけれど、後々が面倒なことになる。極力、イシアの民には乱暴をしたくないというのが本音。だからといってこのまま撒くことができるかと聞かれたは、それはほぼほぼ不可能だろう。これだけ罠を仕掛けたりなんなりとしている子たちに地の利で勝てるわけがない。

 ああ、考えすぎて疲れてきた。走らずとも思考しているだけでエネルギーが消費されていくのだから人間の身体とは不便である。もうソフトクリームなんて贅沢なことは言わない。作り置きのおにぎりでもいいから食べたい。


「……近、ストップ」

「いっ、髪を引っ張んな」

「ごめんなさい。やたらと綺麗な髪が視界を占領するものだからつい。それよりも近、朗報よ。私にも驚きと喜びという刺激により反射的に目の前の物を引っ張る、なんて反応ができるみたい」

「お前が運動音痴なのは重々承知しているが、それを朗報と言うほど酷いものだとは思っていなかったな」

「重ねての朗報よ。あれを見て」

「っ、だから髪引っ張んな!」


 視界の端に、本当にほんの僅かに。それだけで意識の全てを持っていかれる、思わず二度見をしてしまう。それくらい刺激的なものが目に付いた。それは私たちが探し求めていたものであり、咄嗟に近の髪を引っ張った。絹糸のように指通りの良い髪は絡まることなく手の平から流れていく。枝毛知らずなんてものじゃない。傷むという言葉そのものを知らないような美しい髪にはさすがに嫉妬してしまう。なので、次こそは逃がすまいと鷲掴みにして近の頭を回すように引っ張る。

 当然、近に怒られる。しかし、その先に一度見たら脳裏に焼き付いて忘れられないような。ビビットカラーなパープルとピンクのマーブル模様。個性と個性の殴り合い。目に痛いカラーリングをした大型キャンピングトレーラーを目にして口と足を止めた。


「なんであんなところに。あれ、本当にイオンのトレーラーか?」

「あんな毒々しくて大きいキャンピングトレーラーを所有したがる奴、世界中探しても一人しかいないでしょ」

「それもそうか」

「私か知りたいのはなぜあのトレーラーがこの国一番であろう屋敷に停まっているかということよ」

「そして、あの派手に割れた窓はなんなんだ」


 持ち主のセンスを疑う大型キャンピングトレーラー。どんな奴が乗っているのだろうと窓を覗きこみたくなるのも仕方がない。窓まで高さがそれなりにあるので背伸びをしても内装を見ることは難しいだろう。中を確認できずとも、あれだけ派手なトレーラーだ。金目の物があるに決まっている。そう考えて手っ取り早い方法を選んだろうと推察する。

 なんて乱暴で単純な思考だろう。ふざけるな、勘弁してくれ。いったいどこのどいつだ、顔を見せてみろ。と、口が悪くなってしまいそうだ。ちなみに、私の推察を聞いた近は一字一句同じ言葉を口にしていた。

 さて、それにしても一つだけ疑問が残る。イオンはトレーラーの強度にも手を加えていたはず。それは窓も同様に、防弾ガラス仕様にしていたような。いったい誰に狙われる想定をしたらそんな重装備にしようと思うのかと首を傾げた覚えがある。それをどうしたら割れるというのか。それこそ誰が割ったのか犯人の顔を見てみたい。


「ところで近、気付いてる?」

「ああ。あのガキ、この屋敷を前にした途端大人しくなったな」

「いわゆる安全地帯ってことなのかしらね。権力万歳」

「全く心がこもっていないな」

「まあ、権力をもってもろくなことにならないという認識が常だからね」


 あれほどまでに執着的に、そして熱烈に追いかけてきた少年の足が止まっている。見慣れたトレーラーが見慣れない場所に停車していることを不思議に思い様子を窺っている私たちなのだから、襲うなら今ほど絶好のチャンスはないというのに。

 少年は私たちを見て、それから屋敷に目をやる。顔に巻き付けている布を押さえ、一歩下がる。私と近は顔を見合わせてからにんまりと笑う。それはもう、イオンが見たらダメな奴らが悪戯を閃きやがったぞ! と悲鳴を上げるような爽やかな笑みを浮かべていたことだろう。

 その顔のまま少年の方に振り返り、私たちはべぇっと舌を出す。


「ざまぁみろ」

「鬼ごっこはきみたちの負け」


 やられた分はやり返す。それが貧困により飢えた子どもだろうと関係ない。一人の人間として扱うのだから特別扱いなんてしてやらない。けれど、物理的にやり返すのはさすがに気が引けるので不愉快な気分になる程度の嫌がらせで済ませる。

 少年は身体を強張らせる。それから一拍置き、忌々しげに舌打ちをする。ということをしているように見えた。それなりに距離が開いているので細かな仕草や音は聞こえない。少年の性格からの予想。というか、追いかけ回していた獲物にこのようなことをされたら誰でも腹は立つだろう。しばらくしてから少年は私たちに背を向け、来た道を戻っていく。


「この屋敷を前にして悪戯ができるほど肝は据わっていないみたい」

「悪戯なんて可愛いものじゃなかっただろ」

「そうかもね。まあ、なんでもいいよ。早く中に入ろう」


 ここが安全地帯なことに間違いはない。そう判断した私はようやく近から降りる。

 ああ、疲れた。刺激を受け続けたお腹を労わるように撫でていると近も清々したとでも言うように肩を回していた。一通り身体を解し終えたところで屋敷の敷地に足を踏み入れる。

 建物の大きさや門と壁の装飾は貧しいイシアにしては豪華なもの。けれど、装飾には砂埃が積もっているし、外壁はところどころ剥がれている。かつては植物を植えられていて美しかったであろう庭も荒れ果てている。

 それでもまあ、他のイシアの民と比べたら豊かな暮らしをしているのだろう。怒りながら修理作業をしているイオンの隣で優雅にティータイムとしゃれこむツナグ。ツナグに巻き込まれたのだろう。向かいに座り、落ち着きのない女性の容姿からそういう印象を抱く。


「……。あっ、萩野。おかえりなさい!」

「ただいま。どうやらそっちも大変な目に遭ったみたいね」

「信じられねえだろ! 二人の帰りを待ってゆったり昼寝でもと思っていたらこれだ」

「そうね、信じられないわ。大人二人もいて笑流一人も守れないの?」


 トレーラーに近付いて真っ先に目についたのは蹲り、砂埃の積もった地面に人差し指を滑らせてお絵描きをしている笑流。その傍らで優白が警戒心と牙を剥き出しにしていた。明らかに様子がおかしい。眉間に皺を寄せて観察をする。否、観察するまでもない。笑流の表情は暗く、気持ちが沈んでいる。その証拠に私たちの帰宅に反応が遅れていた。いつもならば我先にと気付いて駆けつけてくるというのに、だ。そして何より、乱れている。朝一番に私が結わえた笑流の髪型がぐっしゃりと、そして毛先に泥汚れがついている。

 この旅の楽しみである名産巡りもできなかったことに加え、長時間とも短時間とも言い難い微妙な時間に渡る鬼ごっこをさせられた。更には朝早くに私が丁寧に結わえた髪を崩されたとなると腹が立ってくる。八つ当たりがてらそれぞれのことをしている大人たちを睨む。


「まさか窓を割られるとは思っていなくて」

「思っていなくて?」

「飛散した破片に笑流が怪我をして、怒って飛び出した優白を押さえ込んでいたら」

「押さえ込んでいたら?」

「……優白を止めようと出てきた笑流が、こう」

「髪を引っ張られ、捕まりそうになったと?」


 そりゃあ、優白がこうなるのも納得できる。身近にいる大人が笑流を守れず、怪我を負わせただけでなく身を危険に晒したのだから。言葉を選びながら状況を説明するイオンにそのときのことを思い出したのだろう。笑流はほんの少し、目を潤ませる。涙で揺らぐ、オーシャンブルーの瞳。きらきらと煌めいて綺麗だと思う。同時に、そんな暗いあお色にするのは珍しいと腸煮えくりかえる思いになった。

 私が気を立たせているとは珍しい。そう思ったのだろう。近は私から荷物を奪い取り、さっさとトレーラーの中に入っていった。そしてすぐに出てくる。右手にラップフィルムに包まれたおにぎりを持って。ティータイムをしているツナグのスコーン代わり、もしくは修理作業に励むイオンへの差し入れか。前者はともかく後者はありえないなと思っていると、近はそのラップフィルムを剥いだおにぎりを私の口に押し込んできた。


「はひふるの」

「戻ってきて早々、空腹でイライラすんな」

「んん。いつもなら飯より優先すべきことがあるんだよとお預けにするくせに」

「その度に空腹を満たすより優先すべきことはないって不貞腐れるのは誰だ。気が立ったお前は面倒臭いんだ」


 塩加減が絶妙なおにぎりが口腔内に広がる。数度咀嚼をすれば塩分が疲れた身体に染み渡る。ごっくん。咀嚼によって潰れたおにぎりを胃へ送れば腹の虫がほんの少し満足した。次は脳が糖分を求めていると伝えれば調子に乗るな、蜂蜜でも舐めてろと頭を叩かれる。酷い。

 近が持ってきてかれたおにぎりを食べ終えたところて深呼吸を一つ。珍しく立っていた気も幾分か落ち着いてくる。


「ありがとう」

「どういたしまして」

「私が苛立っている根本的な原因が空腹だとよく見抜いたね。自分でも旅を共にする少女が傷けられて怒れるなんて意外だという程度にしか思わなかったのに」

「お前が苛立つときは何かしらの理由があれど、だいたいそれは腹が減って気が短くなってるからだというのは誰しもが知っていることだ。なあ」


 近が笑流に同意を求める。え、素直にお礼を言って感心したらそこまで言われるのと思っていたら笑流は口許に両手の指先を添わせて小さく笑う。そこは否定してほしかったのだけれど、何も言わないということはそういうことなのだろう。そんな認識をされているとは心外だ。まるで私が食欲の塊みたいじゃない。頬を小さく膨らませて抗議をしてみようかと思うが、こういう仕草は可愛らしい笑流や美しさの化身である近がやるから様になるのだと思い直してやめる。代わりに、ツナグの向かいに座りながら未だ一言も発しない女性を観察してみる。

 丁寧な三つ編みに結わえたダークブラウンの髪は天使の輪が浮かぶほど艶やかとまでは言わないが、ハリやコシはありそう。罪悪感の色を孕むアップルグリーンの瞳は外で見かけた人たちに比べると濁りがない。衣服は清潔感が保たれているし、肌触りも良さそうだ。彼女は私の視線に気付くと、小さく口を開き発言しようとする。だが、私にとって彼女は優先順位が低い存在なので気付かなかったことにして笑流に声をかける。


「笑流、とりあえず泥を落そう。そのままにすると髪が傷みそう」

「……はい」

「私も一緒に行くから、ね?」

「本当ですか!」

「ほんとほんと。今日は特別ね」

「やったあ!」


 顔を俯かせ、鉄紺色の瞳に影を落としていた笑流は途端に表情を明るくする。いくらトレーラーに備え付けられたシャワールームとはいえ、見知らぬ人に襲われた直後に一人なることは不安でいっぱいだったということがよく分かる。

 頭を撫でれば、むふふと幸せそうに目を細める。笑流はこうでなくては。つられるように頬を緩め、気持ちが和らぐ。

 笑流の背中を押し、トレーラーの中に入るように促していると優白が笑流の隣にぴったりくっついて移動する。きみも一緒に入るの? などと声をかけてみるが、一瞥もなく無視をされる。いつも通りのことなので特に気にするつもりはないが、さすがに悲しい。わざとらしく落ち込んで見せれば笑流が可愛らしく優白にめっと𠮟っていた。そのやりとりにほっこりしとしたので買い出し中に度々抱いていた不快感を忘れられそうだ。


「と、いうことで。覗いちゃだめよ」

「そんなこと、自殺願望がなきゃしない」

「それもそうね」

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