LAST DAY:「これで、絶対合格しなきゃいけなくなっちゃったね」

 歯磨きを済ませてリビングに戻ると、沙也さんが先にベッドでうつ伏せになっていた。普段であれば睡眠に欠かせないであろうパートナーのブラウンは、部屋の片隅に鎮座している。悪いが今日はそこで休んでくれ。


「やっと来た」


 顔だけをこちらに向け、沙也さんが手招きする。俺は蜜に吸い寄せられる蜂のごとく真っ直ぐベッドに向かっていく。


 沙也さんが手前側に寄り、右を向く。空いたスペースに来いということだろう。俺は沙也さんをまたぎ、横になる。


 顔が近い。長いまつ毛が、柔らかそうな頬が、リップクリームで濡れた唇が、目の前にある。


「電気、消さないんですか」

「んふ、もうちょっとだけ」


 両手を握られる。外でつないだ時よりも、しっかりと絡み付いていた。


「……電気、消せなくなっちゃった」


 三日月の形をした口から、かすかに息が漏れる。


「沙也さんこそ、真っ暗にしないと眠れないんじゃないですか」

「じゃあサドーくん、私の代わりに消してよ」

「沙也さんが手を離せばいいじゃないですか」

「ヤダ」

「……俺だって」


 とはいえこのままでは埒が明かない。俺は右手の連結を解除し、沙也さんの手を俺の頬に当てた。


「こーしててください」

「……うん」


 頬に沙也さんの温もりを感じながら、ベッドの脇に放置されているリモコンに手を伸ばし、消灯スイッチを押す。


 リビングが黒一色に包まれ、互いの顔が見えなくなる。


「……来て?」


 沙也さんが俺の顔から手を離す。まだ目が暗闇に慣れておらず視認できないが、きっと両手を広げて受け入れ体勢をとっているはずだ。


 俺は右手を沙也さんの脇の下に入れ、腰に手を回して引き寄せる。頭部を交差させると、俺の頬を沙也さんの髪が撫でる。


 沙也さんも両腕で、俺の背中をしっかりと抱き返してくれる。


 世界が停止したかのような静けさの中、俺たちは互いを確かめ合っていた。


 この気持ちよさは、何度味わっても満足することはない。さっきまでは手をつなぐだけでドギマギしていたのに、この細くて柔らかい身体を包んでいると、こんなにも落ち着くんだ。


「サドーくんのおっきい背中、久しぶり」


 すりすりと、俺の背中を上下にさする手つきは優しい。


「頬っぺたもあったかいね」


 頬と頬を合わせていると、まるでひとつになったようだ。


「においも落ち着くー」


 堂々と嗅がれても恥ずかしくなくなったのは、いつからだっけ。


「ねぇ、沙也さん」


 夕方、アパートに向かう道中で言いそびれたことを、今伝えておくべきだと思った。


「ん?」

「俺、大学生活中だけじゃなくて、ずっとあなたと一緒にいたいです」


 他人と人生をともに歩むことは、口に出すほど簡単なものではない。だからこそ、決意を新たにするためにもしっかり伝えるべきだと思った。


「俺はまだ高校生だから仕事のアドバイスもできないし、相談に乗ってあげることもできません。ブラウンが戻ってきた今となっては、俺にしかできないこともない。料理なんて練習すれば誰だってできるし、そもそも外で食べればいい。俺は沙也さんの何の役にも立てない」

「そんなこと……」


 暗闇に包まれた部屋で、相手の感情を量る情報が声しかないからこそ、沙也さんは憂いを露わにする。


「それでも俺は、沙也さんのそばにいたいです。あなたが困っていたら、一緒に解決策を探したい。あなたが悲しかったら、隣で慰めたい。あなたが眠たかったら、同じベッドで寝たい。あなたの人生に、一番近くで関わりたい。だから……」


 人生は長く複雑だ。ゆえに途中で何度もくじけそうになる。だが原動力さえ手に入れてしまえば、辛くなることはあっても不安になることはない。目的があるから。ゴールを見据えているから。叶えたい夢があるから。


「だから、必ずこっちの大学に受かってみせますので。あと少し、待っていてください」

「うん、待ってる」


 沙也さんが自分の額を、俺の額に合わせる。


「私もこっちで頑張るから。胸を張ってサドーくんを迎えられるように」


 言葉の一つひとつが、奮起となって、祈りとなって、俺の胸に染み込んでくる。かすかな息遣いの変化まで伝わる距離だ。


 こんなに近いのに表情はうかがえない。けれど俺と同じ、相手への信頼と決意に満ちた顔をしているのだろう。


「サドーくん」

「はい?」



 返事を終える前に、声が近づいてくる気配があった。





 唇に、温もりの花が咲く。





「これで、絶対合格しなきゃいけなくなっちゃったね」




 俺はこの元・お隣のOLお姉さんと一か月間、生活を共有してきた。



 毎晩同じベッドで寝て、たまに食卓も囲んで、休日はネットカフェに出かけて、外泊もした。



 だから真っ暗で顔は見えなくても、この人の気持ちが手に取るようにわかる。



「沙也さん、今照れてるでしょ」

「……っ!」



 この人、外面はクールなくせに、その実相当な照れ屋さんなのだ。



「……うぅ~~」


 根を上げるのが早すぎ。それも可愛いけど。


「ルール違反の件は目をつむりましょう。ま、目をつむってるのは沙也さんの方ですが」


 すっかり目は暗順応している。沙也さんは両手で顔を覆い、口元をへにゃっとさせていた。


 俺は沙也さんを強く抱きしめる。すると照れ隠しか、沙也さんは俺のシャツの裾を握り、胸に顔を埋めた。




 変わるもの。変わらないもの。


 これからの長い人生、俺の意思にかかわらず周りの環境はどんどん変化していくのだろう。いくら待ってくれと願っても、時は進み続ける。大事なのはいかに自分の望む形に適応していくかだ。


 そんな中で、変わらないものもある。大切にしたい人がいる。守りたい想いがある。それらを全部抱えたまま大人になるなんて不可能かもしれない。事前にあれこれ考えたところで、結局その時が訪れないと答えはわからない。


 ならば俺がすべきことは、今を生きることだ。


 明日が待ち遠しいと思えるように、今日を精一杯生きたい。そして一日の終わりには、心地よい疲れとともに眠りにつくのだ。その隣に沙也さんがいることが、俺の願い。沙也さんも同じことを思ってくれていたら、この上なく嬉しい。


 沙也さんの瞼の上下が、少しずつ距離を縮めていく。小さな手が、やがてベッドに滑り落ちた。彼女の瞳に、明日はどう映るのだろう。




 俺は沙也さんの安らかな寝顔を眺めながら、そっとつぶやいた。




「おやすみなさい。今日も一日、おつかれさまでした」



(了)

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毎晩、お隣のOLお姉さんの抱き枕にされています。 及川 輝新 @oikawa01

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