第4話

 それから二週間が経ち、新学期が始まるちょうど前の日に祖父が千佳の家にやってきて、磨き終えた石をプレゼントしてくれた。

 その日は休日で父も母も家にいて久しぶりにやってきた祖父を歓待した。一通り世間話を済ませると、祖父は持ってきた風呂敷の中からセーム革の包みを取り出し、そこから慎重に石を取り出した。

「これを千佳に渡そうと思ってな・・・」

 祖父の言葉に

「まあ、きれい」

 母が華やいだ声を上げたが、千佳は声も上げずに石に見とれていた。祖父の家で見た時はくすんだ平凡な石に見えたけど、今見れば鮮やかな銀の縁どりに深い緑が自分を吸い込むようにさえ思える。それと同時にこれを見たことがあるという思いは確信的なまでに強まった。

「ほんとにきれいですね」

 父は義父に向かって頭を下げた。

「こんなものを千佳が貰って宜しいのでしょうか?」

「うん、手伝ってくれたお礼だからね」

 祖父はなんだか嬉しそうだった。

「しかし、磨くのにも随分とお金がかかったのでは?」

 義理堅い父はその事を気にしているようだった。

「いや、研磨師に知り合いがいてね。ほとんどタダ同然だ」

 祖父は気にするなとでも言うように手を振り、それが父を安心させた。

「でも、ほんときれい」

 千佳の横で食い入るように翡翠を眺めていた母の言葉に、

「ママにはあげないからね」

 千佳は先手を打った。

「あら、ブローチにすればとってもいいのに。こういう大きめの石はお母さんのような年齢に似合うのよ」

「だーめ」

 千佳はさっさと石を取り上げるとセーム革にしまって、母の目から隠した。

「じゃあ、お父さんにねだろうかしら」

 諦めきらないように母は呟いた。

「え?」

 思わぬところから飛んできたとばっちりに身を固くした父親に、

「だって、あなたったら結婚してからと云うものの宝石なんてちっとも買ってくれないし」

 と母親は恨みがましい目をした。

「そんなことを言うもんじゃないぞ。和夫君はちゃんと働いて、千佳と龍彦の二人を立派に育てておる。夫婦にとって宝石とはちゃんと育った子供なのだから」

 重々し気にそう言った義父の助けに、

「そうですよね。千佳も龍彦も健康だし、立派に育っているじゃないか」

 父はすがりついた。

「え、宝石?千佳が?」

 納得のいかない顔で自分を見詰めた母親に、千佳はベーッと舌を出した。

「そうだもう一つの宝石に、龍彦君に誕生日祝いに約束したものを買って来たのだが・・・」

そう言って祖父は風呂敷からもう一つの荷物を取り出した。

「たしか、明後日が誕生日だろう」

「すいません。お気遣いいただいて」

 父はぺこりとまた頭を下げた。

「今日はいないのか、龍彦君は」

 あたりを見回した祖父に、

「もう、すぐに遊びに行っちゃうから、あっちの宝石は」

 母は愚痴を言った。


 祖父が帰ると、千佳は二階の自分の部屋へ上がった。椅子に座りじっと翡翠を眺める。確かにこれを見たことがある。でもいったいどこで?手の中で重みを確かめたとき、僅かに翡翠が傾き、窓から射し込んだ光を受けて輝いた。記憶の糸が少し引かれたように思えた。そう、確かにこれは誰かから貰ったものだ。でも、なぜか悲しいことがあったような気がする。いったい、どうしてそんなことを思うのだろう。暫くそうして時間を過ごしていると、下から帰って来た弟の声がした。

「ねえちゃん、おやつだよ」

 うーん、と一つため息をつくと千佳は立ち上がった。


「おじいちゃんが持ってきてくれたんだって」

 メロンの皮にしゃぶりつきながら龍彦が言った。まだ甘いところが残っていないか、と考えたのだろうけど、そうでもなかったらしく残念そうな顔をして薄くなった皮を皿に置いた。千佳の家では様々な農作物を作っているがメロンは作っていない。

「そうだったの。じゃあ、おじいちゃんがいる時に食べちゃえばよかった」

「え、僕抜きで?」

 龍彦は姉を見た。

「うん、君抜きで。タツはゲームもらったんでしょ?」

 と尋ねると、うん、と嬉しそうに返事はしたものの、

「姉ちゃんひどいなぁ。じいちゃんは僕が帰ってきてから食べなさいって言っていたらしいよ。僕がメロン好きな事を知っているから、おじいちゃんの分も僕にあげるって。だいたい姉ちゃんだってじいちゃんから貰ったんだろ?」

 弟がぶつくさいいながら、自分の置いたメロンの皮まで恨めしそうに見た。

「うちでもメロン作ればいいのに・・・」

「じゃあ、あんたが大きくなったらうちをついでメロン作ればいいじゃない」

 そう千佳が言うと、

「あ・・・。どうかなぁ」

 弟は農家を継ぐという事とメロンとを天秤にかけて悩ましそうな顔をした。


 そのテーブルの向こう側では父と母がまだ、宝石の事で軽く言い合いをしていた。

「だって、結婚指輪いらい何もくれていないじゃない?」

「だって、さあ。小遣いが・・・」

「あなたの釣り道具、一竿ひとさお我慢すれば買えるんじゃないかしら」

「ええ?あれだって小遣いを三年かけてためてやっと買ったんだよ」

 父は心外そうな顔をした。

「その小遣いを私のために使うっていう考えはないのかしらねぇ。結局、何が大事なのかっていうのはお金の使い道で分かるものなのよね。あなたにとって私は魚以下ってことなの?」

「・・・」

 父と母の言い争いはたいてい父の負けだ。

「じゃあさ、」

 と千佳は言った。

「宝石、もう一つってことじゃどう?」

「え?」

 父と母が同時に千佳を見た。

「あたしは女の子がいいなぁ」

 一瞬きょとんとしていた親たちは同時に、

「何を言っているんだ」

「千佳ったら」

 と声を上げた。

「なんのこと?」

 龍彦が尋ねた。

「・・・。何でもないわよ」

 満更でもなさそうな顔で母親は弟に言ったが父親は、

「あんがい、それが一番金がかかるんだよなぁ。これ以上小遣い減らされちゃ、たまらないよ」

 と正直に頭を搔いた。


 翌日は始業式だった。二年生はクラス替えが行われ、進路希望をもとに文系・理系を反映したクラス編成が発表された。

「チカぁ」

 学校へ着くと中学の時からの親友の中西香奈が、掲示板のところで手を振っていた。

「同じクラスだった。良かったよぉ」

「ほんと?」

 千佳の選択した進路は進学文系、クラスは二つになる見込みだったから、一緒になれる確率は50%だったけど、まるで宝くじにでもあたったかのように二人は喜び合った。

「あとは、、、っと」

 抱き合って喜びを伝え合うと、千佳はクラスのメンバーを確認した。その中に佐地修介の名前があった。

「あれ?」

「うん」

 香奈が千佳の視線の先を見て頷いた。

「そうなの、佐地君、文系なんだって。てっきり理系志望だと思ってたけど」

「そうよねぇ」

 千佳が佐地修介と争っても全く勝ち目のない科目は数学だった。他の科目は時折、千佳が上回ることがあっても数学だけは無理だった。というより完敗だった。佐地修介は数学は常に満点で、数学教師の一人がそれをなんとかしようと、一度だけ極端に難しい問題を二学期の中間試験に出した。時間切れで、その時だけは佐地修介は90点だったけど、巻き込まれた他の生徒の平均点は50点を割り、赤点が続出した。さすがにそれはまずいという事でそれ以来、佐地修介の満点は変な意味で黙認されることになったのだ。

「なんでだろ?」

 と呟いた千佳の心は複雑だった。幼馴染と久しぶりに同じクラスになることが嬉しいような気もしたし、面映ゆいことのようにも思えた。

「良かったね、でも」

 香奈の言葉に千佳は思わず噛みついた。

「なんでよ・・・」

「だって・・・幼馴染なんでしょ?」

 驚いたような顔をした香奈に、

「それはそうだけど・・・」

「え、もしかしたら意識している?」

「そんなことない」

 千佳は断言した。断言したけれど、心の中の揺れは収まらなかった。

「どういうつもりなんだろ?」

 千佳の通っている高校は県内で一・二位を争う進学校で東京や京都の国立大学にも年に数人の生徒が合格している。佐地修介はその中でも久しぶりに現れた数学の神童とまで言われた生徒で、なぜ教師がそれを許したのかも不思議だった。

「ま、数学が分からなかったら教えてくれる人ができたんだし。千佳宜しくね、古い友達なんでしょ?」

「うーん」

 千佳は思わずうなった。

「あ、そう言えば」

 香奈は思い出したように言った。

「私、東京で佐地君を見たような気がする」

「え?」

「春休みにディズニーランド、家族で行くって言っていたでしょ。ついでに東京に一泊したの。その時に・・・」

「へぇ・・・遊びに行っていたのかしら」

 千佳にも意外だった。修介は東京に憧れを持つような学生ではなかったし、遊びに行くようなタイプでもない。香奈は首を振った。

「そんな感じじゃなかった。書類みたいなものを持っていたし・・・」

「書類・・・?」

「うん、もしかして受験する大学を今のうちから下見しに来たのかなぁって思ったんだけど。佐地君って用意周到なところがありそうだから」

「ああ・・・」

 千佳は頷いた。確かに修介にはそういう所がある。

「でもね、霞が関に大学なんてあるのかしら」

 香奈は首を傾げた。

「霞が関って・・・あの?」

「うん、なんか官庁とかあるところ」

「霞が関・・・ホテル、霞が関だったの?」

「その近く、虎ノ門」

 香奈は得意そうに言った。

「どうかしら。じゃあ、霞が関じゃなくてその近くにある大学かもね」

「でもねぇ、なんか佐地君が見に行くんならやっぱ、東大とかじゃない?」

「遠いの、東大ってそこから」

「近くはないわね。本郷だから、五つくらい駅が離れていると思う」

「そう・・・なんだ」

 千佳には地下鉄の駅が五つ離れているというのがどの程度の距離なのか良く分からなかったけど、修介が東大を見学に行ったのではないらしいことは分かった。


 クラスごとに教室に集まり、とりあえずあいうえお順に席にすわると、左斜め前に修介の横顔が見えた。ちらりちらりと、千佳は眺めたが修介はつまらなさそうな顔で前を向いていた。

 クラスが一緒になったのに、千佳の話を聞いた後では、なんだが佐地修介は今までより遠くの存在になったような気がした。いったい彼は、東京で何をしていたんだろう?幼馴染が離れていく、そんな感触はちょっと寂しい思いがした。でも・・・もしかしたらそれだけじゃないのかもしれない。露わになりそうな自分の気持ちに戸惑いながら、千佳は心の中にその思いを無理やり隠した。




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