第4話 どうか……。

 遂に、花火大会の日がやって来た。

 渚は、あの日買った髪飾りを着けて行くのだろうか。勇志と二人で、どんな話をするんだろうか。


(……朝陽は、彼女と……二人で、………)


 暮れていく空に、電気も点けないでいる。いつの間に、こんなに時間が流れてしまったのだろうか。

 暗がりに、思考回路もどんどん駄目な方へ行ってしまいそうだった。叱咤するつもりで両頬を叩く。

 パチン!ーーー乾いた音が、他に誰もいない部屋に響く。ヒリヒリと、地味に痛い。


(何の為に、勇志を傷付けたんだ……しっかりしろ、私)


「花火大会の日に。ちょっと彼と、話をして来る」ーーーそう告げると、渚と勇志はハッと息を飲んで、それから、ゆっくりと頷いてくれた。私を安心させる為に笑顔を見せて、「行ってこい」と言う。二人とも、私がどんな決断をしたのか訊かなかった。


 今。


 私の決断なんて素知らぬ顔で、結論を急いだ彼が、目の前で視線を伏せている。

 存外に長い睫が、物憂げに揺れる。

 突然の切り出しに、面喰らって言葉を詰まらせてしまったけれど、じわじわと沸いたのは、怒りだった。


「私はっ! そんな話をっ! する為に来たんじゃないッ……!」


 こいつ、どんだけ自分勝手なのっ?!

 キレて良し。と、心の中のリトル咲桜が許可を下した。その後ろで、渚と勇志がうんうんと頷いて同意してくれた。


「あの日も突然帰るし! その後に音信不通になるし! 何の説明も言い訳もして来ないし! 既読はつかないし! 何なの? 何がしたいのっ?! 私が、会いに来なければ、このままで良いと思ってたのッ?!」

「……」


 感情のままに声を荒げると、相手は丸めた目で私を見ていた。ポカリと間抜けに開いた口。まさか、私が怒鳴るなんて思っていなかったんだろう。そうだろうね、私も。まさか、自分がこんなに彼に腹を立てるなんてのは、思ってもみなかった。誰かに向かって怒鳴ったことも、恐らく、初めてだった。


「なんで何にも話してくれないの? なんで一人で完結させるの? なんでそうやって、私の気持ちを決めつけるのっ?」

「………」


 彼は未だに目を丸め、日本語を忘れてしまったかのように、ただ、私の叫びを聞いていた。


「自分が一番辛いような顔をして、そんなの、身勝手だって自覚してよっ!」


 これは違う。八つ当たりだ。

 勇志の顔が浮かんでしまった。彼を傷付けたことに、傷付く資格なんて無いのに、身勝手に傷付いて……あまつさえ、そんな彼の前で泣いてしまった。最低の行いだ。この言葉は、目の前の彼に向けるべき言葉ではなかった。本当にただの、八つ当たりだ。


「……ごめんなさい」

「……………わたしも、……ごめん。言い過ぎた……」


 夏にしては冷たい風が肌を撫でた。ぎゅっと、身を固くして、視線を伏せる。

 沢山、シュミレーションをした。けど、現実はやっぱり、イメージした通りには行かない。

 ふぅ、と息を吐き、心を整える。


「話を、しようよ。もっとゆっくり。一つずつ」


 静かな声で、軌道修正する。

 彼の顔を見て、そっと笑った。「ねぇ。何を考えていたの? 一つずつ、教えてよ」頼り無い笑いになっていたと思う。とても、渚達が背中を押してくれたあの日の彼らのように、誰かに安心感を与えるような笑みからはきっと程遠い。

 

 なんで私から逃げていたの?

 なんで弁解をしないの?

 なんで、あの日ーーーー嘘をついたの?



「………貴女が、好きだから」



ーーーそれはきっと初めての、ちゃんとした告白だった。

 彼の目に映る私は、不安定に揺れる。彼の瞳に過分に含まれ始めた水分のせい。苦痛に歪んだ目をして、それなのにしっかりと私の姿を捉えて逸らさない。とても感情の籠った瞳だった。


「貴女を、俺のものにしたかった」


 震える声を、闇が包む。

 溶けていくようだ。水面に雨が落ちるように、私の心を優しく揺らし、広がっていく。

 遠くでぱちゃりと音がした。何処かで魚が跳ねたのかもしれない。「でも、違った」と彼は紡ぐ。


「貴女は、誰のものでもない。何処までも、自由なのが良いんだ。そんな貴女で、そんな貴女なのに、俺を選んで、俺の傍で、笑っていて欲しい。俺の傍に居ることを選んで欲しい。貴女のものがいい。俺が、貴女のものになりたい。そうして初めて、俺は生まれてきた意味を持つから」


 ポツポツと降り注ぐ言葉の雨。

 ほら、こんなにも。心を揺らし、胸を打つ。浸透し、私の一部になる。

 彼の、一語一句を聞き逃してはいけない。私はひたすら、彼のことを見ていた。必死に、苦しそうに泣き出しそうに、紡ぐ。その言葉の一つ一つ。音が出る前のその瞬間一つ、取り零してはいけない。


「好きです……。好きなんです……。どうしようもなく。愚かな程に。滑稽なまでに。俺は、どうしようもなく、貴女のことが好きなんだ……」


 真っ直ぐ私を見ていた彼は、そう訴えるともう堪らなかったのだろう。両手で顔を覆い、押し黙った。その様子に、ぎゅう、と胸が締め付けられる。なんで、と思う。なんで、君は、そんなにもーーー…遠山咲桜わたしなの。


「……居なく、ならないで……」


 指先から漏れた、か細い、声。

 まるで、子供のような。

ーーーーー…私、は……。

 抱き締めて、包み込んでしまいたい衝動をぐっと耐えた。握った拳の中で、爪が食い込む。


「私は、……君の知る、『咲桜』で合ってるの……?」


 今度は私が紡ぐ番だ。心の内を。想いを。ありのままに、訴える番だった。彼が、覆っていたその大きな手から顔を上げる。暗がりでもわかる程、目が赤い。ずきり、と胸が痛む。


「私は、君が私のことを好きになってくれた瞬間のことを知らない。出会った日のことを知らない。過ごした日々のことを、まるで、覚えていない。同じ記憶をなぞれない。過去の君を、懐かしんだり出来ない」


 永遠に付き纏うその問題。不安。私は私だけど、それが、貴方の求めている遠山咲桜わたしで合っているのかと言う、疑念。

 だってそれはもう、幻だ。かつて、私であったもの。ーーー私はそう、解釈する。もう、私の記憶から離れてしまった。君が大切にしている記憶の中と、今の私が、同じとは限らない。同じ場面に於いて、同じ行動、同じ言葉を紡ぐかなんて不確かだ。


「君が好きになった遠山咲桜はもう居ない。私は、彼女の顔をした、別の遠山咲桜なんだ」


 ズキリズキリと痛む心。

 申し訳無いと思う気持ち。以前にも、味わったことがある。それよりも、一層深い。


「貴女は変わらず、俺のよく知る咲桜さんですよ」


 この闇に。まるで、流れ星のように。

 一筋の光が、降り落ちる。

 でもそれは、決して届くことが無い事を知っている。だから、恋い焦がれる。眩しく光る。私は、知っている。


「………嘘だよ、……だって、私は……どうしようもなく、まだ、……彼のことが、…朝陽のことが、好きなんだ………」


 ほらまた。

 身勝手に、溢れる涙。

 今泣いてはいけない。辛いのは、私じゃない。私は傷付ける側であって、泣いていい方ではない。

 それなのに、「ほら」と彼は、笑った。苦痛に歪んでいるくせ、優しい顔をして。


「そんなところまで……俺のよく知る、遠山咲桜さん。貴女の、ままだ」


 ズキリ。

 一層、胸の奥深くに刺さる。彼はきっと、この何百倍も、深い傷を負っているのに。


「思い出してくれなくていい。……いや、思い出せるのなら、そりゃ、思い出して欲しい……。どうしようもなく、馬鹿で、生意気で、からっぽで。生きることに絶望していて、死にたいと思ってて、だけど、本当は、それ程に生きていきたいと思っていた。誰かに、必要とされたいと思っていた、そんな、俺のことを」


「貴女が見付けてくれた。ほっとかないで居てくれた、そんな、俺のことを」ーーー彼は、片腕でぐっと自身の身を抱いた。

 そんな彼の言葉を、まるで他人事のように聞くしかない私は、やっぱり、彼の焦がれる『咲桜さん』で良いのかわからない。

 それでも、朝陽が死んだかもしれないと思ったあの日、衝動的に浮かんだ別の人の顔は、この、目の前に立つ彼の顔ーーーだったようにも思う。

 “死”と彼が、リンクしてしまったのかもしれない。

 私の知る彼、一之瀬朔也は、決して死にたがりでは無かった。そんな空気を纏った彼を、私は知らない。


「……例えば、コンビニへお昼ご飯を買いに行こうとして。その道筋に、線路に寝っ転がって空を眺めている中学生が居たら、どうします?」

「えっ? あ、それは、勿論、声をかけるよ。『そんなところにいたら、危ないよ』って」


 死にたいの?ーーー無遠慮に、そう訊くかもしれない。その返答に、どんな責任も持てないのに。ただ、目の前の人を殺してはいけないと、必死の気持ちを隠して、寄り添おうとするだろう。例えば、


「もしかしたら、一緒に、その線路に寝っ転がって、話を聞くかも知れない……。一緒に死ぬ為じゃなくて、なんとか、その日その人が死ぬことが無いように……」


 この質問は、きっと彼の思い付きではない。

 私達はきっと、そうして出会ったのだろう。だけど私の回答は、『正解』だっただろうか……。

 彼は、笑う。寂しそうに。懐かしそうに。


「今の貴女とまた、『初めまして』で出会ったって、きっと、俺はまた、貴女に恋をしたよ」


 確信。

 彼の瞳の中は、もう不安そうに揺れてはいなかった。

 その頬を伝う涙を、隠そうともしなかった。


「………貴女が好きです。返事をどうか、聞かせて下さい」


 ズキン。

 ズキンズキンと、思い出したように痛む胸。

「朝陽のことが好き」と言った記憶が新しい。それでも、彼が求めた、その結論を。私が、無下にしてはいけない。


「ごめんなさい」


『……貴女も。そう言いに来たんでしょう?』ーーー数十分程前、彼が言い放った言葉が、脳の中を木霊する。『そんな話をしに来たんじゃない』堪らず、言ってしまったのは、結局、嘘にしてしまう言葉。観念する。

 そうなんだよ。違いない。君から話を聞いて、私の想いをちゃんと伝えて、ちゃんと、私から「さようなら」を言いに来たのだ。

 振る為に、告白させたようなもの。

 これで私達、ちゃんと進めるでしょう?ーーーなんて、そこまで身勝手なことは思わない。ただ、


(………今の私は、君の気持ちに応えられない。でも、君のことを心から好きだった気持ちも、私の中にちゃんとあって。……だから、ごめん。君を………私は、朔也を、失いたくは無い………)


 それくらいには、身勝手だ。

 赦されるだろうか。私は彼のことを身勝手だと罵ったのに。そんな権利、何処にも無かった。本当に何処までも、残酷で卑怯だ。


 私は、朝陽が好きだ。


 でも、じゃあ、目の前のこの、寂しそうに笑う彼のことを想うと胸が痛むのは、何?ーーーただの、罪悪感?

 彼を抱き締めてしまいたいと想うこの気持ちは?

 彼がベランダを覗いて目が合った時、高鳴った胸は何の為?

 今、愛おしいと想うのは、苦しいと想うのは、何故?

 今年の夏。それから、その先の、秋。冬。それからまた、春。ーーーまた次の一年。春夏秋冬と、巡らせた想いの中に、必ず彼の姿があった。私の想い描いた未来の先には、必ず、私の隣に彼が居た。


 そんな未来に、辿り着きたい。


 愛されたいとか愛したいとか、そういう想いとは違うのかもしれない。これは、恋と呼ぶ感情では無いのかもしれない。でも、どうしても、手放したくないのだ。離れたくないのだ。

「元彼」とか、「元彼だった後輩」とか「元彼だった知人」とか、彼を、過去の人にしたくない。どの関係性も、どの名前も、しっくりと来ない。正しくない。どれもきっと、違う。当て嵌めたくない。





ーーーーどうか、この想いに、名前をつけないで。






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どうか、『名前』をつけないで。 将平(或いは、夢羽) @mai_megumi

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