鯨よりも深く

いいの すけこ

底なんてない

 小さい頃、クジラは空を飛んでいるものだと思っていた。


 絵本の影響だった。

 大きな雲をクジラに見立てているお話だった気もするし、海を泳ぐはずのクジラが本当に青空高く泳ぐ、ファンタジックな物語だったような気もする。

 内容こそはっきり覚えてはいないが、ともかく小さい俺にはクジラは空飛ぶ生き物だった。

 家の近所には海岸だってあるのに、クジラが大洋を泳ぐ姿はなぜか想像しなかった。

 よく幼馴染の元夏もとかと一緒に、絨毯の上に広げた絵本を寝転んで眺めたものだ。クジラと一緒に泳いだつもりになって、絨毯の大海――それは青空の上のつもりだったかもしれないけど――で、すい、すい、と手足をかいて。


「おれ、クジラの泳ぐ空を見つけに行くんだ!」

 幼い俺は、両親に意気揚々と宣言した。

「空の上をクジラが泳いでるの、見たい」

「そう。それは楽しそうだね、大弥おおや

 両親はいかにも微笑ましい、と言った風に笑った気がする。

 きっと本気になんてしていなかった。

 多少子どもに合わせても、全力で夢を見させてくれるような人たちではない。

 あの人たちは現実をひた走る人間だった。


 俺の子ども時代――中学三年の今だって、十分子どもだけど――は勉強漬けの日々だった。

 クジラがどうのこうのと夢見るよりも、勉学に励むことの方が俺のためになると信じている両親の元。

 毎日の塾通いと、自室の勉強机にひたすら向かう日々。

 元夏とは遊ばなくなった。

 勉強の目標は常に高く設定されていた。塾のランクも志望校も、自身の実力より高く見積ってそこを目指していく。

 ひたすらに、勉強に身をささげる日々。

 やり方が正しかったのかどうかは、よくわからない。両親の言いつけも学校の教えも、塾の先生の言うことも、専門書っぽいもののアドバイスもよく実践した方だと思うけれど。


「ねえ、大弥。成績表、どうしてこんなひどいことになってるの。今がどういう時期だか、わかってるの?」

 いつもより一段だけ高い声で、母親は言った。不機嫌な時の口調だ。怒鳴ったり叫んだりしないだけマシな母親ではある。けれど感情が読み取れてしまうなら、神経に障るという意味では一緒だ。

「塾の先生も、もう死ぬ気でやらないとまずいぞって言ってたじゃない」

 母親は続けて言い募った。

 終わらない説教。

 終わらない勉強。競争。

 終わりが見えない、ゴールはない。

「……もうとっくに死んでんだよ」

 死ぬほど勉強した結果。

 高校受験を迎える中三の夏に、俺は完全に潰れたのだった。


(ほんとに死んだりして)

 近所の海岸に、クジラの死骸が流れついたとの話題を耳にした。

 噂が本当であるということは、海岸に着く前から察することができた。風に乗って強烈な生臭さが届いたからだ。おそらくクジラの腐敗臭だろう。

 外出は控えろと天気予報が注意を促す猛暑で、生き物の死骸が綺麗な状態であるわけがない。

 そう思いながら海岸に向かうと、多くの人たちが遠巻きにクジラの死骸を眺めていた。外に出るなという呼びかけも強烈な日差しも、好奇心を前には忘れられるらしい。

 クジラは思ったよりも見られる状態だった。

 肉がボロボロになって中身が見えて、なんて悲惨な状態を想像していたけれど、形はほとんど残っている。

 ただ、それでも哀れだった。

 匂いはやっぱりひどかった。力なく浜辺に横たわる巨体。しわしわとした皮膚。

 

 あのクジラは、空を飛べなかったんだろう。

 唐突にそんなことを想った。

 海を飛び出して、太陽の光を一杯浴びて、海より明るい青色の空へと飛んでいこうとして。

 失敗して、浜辺に墜落してしまった。

(俺も、ああなる)

 俺も空なんか飛べなくて、きっと腐っていく。

 

 クジラも無理して空を目指さなければ良かったんだ。

 海の中で悠々と泳いでいれば。

 俺はきっと、もっとひどい。

 泳ぐこともできず、冷たく真っ暗な海の底に沈んでいくのだろう。


「大弥じゃん、久しぶり」

 思考がそれこそ海底のような深い場所に、沈みかけた。海から引き上げる力があるような声に、我に返る。

「元夏」

「大弥もクジラ、見に来たの?」

 元夏と話すのは小学校の時ぶりだった。おそらく四、五年ぶり。元夏は時間の隔たりなんてなかったかのように、臆することなく自然にしゃべった。

「ああ、まあ、ちょっと」

「可哀想だよね」

「可哀想だな」

 俺はクジラを確かに哀れんでいたので、話を合わせるでもなくそう答えた。

「大弥、クジラ好きだもんね。クジラが空を飛ぶのを見つけるんだって、よく言ってた」

 俺の子どもじみた夢を、元夏は屈託なく口にする。

「飛べねえよ」

 その明るい笑顔に、心がひりついた。

「クジラは海ん中にしかいない。俺だって、海に沈んでくだけだよ」

 乱暴に言った俺の顔を、元夏はまじまじと見つめた。


「そっか、それもありだね!」

「は」

 何を言ってるのかわからなくて、俺は元夏を見つめ返す。

「クジラが海にしかいないなら、大弥も海に入っちゃえばいいもんね」

「はあ?」

「だから、クジラよりも深いとこまで潜っちゃえばいいんだよ。それで、見上げるの」

 そう言って元夏は本当に上を、空を、見上げた。

「自分の頭の上をクジラが泳いでれば、まるでクジラが空を飛んでるみたいに見えるもんね!」

 

 その言葉に、俺は海の中を想像する。

 広い海の、深い場所。冷たくて暗くて、地上が恋しくなる。

 空から差す日を求めて、上を見上げた。

 何とか届いた日の光に青く染まった頭上を、巨大なクジラのシルエットが悠々と泳ぐ。

 まるで、空を飛ぶように。


「発想の転換てやつかな。やっぱり大弥って、あったま良い!」

 発想の転換って。

 空を飛べないなら、海に潜ってしまえなんて。

 なんだその乱暴な考え方。

「……頭いいな、元夏」

「へ? 頭いいのは大弥だって」

 どうやら本気で元夏がそう言うから、思わず笑ってしまった。


「クジラ、どうなっちゃうのかな。海岸に埋めるのかなあ」

「水族館とか、研究機関が引き取るってのもあるみたいだけど」

 クジラはやっぱり、可哀想だけど。

 だけど俺は、まだぎりぎり、腐っちゃいないだろう。

 沈んだところから見える景色だってある。

 まだ底までは沈まない。

 飛びそこなったクジラを目に焼き付けて、俺は空を見上げた。

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