DAY.3:「すぐお風呂入ってくる!」

 俺の通う、私立織北おりきた高校は都内でも有数の進学校である。成績上位者は学費が免除されるので、元から頭が良い秀才だけでなく、家が貧乏なやつも集まっている。俺は後者だ。貧しいというほどではないが、日々の節約が家計に重大な影響を及ぼすくらいには、お金にうるさい。学校は実家から遠かったので、交通費など諸々を考慮した結果、一人暮らしを選択した。


 選んだアパートは築三十年、駅から徒歩二十五分と、決して良い住環境とは呼べない。近所にお店はなく、バス停までそこそこ距離もあるので、休日は一歩も外に出ないことだって珍しくない。出費を抑えるためには、安いところに住むのが一番である。


 アパートは三階建てで、ワンフロア二部屋。俺が住んでいるのは二階の奥側、二〇二号室だ。つまり隣人である沙也さんが二〇一号室の住人ということになる。ここに住んで約二年半が経つが、上下階の事情はまったく知らない。


 そもそも少し前までは住人のことなんて無関心だったし、まさかお隣さんとこんな関係になるとは想像もしなかった。外で会う沙也さんはクール系で、近づきがたい雰囲気を醸し出していたし。


 ……と、このように余計な考えが頭にちらついている時は、勉強の集中力が落ちている時だ。


 時刻は夜の九時過ぎ。沙也さんが帰ってくるまで三時間以上はあるから、シャワーを浴びるにはまだ早い。


「散歩でもするか」


 住宅以外で近所にあるのは、寂れた公園か病院くらいだ。高校生が訪れて楽しいところは何もない。前向きに考えるなら、受験勉強に集中しやすい環境といえるが。騒音もないし、静かすぎるくらいだ。以前は寂しさを感じることも時折あったけれど、今はそうは思わない。理由ははっきりしている。何なら最近は、あの人が早く帰ってこないかと心の片隅で願ってしまっているくらいだ。


「やっぱり今日は集中力散漫だな」


 一人反省して、玄関の扉を開ける。


「うおっ!」


 目の前に、うなだれた沙也さんがいた。右手にはコンビニ袋を提げている。


 服装はいつも通り、グレーのスーツに白のブラウス。知り合いの間柄になる前だって、零時前に帰宅することはほとんどなかったのに、九時台というタイムスコアは奇跡と呼んで差し支えない。


 沙也さんの表情はなぜか暗い。外出用の硬い顔ではなく、明らかに落ち込んでいる。


 どんよりオーラを放出したまま、俺の腕をとる。そのまま俺は二〇一号室に連れ込まれた。


 扉が閉じた瞬間、沙也さんが腰を折らんばかりの勢いで抱き着いてくる。


「サドーく~~~~~ん!」

「ちょ、どうしたんですか!」


 顔を埋め、子どものように泣きじゃくる沙也さん。


 背中をぽんぽんと叩き、まずは気持ちを落ち着かせる。そのまま五分ほど慰めた後、ようやく顔を上げた沙也さんから涙の訳を訊いた。


 今から一時間と少し前。会社で突如インターネットがつながらなくなり、ポケットWi-Fiも機能しないため、従業員はやむなく退勤する流れになったという。


 今日は華の金曜日である。沙也さんは前々から気になっていた、帰宅途中にある居酒屋に行くことにした。最寄駅に到着し、意気揚々と店に向かった彼女を待ち受けていたのは……。


『閉店しました』


 家の近くまで戻ってきた手前、来た道を引き返すのも面倒くさい。だが飲食店は駅前にしかない。そこで間をとって、回り道をしてコンビニに立ち寄ることにした。近頃の冷凍食品をはじめとするコンビニメシは、下手な自炊よりよっぽどうまい。


 しかし不幸は重なるものだ。その店舗は明日から改装を予定しており、店内に食品がほとんど残っていなかったのである。冷食をはじめ、弁当、カップラーメン、お菓子はいずれも売り切れていた。この時点で沙也さんの判断力は空腹によりすっかり失われており、そのまま食べられる野菜や加工食品を適当に買ってようやく帰宅したものの、「これが二十三歳女子の週末か」と我に返ってしまった……というのが顛末らしい。


「ちなみに、何を買ったんですか?」

「これぇ……」


 袋を開いて中身を見せてくれる。


 千切りのカットキャベツ。


 6Pチーズ。


 ちくわ。


 数点の酒。


 以上。


 確かに平日最終日の夕食としては寂しすぎる。


「しょせん社畜の私が、華金を楽しもうなんておこがましかったのさ……」


 ショックのあまり、沙也さんが自暴自棄になりつつある。口調も変だし。


 たかが食事、されど食事。頑張っている人が報われないのは、空しすぎる。


「いきなりこんな話してごめんね……。聞いてほしかっただけだから、帰って大丈夫だよ……」


 俺の背中に回した両手を離し、弱弱しい笑顔を作る沙也さん。これだけの食べ物じゃ、胃も心も満たされないだろう。


「良かったら、夕食作らせてもらえませんか?」


 俺は自然と提案していた。


「ウチなら多少は食材とか調味料とかありますし」

「……でも、勉強の邪魔しちゃ悪いよ」


 眉をしゅんと下げ、申し訳なさそうに上目遣いしてくる。


「実は俺も夜メシまだなんですよ。ちょうど気分転換もしたかったですし」


 この発言の半分は本当だ。そもそも俺はほとんど夕食をとらない。お腹いっぱいになると眠くなって集中力が落ちるからだ。料理自体は好きだし調味料もそれなりに揃えているが、一日一食なんて日もある。


 本当にいいの? と沙也さんが目で尋ねてくる。


「ちゃちゃっと用意するので、部屋で待っててください」

「あ、ありがと! すぐお風呂入ってくる!」



 そう言っていそいそと目の前で服を脱ぎ始めたので、俺は慌てて退散した。

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