あなたがいれば、何もいらない

黒木メイ

あなたがいれば、何もいらない

「ハナ」


 心地の良いバリトンボイスに名前を呼ばれた気がして、自然と意識が浮上する。

 身動ぎすれば、トサッと何かが落ちた音がした。ソファー下を見ると膝上に置いていた本が転がっている。溜息を吐きながら身体を起こした。手を伸ばそうとして、ピタリと止まる。代わりに骨ばった男らしい手が本を拾いあげ、テーブルの上に置いた。

 礼を言うとカロンが困ったように微笑み、そっと手を伸ばしてきた。抵抗せずに目を閉じる。大きな手が優しくハナの髪を撫でた。数回同じ動作を繰り返し、ようやく乱れた髪がおさまったのか、触れていた手が離れた。ゆっくりと瞼を開く。最近ではもう見慣れてしまった碧眼と目が合う。


「また……ソファーで寝てしまったんだね」

「すみません、本を読んでいたらそのまま……」

「謝る必要はないよ。……でも、もう少し部屋で寝ておいで。顔色があまりよくない」

「すみません」


 また謝ってしまった。慌ててカロンを見れば案の定、困った表情を浮かべている。



 ————————



「君達『ニホンジン』はいつもそうやって謝ってばかりなのかい? それとも、君がそうなだけ?」

 カロンと暮らし始めた最初の頃に一度、戸惑った顔で聞かれたことがある。

 この国の人々は皆思ったことを率直に口にする。良くも悪くも己の気持ちに正直だ。謝るのも本当に自分が悪いと思った時だけ、悪いと思わなければ絶対に謝らない。息をするように謝る癖がついているハナは異端だった。

 この国では珍しい穏やかな気性のカロンでさえ戸惑う程に。



 ————————



 この世界に突然『落ち人』として迷い込んでしまってから二年。ハナは、拾ってくれたのがカロンでよかったと心底感じていた。他の人達と話す機会もあるが、なんだか落ち着かなくて……未だに少し怖い。

 カロンは成人済のハナよりも一回り以上歳が離れている。西洋風の見た目をしていて、体格差は男女差を考えたとしてもまるで大人と子供のようだ。そのせいか、二人が一緒に暮らしていても周囲は何も言わない。


 カロンに念の為、聞いたことがある。『奥さんや彼女はいないのか』と。

 結婚は……していたらしい。ただ、元奥さんは結婚して半年でカロンにつまらない男だと罵声を浴びせ、出ていったという。

 とんでもない話だと思う。

 いつも優しく、物腰の柔らかいカロン。明らかに不審者だったハナに最初から優しくしてくれた人。体格差がありすぎて怖がらせてしまうのではないかと気にしながら手を差し伸べてくれる人。

 そんな素敵な人に惹かれないわけがなかった。


 カロンにとっては娘のような存在としか映ってないことはわかっている。

 でも、もし、この気持ちを受け入れてもらえるのならば……。

 そんな期待を抱きながらも、結局今の心地よい関係を崩す勇気は一欠片もなかった。


「今夜は私が寝ずの番の日なんだ。だから」

「鍵はかけて、誰が来ても絶対に開けるな。ですよね?」

「ああ」

「そのセリフ、もう何十回も聞きましたよ。カロンさん、私は」

「子供じゃない、だったね。すまない」


 そう言いながらも頭を撫でる手。でも、嫌じゃない。むしろ、もっと撫でてほしくてその手に頭を擦り付けた。撫でていた手がピタリと止まる。


「カロンさん?」

「あ、ああ。……そろそろ、行ってくるね」

「はい。気をつけて……」


 立ち上がったカロンに倣ってハナも立ち上がる。いつもカロンが仕事に行く際には玄関まで見送っている。

 心の中で「まるで新婚みたい」、なんて浮かれているのは秘密だ。

 カロンが出て行くと、すぐに鍵をかける。本当は背中が見えなくなるまで見送りたいが、この村は残念ながら治安がいいとは言えない。


 家に女一人だけだと知って襲ってくる輩はいる。その対策として、ハナとカロンの家には特殊な鍵をつけている。ハナを拾った際、カロンが昔のツテを使って、いの一番に手に入れたアイテムだ。鍵に登録している人以外が開けようとすればセキュリティが働き、警報が鳴り響く。解除するまでは扉も窓すらも開かなくなる代物だ。


 ハナはしっかりと戸締りをすると、部屋には戻らずソファーに腰掛けた。

 カロンが寝ずの番をする日はいつも不安でたまらない。もし、夜盗や魔獣が現れたら?


 この世界で初めて魔獣を見た時の事を思い出す。

 大きな狼のような身体に、光る赤い瞳、涎を垂らしてハナを見据えていた。あの時カロンが居合わせなければ、今こうしてハナは生きていないだろう。

 聞けば、カロンは以前王都の騎士団に所属していたという。柔和な普段の様子とは違い、戦っている時のカロンは……正直かっこいい。無表情なのが少し怖いが、冷静に立ち回り、鮮やかに対処する姿にはつい見惚れてしまう。村にいる傭兵達からの信頼も厚く、若い人たちからも慕われている。

 よほどのことがなければ大丈夫だとは思う。でも、それでも不安になる。


 結局ハナは自室に戻ることなく、リビングのソファーの上でうたた寝をしてしまった。



 ————————



 カァァァァァーーーーーーン



 鐘の音で目が覚めた。音は未だに続いている。ドクドクと心臓が鳴る。

 何とか冷静さを保って、連続する音の回数を数えた。


「うそっ」


 魔獣の群れが村へと侵入したという知らせだった。

 落ち着け!

 この音が聞こえるということは少なくともカロンは無事なはず!

 安全が確認できるまで待機!


 頭の中で、何度も言われたことを必死に繰り返し唱える。

 しばらくして、外から村の男達の話し声が聞こえてきた。魔獣の唸り声も遠くで聞こえた気がする。

 叫び声や物が壊れる音も聞こえ始めた。



 再び鐘の音が聞こえてきたのは数時間後。ひとまず危機はさったという合図。ホッとする。もう安全だという知らせが聞こえてくるまでは待機するべきだとはわかっている。けれど、無意識に家を飛び出していた。


 カロンがいるはずの場所まで夢中で走る。

 途中何度も人とぶつかった。転びもした。誰かに声をかけられた気もする。

 ただただカロンの無事な姿が見たくて必死に走った。


 見張り台の下に人だかりができていた。

 嫌な予感がした。まさか。杞憂だ。カロンに限ってそんなことあるわけがない。

 人集りを押し入るようにして身体をねじ込む。

 押しやられた人はしかめっ面をしたが、ハナの顔を見た瞬間いたましそうな顔をして背けた。


 中心にカロンが横たわっていた。見知った顔の若い男がカロンの名を呼びながら薬を飲ませようとしている。

 見張り台から降りてきた、同じく顔見知りの男の人も駆け寄って何かを言っている。

 周囲も頻りに何かを言っている。けれど、そのどれもがハナの耳には雑音でしかなかった。


「カロン!」


 驚く人々を押しのけてカロンに近寄る。カロンを支えている若い男がハナを遠ざけようとしたが、カロンの瞼が開き止めた。

 カロンはいつもと変わらず柔らかくハナに微笑む。


「ハナ。……すまないね。いつかは……と思っていたが、こんなにも早く君を一人にしてしまうことになるなんてっぐ」

「カロンさん! 喋らないでください!」


 若い男が押さえている腹部からは血が流れ続けている。

 カロンの顔からはすでに血色が失われていた。死の気配が近くまできていた。


「邪魔をしないでくれないか」

「っ」


 カロンにはっきりと言われて若い男が口を閉じる。震える手をハナへと伸ばす。ハナはすぐにその手を両手で握った。握り返してきた手に加わる力の弱さに気を取られていたが、カロンに名前を呼ばれてすぐに顔を上げる。


「ハナ。あの家は君の名義にしてある。家の中にあるものも好きなようにしてくれていい。短い間だったけれど、君と暮らした日々はとても幸せだった。ありがとう。これからの君の人生が幸福で溢れていますように……そう願っているよ」


 穏やかに笑うカロン。まるで死に際の言葉。

 そんなの、あまりにも、あまりにも……

 ハナの視界は涙で歪んでいて、カロンの笑顔もよく見えない。

 ギリッと奥歯を噛んだ。手を離し、勢いのまま、カロンの頬を両手で挟んだ。


「ばっかじゃないですか!?」


 周囲にいる皆が、若い男が、カロンが、いつにない様子のハナに呆気に取られる。そんなことは気にも留めずハナは叫ぶ。


「何が幸せに、ですか! カロンさんが! 好きな人がいないのにどうして私が幸せになれると思っているんですか! 死なせませんから! 絶対に死なせてなんてやらないんだから!」


 叫び切ると勢い良くカロンの唇を奪った。ガチッと勢いよく歯がぶつかって痛みが走る。少々、いや、だいぶ色気も何も無い口付け告白だが、ハナは必死だった。

 己の中にあるに念じる。

 治れ! 治れ! 治れ!

 ごっそりと身体からナニカが奪われたのを感じた。


「嘘だろっ」


 カロンを支えていた若い男が驚愕の声を上げる。

 倦怠感を覚えながらも、カロンから離れて全身を確認すれば、服はボロボロ、顔色は未だ悪い、だが傷口が塞がっているのが見て取れた。


 安堵しつつもずっと自分の力について黙っていた気まずさにそろりと顔を上げると、顔を真っ赤にして口元を手で覆っているカロンと目が合った。我に返ったハナの顔も一気に真っ赤に染まる。

 慌てて離れようとしたが、先程まで瀕死だった人とは思えない強さで腕を引かれ、カロンの腕の中に囚われた。心音が聴こえる。————生きている。

 溢れそうになった涙を隠すようにして、心音が聴こえるそこに顔を寄せた。

 周りで歓声が上がっていたが気にもならなかった。



 ————————



「カロンさん本当にいいんですか?」

「ああ。ハナこそようやく慣れてきただろうに、嫌じゃない?」

「まさか! 私はカロンさんとゆっくり二人でイチャイチャできるのなら、どこでもかまいません!」

「いちゃっ?! ごほっ! んん、そうだね。……私ももう君を手放すことはできそうにないから」

「望むところです。むしろ……覚悟していてくださいね!」

「ふふふ。ハナには敵わないなぁ。……それじゃあ、行こうか」

「はい」


 カロンが差し出した手に己の手を重ねて歩き始める。

 ようやく慣れてきた村が次第に遠ざかっていく。後悔は全くない。


 ハナの噂を聞きつけたお偉方が王都から来ると報せがあったのは数日前。その人についていけば将来は安泰だとカロンは困った表情で告げた。そんなものはいらないと鼻で笑ったのはハナだ。カロンは一瞬面食らった顔をして、「随分ハナもこっちの世界に染まったね」と笑った。「カロンさんにだけは遠慮しないことにしたんです」と不敵に笑うハナに、カロンはそっと口付けを落として言った。


「二人でこの村を出ようか」

「はい」


 顔を真っ赤にしてハナは二つ返事で頷き返した。


 称号も、栄誉も、豪勢な生活も、煌びやかな王子様との出会いもいらない。

 

 カロンさんがいれば、私はそれでいい。

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