第8話 貴女に“嘘”を付いた日

 “後峠 朝陽ごとうげはるき”と書かれたプレートの部屋をスルーして、“遠山 咲桜”と書かれたプレート部屋の扉をノックした。

 返事がない。そっと、隙間を開けて中を窺う。

 まだ意識が戻っていないのだろうか……?わからない。

 誰も居ないことを確認し、部屋の中へと体を滑り込ませた。顔の見える位置まで来ると、目を閉じた美しい顔がそこにあった。

 まるで生気を失った作り物のようなその顔に、息を飲んでしまう。けれど、彼女の体から延びる沢山の線の先のモニターから、彼女が生きていることを確認した。

 まだ、意識は戻っていないのか。

 それとも、寝ているのだろうか。

 そっと、彼女の手を取り、両手で握った。額に当て、祈る。


「………目を、覚まして……下さい」


 カミサマって奴は、本当に居るのだろうか。

 タイミング良く、咲桜さんは、そうっと目を開けた。

 ぼんやりと開いた目を少しだけ瞬きさせた後、静かにこちらを向く。


「…………よかった」


 込み上げてくる感情に、涙が落ちてしまうのを見られたくなくて、もう一度、その手を額に当てて俯いた。

 しかし、続く言葉に絶句し、顔を上げることになる。


「貴方は、誰?」

「え?」


 まさか。

 ……俺を覚えていない?

 そんなことが、あるだろうか?

 記憶が混乱している? 一時的なもの?

 先程とは違う感情から、涙が出てしまいそうになるのを、ぐっと堪えた。「俺の事、忘れちゃったんですか…?」それでも、その声は頼り無く震えていた。


「………ごめんなさい、私、………あの、此処は……」


 彼女は混乱と警戒の色を濃くさせた。

 きょろきょろと辺りを確認して、自分が何処に居るのかを理解したようだったが、何故自分が病院に居るのかは理解できて居ないようだった。


「…………大丈夫ですよ。何も、覚えていなくても」


 俺は多分、笑った。……上手く、笑えていたか定かではない。安心させてあげられるように、優しく笑えていたらいいなと思う。


「貴女が思い出すまで、俺が、貴女の新しい記憶になるから」

「………貴方は……誰、……なんですか?」


 不安げに揺れる瞳。

 泣きそう。ダメだ、笑え。上手く紡げ。騙せ。大丈夫。この世界は、沢山の嘘に溢れているから。上手に紛れさせることが、きっと出来る。俺なら、きっと、出来る。沢山の嘘に触れてきた、俺なら。きっと、出来る。


「貴女の、ーーー…咲桜先輩の、彼氏です」


 優しい嘘と言うものがあるだろうか。

 それは、俺にとって都合の良い、嘘だった。

 全然、『優しさ』では無かった。けれど、でも。


 貴女の『特別』に、なれた日。

 貴女がこの嘘に救われたのだと、信じたい。


 俺が初めて、嘘だらけのこの世界に、救われたのと同じように。










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