第8話  一之瀬 朔也ー1ー


 幼馴染みには、ああは言ったものの。

 実際、どうしていいかわからない。

 気まずくて避けてしまった。否、自分のことだけ思い出して貰えないのが辛い。……否、本当は、分かってる。怖いんだ。

 俺は、先輩に会うのが、怖い。

 始まっていなかった関係を偽造して、キスまでしてしまった。気持ち悪がられていないはずがない。もう、会わせる顔がない。だけど、自分から関係を切ることも出来ないし、切られるのも怖くて。こうして、逃げ回っている。

 情けない。カッコ悪い。

 思えば、どんな覚悟もしていなかった。あの日。

 ただ、自分の事しか考えていなかった。それに、こんなに長い間記憶を失っているとは思わなかったから。本当に、一時的なものだと思っていたから。嘘がばれても、「あ、思い出しちゃいました?」なんてそんな気軽に笑ってしまおうかと思っていた。それなのにーーー…。


 約一年、愛されてしまった。


 それはきっと、自惚れではない。だって、初めてのキスは先輩からだった。

 今更、「思い出しちゃいました?」なんて笑えるわけがない。手放せるわけが無い。簡単に、謝ってしまえるわけがない。何より、


(………なんで、俺とのことだけ、思い出してくれないの……)


 まだ、出会った頃の、あの日々の記憶さえあれば。「あの時の、死にたがりです」なんて或いは、思い出話にすり替えることだってーーーー否、


(この期に及んで、逃げることばかり考え過ぎ………)


 ほんと、だせぇ。死にたい。今程、本気で死にたいと思ったことはないかもしれない。会わせる顔が無い、死にたい。

 貴女の傍でなら、生きていけると思った。


『私、こうやってどんどん、朔也無しでは生きられない人間になっていくんだろうなぁ…』


 あの日の、あのカフェでの会話。

 そんなの、こちらの台詞だった。ほんと、貴女無しで生きていけないのは俺の方。

 貴女は酸素だ。水だ。栄養だ。太陽だ。生きていく為に必要な、全て。俺の、全て。

 我ながら本当に気持ち悪いと思う。

 一人の人間に、こんなにも依存する。……しかも、騙して、キスまでして、さぁ……。

 でも。

 どうしても、貴女が欲しかったのだ。俺の隣に居て欲しかった。傷付いた貴女を支えるのは、俺でありたかった。


(……ああ、くそ。傲慢……自己中……短絡的、ガキ……)


 暗い部屋の中で悶々と考えていると、不意に電気が点いた。


「……おいこら、ノックくらいしろよ」

「したけど?」


 そこに居るのが当然の顔をして、黒髪のポニーテールを揺らす幼馴染みー律ーに、俺は半眼で睨みを寄越す。

 律は特にそれに怯んだりすること無く、俺が寝ていたベッドの上に腰掛ける。スプリングが新たな人間の体重に軋む。


「……いつまでそうしてるの? ヘタレで、きっしょ」

「……うっせぇわ」


 寝かせていた体を起こし、座る。律はこちらを見ずに、部屋の隅を見ながら言葉を続ける。「あたし、告白をしようかと思ってるんだよね……」その横顔は気迫のようなものに満ちていて、直ぐに返す言葉を紡げない。


「…………えっ、と……。何、お前、ガチだったの……?」


 確かに先輩は美しい。可愛い。愛らしい。

 密かに想いを寄せている輩も多く居るだろう。今は俺と言うイケメン彼氏がいるので近付いては来ないが、その想いを燻られている人は多いはずだ。それでも、まさか本当に、この幼馴染がそういう気持ちで先輩の事を語っていると思わなかった。同性の憧れ、的な気持ちでいつも、「ここにいるのが先輩だったらいいのに」と語っていたのだと思った。


「……誰が咲桜先輩だって言った?」

「え? 違うの?」


 誰?と当たり前の流れで訊いてしまう。言って、しんと暫く静寂が降りて、なんだか居心地が悪かった。「あ、やっぱ今の」無し、と言ってしまうまでの間に、律はぐっと唇を噛むと、こちらを振り返る。


「……お前」

「ん?」

「だから、お前」

「……ん?」


 脳が処理しない。

 俺はアホみたいに、何が俺?と目を丸めてしまう。それに、律は眉毛を吊り上げて、胸ぐらを掴みそうな勢いで「だからっ! あたしが好きなのは、お前だって言ってんの!」なんて、乱暴な告白をした。


「………………………え?」


 制止。

 静寂。

 そんな、まさか。

 未だに脳みそが処理をしきれずに、フリーズしたままだ。そんな俺に、律は何処か吹っ切れた顔をして笑った。


「お前が、もし、振られるようなことがあったら……慰めてやってもいいよ」


 え、と……。

 吹っ切れた顔をして笑っていたくせ、急にその瞳の水分量が多くなる。潤んだ幼馴染のそれを見て、流石に、頭が冷える。


「あ、………ごめん、な。ありがと」


 言わせてしまったんだな、と思った。

 煮え切らない俺の背中を押そうしてくれた。

 振られるなんてのは百も承知で、それなのに、律はこんな風に、想いを告げてくれた。


「…………『ありがとう』なんて言って貰えるような感情じゃないよ………そんな、いいものじゃ、無い……」


 もう溢れそうなくらいの水分を、溢さないよう堪えて、無理して笑おうとする。震える声で、彼女は言う。「この気持ちに気が付いてしまったら、もう、言わずには居れなくて……」俺の先ほどの考えを汲み取って、優しさからではなく、自分本意な告白なんだと告げる。


「……自分本意じゃない告白なんて、無いとは思うけど……」

 

 言うなり、すく、と律は立ち上がり、こちらに背を向けている間にそれを拭う。

 ポニーテールを揺らして振り向いた彼女は、やっぱり笑っていた。ニッて擬態語が似合う。よく、イタズラしたり近所を駆け回った時に見せていた、あの、悪ガキみたいな笑顔。よく知る、幼馴染の、笑顔。


「さっさと振られて、前に進めよ、イケメンの無駄遣い野郎」

「………ふ、られ、……ねーし……」


 綺麗だな、と。

 初めて、幼馴染の顔を見て、そんな感想を抱いた。

 俺の強がりに笑って、部屋を出ていく。「それじゃ、また夕飯に」なんて、今の事を気にせずにこれからも接するから、と暗に語って。

 また訪れた静寂に、俺は言葉を持たなかった。







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