第11話 緑の少女(後編)

 泣き声が聞こえる。ペンナの威嚇する声も。

 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう? 俺は微かに意識を取り戻し始めていた。

 体は鉛のように重たく、動かなかった。まぶたですら持ち上げることが出来ない。とにかく力が出ないんだ。まるで氷の中に沈められてしまったんじゃないかと思うほど寒い。なのに震えることすら出来ない。

 温かい風が口に吹きこまれ、俺の肺を押し広げていくのを感じる。唇に湿った生温かい物が触れているようだ。


 ……人工呼吸か?


 意識が徐々に覚醒していき、体に熱が行き渡ると、ようやく目が開くようになった。

 てっきりフロースかと思いきや、目の前に見えたのは真緑の耳だった。

 耳だけじゃない。頬も目も髪も唇も、この人は全てが緑色だった。俺が意識を取り戻したことに気づいていないのか、正気のない瞳は虚無を見つめ、操り人形のように俺に息を吹き込んでいた。

 近くにフロースがいるんだろう? 人工呼吸だったとしても、こんな姿を見せるわけには。俺は渾身の力を振り絞り、緑の少女を押しやった。


「誰だ?」

「イリス・アーラ・デア」

「アーラって、あのアーラ!?」

「イリスと呼んでくれないかしら。この世界には他にもアーラという名前を持った人がいるから」


 俺は飛び起きた。確かに正面から見たら〈赤霊峰マウント・ルーベル〉で見たあの少女とよく似ている。

 虹ウサギと言ったよな? ウサギだけじゃなく、人の形態もとれるのか。


「あんたねえ、命の恩人に対してなんていう口の利き方なの!」


 フロースが俺を張り倒した。万全じゃないのか、腕で支えきれず押し潰されてしまった。


「大体、起こしてって言ったじゃない! 今日中にノートの解析を進められなかったら承知しないんだからね。わかってるの?」


 パタパタと拳を胸に叩きつけてくる。

 痛い痛い、やめてくれ。

 腕でガードしながらルビーの瞳を見上げる。焦点の合わない瞳の中で、キラキラと不安定な光が揺れていた。


「泣いているのか?」

「違う。さっき欠伸しただけ」

「そうかよ。で、命の恩人ってどういうこと?」


 イリスが立ち上がる。俺も体を起こしたが、まだ本調子ではないらしく、フラフラでとても立てそうになかった。

 周りを見て驚いた。部屋に埋め込まれた石がギラギラと強烈な光を放っている。

 イリスが右手を上げると、全ての光が飛び出し、手の中に収まった。その光を今度は俺に向かって放り投げた。光は俺の胸に乗っかり、静かに浸透していった。


「楽になったでしょう?」

「少し……」

「何があったのか知りたい? そこの魔族の子が目覚めた時、貴方の体は冷たくなっていた。狂ったような泣き声と、私を呼ぶ青年の声が聞こえてね、来てみたら貴方は死んでいた。私は虹の力を使って、骸になった体に命を吹き込んだ。貴方は生還した」

「俺が死んだ?」

「何も覚えていない? 貴方は前にも一度死んでいるのよ。私が助けたから生きていられるの」


 まさか、いくらなんでも有り得ないだろう!


「そろそろ帰っていい? 騒がしいのは好かないの」

「待ってくれ。俺がなんで死んだって言うんだ? 理由を教えてくれよ」

「この壁に埋め込まれている物はラピス・インケルタ。死体に残った〈命源ポエンティア〉を吸収したり、放出したりする性質を持っている。貴方は一度死んだ体でこの石に直接触れた。運悪く吸収のタイミングだったので、命を吸い取られた」

「そうじゃなくて、一回目に死んだ理由は?」

「知らない。私はただ頼まれて命を吹き込んだだけ。その子に訊いたら?」


 フロースは何も知らないと首を振った。

 イリスは人間離れした冷たい瞳で探るようにフロースを見つめた。


「本当に知らないみたいね。別に、私としてはどうだっていいけれど。私が知っているのは、貴方が私の元に担ぎ込まれた時、胸には大きな傷があったことだけ。一回目の死はそれが関係しているんじゃない?」

「だって、あの手術は成功したって。もしかして、失敗してたの?」


 フロースはすっかり狼狽していた。宙を見つめ、髪の毛がクシャクシャになるまで頭を掻いた。


「もういいかしら? そうそう、もう一度呼び出されるのはごめんだから言っておくけど、ここの秘宝はある男が持っていったきり返ってきていない。秘宝が目的なら、無駄足だったってことね。ちなみに、秘宝はラピス・インケルタの巨大結晶とその使用法が記された実験ノートの二つだった」

「実験ノートってもしかして、イタクラ ユウヤが書いた?」

「そんな名前だったかしら。そう、既に手に入れているのね」

「いや、俺達はノートしか持ってない」

「あらそう。だったら小さい結晶だけど、祭壇にラピスを置いておくわ。妖獣の試験を突破して、それを調査に役立てて。くれぐれも貴方は直に触れないように。次は助けてあげられないから」


 イリスはペンナに振り返った。ペンナはイリスを見上げ、尖った尻尾をピンと張った。


「秘宝を手に入れたら、とっとと出ていって。二度と私を煩わせないで」


 イリスは踵を返し、石壁に手を振れた。石壁は静かに道を開け、イリスを通した。

 俺とフロースは暫く呆然としてしまった。異様というか怖いというか、凄い人だったな。


 フロースは頭を抱えたまま口を閉ざしていた。俺はこっそり襟を引っ張って自分の胸を見た。

 うーん、胸の傷がどうとか言ってたが、わからないな。大蛇の鱗が胸を覆っていて、あったとしても見えなくなっているみたいだ。

 仮にイリスの話が本当だったとしたら、一体何のためにこんな所にメスを? フロースは手術がどうだとか言っていた。

 この先にあるとしたら……心臓か。


 俺は心臓病を患っていた。


 とても安直な推測だが、辿り着いてみると何故だかしっくりきた。まさか俺にそんな過去があったなんてな。

 見えない傷を想像しながら鱗をなぞっていると、ふとサノーの顔がポーンと脳裏に浮かび上がった。

 手術をしたのはサノー? いいや、まさか。確かに外科医とか名医とか自分で言っていたが、あの老いぼれではないだろう。

 しかし、一度浮かんでしまうと不思議なもので、そうだったんじゃないかという気がしてきた。

 おぼろげながら記憶が蘇ってくる。


 十歳の俺をフカフカの気持ちいいベッドに寝かせ、優しく語りかけながらそっと安眠のまじないをかける。サノーの祈りにいざなわれて、俺はウトウトと眠りに落ちるんだ。完全に意識が途切れる前にサノーは俺を抱きしめ、何かを呟いた。

 その内容は……。さすがに思い出せないな。

 でも、確信した。俺に手術を施したのはサノーだ。きっと俺が手術の負担に耐え切れなくて、それで手術が終わった後に神殿に連れてきて、命を司る聖女様に祈りを捧げて助けてくれたと考えれば辻褄が合う。サノーは俺の命の恩人だったんだ。


「ん?」


 体に違和感を覚える。この悪寒、引き裂かれるような感覚。

 まさか、今の記憶で妖霊が一羽抜けようとしているのか? 小瓶を飲んだわけじゃないのに。


「う……ああ!」


 紅色の煙が体から抜ける。煙は地面にとぐろを巻き、大蛇の形に落ち着いた。

 嘘だろう。よりによって呪怨の大蛇のウィールスじゃないか。

 解放を喜ぶようにウィールスはスルスルと裂けた舌を出した。

 そして何を思ったか、いきなり俺に突進し、巨体で乗り上げてきた。

 妖霊のくせになんて重さだ。あばら骨が軋んでいる。


「何をするんだ!」

「よくも……よくも我をこき使ってくれたな。この恨み、晴らさせてもらう」


 小さな二つの目が俺を睨みつける。怪しげな赤い眼光を見た瞬間、体の中に冷水を流し込まれたような感覚を覚えた。

 魔法封じの呪いだ。まずい。かなりまずい。


 フロースの氷の槍が飛んでくる。

 馬鹿! 狙いがずれて俺の方に来てる!

 身をくねらせ、間一髪でよけた。

 攻撃こそ当たらなかったもののウィールスの注意をフロースに向かせるのには充分な効果があった。手鏡で様子を探り、フロースは自分が睨まれていることを理解したらしい。

 ウィールスの動きは俊敏だ。あんな手鏡一つでは絶対に追えない。

 立ち上がる時、ふとポケットの懐中電灯が腰に当たった。


 そうだ。これだ!


 ボタンを押してウィールスに向ける。フロースが悲鳴を上げて後退した。

 こうして俺が照らしてやっていれば場所はわかるはずだ。あとはそこに上手く攻撃を当ててくれれば。


「フロース、いいか。これがウィールスだ。距離感がわからなかったら手を思いっきり伸ばしてみるんだ。手よりも相手の頭が小さく見えているうちは安全だ。フロースの右手と連動して、チラチラと動いている光があるのがわかるか? それが手鏡が当たっている部分だ。相手と手鏡の光が重なった瞬間に魔法を撃つんだ。そうしたら攻撃は当たる」

「こんなメチャクチャな視界でわかるわけがないじゃない!」

「わかる。わかるようになる!」


 ウィールスが呪いを放つ。状況が把握出来ないのかフロースは固まっていた。

 馬鹿、よけろよ!

 懐中電灯の光をフロースの方に向ける。眩しさに堪えかねてよろけたところを呪いの光がかすめていった。フロースまで呪われたらおしまいなんだ。


「さっさと魔法を撃ってくれ」

「狙えてるかどうかがわからないのよ」

「もう少し右だ。そう。今狙えてる。唱えるんだ!」

「求めるは地底に封されし死神の鎌。呪怨よ、切り裂け」


 銀色の回転刃がウィールスめがけて猛進していく。

 バシュン。

 独特な音とともに刃が太い胴体を貫通した。たった一撃だったのに、それが致命傷となったらしい。

 苦しそうな悲鳴を上げ、ウィールスが死にかけのミミズのようにのた打ち回った。尻尾が当たりそうな位置にいるのに、フロースはまだ呆然と立ち尽くしている。これが危険だとわからないなんて。

 フロースの腕を取り、奥へ引っ張る。

 散々もがき苦しんだ挙句、遂に形を留められなくなった妖獣は見えない霧に帰した。俺にかかっていた呪いも解けた。

 やったぞ。フロースが仕留めた!


「終わったの?」

「ああ。よくやった!」

「何それ。言ったでしょ。私は超がつくほどエリートなの。当たりさえすればあんなの余裕よ」


 そう言いながら、フロースは込み上げる笑みを噛み殺せない様子で、ほんのり顔が赤くなっていた。素直に喜べばいいんだよ、そこは。

 石壁がおもむろに開いた。明刻が訪れたようだ。

 赤い目がチラリと俺の手に移る。光の出所が懐中電灯ということは理解出来るようになったのだろう、手探りで伸ばした手が俺の手から懐中電灯をもぎ取った。


「さっさと進むわよ。昨日みたいなギリギリな脱出はもう御免なんだから」


 きっちりと正面を照らしながら進んでいる。

 結局、プライドが満足されたんで懐中電灯を受け入れる気になったんだな。サノーの予想どおりだ。

 部屋を出るべく、懐中電灯を構えて自信満々に足を進めていく。その背中を追いかけていくとふとフロースが左に反れた。

 危ない! 気づいた時にはもう遅かった。

 壁と通路の判別がつかないフロースはそのまま壁にゴツンと額をぶつけた。


「あーもう……嫌い嫌い嫌い、大っ嫌い!」


 一つ一つ、どれが何なのか教えるのは俺の仕事になりそうだな。

 それくらいはやったっていい。プンスカ怒りながらも嬉しそうにしているフロースを見ていると、俺は満ち足りた気分になるんだ。

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