第9話 二つの光(後編)

 子供のうなり声のような物を聞いて俺は目を覚ました。見上げると、尖った耳の毛むくじゃらな生き物が見下ろしているのに気づいた。

 猫だよな? なんでこんなに、覆いかぶさるほど巨大なんだ?


 まさか!


 自分の両手を顔の前で広げてゾッとした。人の手の代わりに、トゲトゲとした前足があった。寝る前まで鳥足だった足も同じような形をしている。

 呪いで完全にネズミに変えられていしまっている。

 猫が毛を逆立て、俺の脇腹に鼻を押しつけてきた。


「キューーーン!」


 悲鳴を上げたつもりなのに、なんてか細い鳴き声しか出てこないんだ!

 俺は夢中でベッドから飛び降り、半開きのドアの隙間からダイニングへと出た。


 それからは命がけの逃走劇が始まった。

 俺がキッチンを走れば猫に化けたフロースが積まれたフライパンをひっくり返し、食器棚の脇をよじ登れば天板に飛び乗った勢いで棚ごと倒し、サノーの靴の中に隠れれば爪でメチャクチャに上面を切り裂かれてしまった。


 なんでだよ? 隣で寝たのが悪かったのか? だったら悪かったって!


 叫んだところでネズミの言葉がフロースに通じるわけがなかった。

 俺達が騒いでいるというのに、ペンナは平和そのものの顔でダイニングテーブルの上で毛づくろいしていた。

 おい、気づいてんだろう。助けろよ!


 兎に角逃げるのに必死で、俺は向かってる先の床がポッカリ抜けていることに気づかなかった。

 駆け出し、飛び出し、空中に出てしまった俺はキリキリ舞いしながら落下していた。

 トスン。

 落ちた先にはフサフサの柔らかい羽毛が広がっていた。

 いや羽毛じゃない。これはサノーの顎ひげだ!


「なんじゃあ……?」


 地下室にちゃっちい絨毯を敷いて、そこを寝床にしていたのか。盲目のフロースはまだ俺が穴の下に落ちたことに気づいていない。助けてもらうチャンスだ!


 おい、ジジイ、起きろ! 助けろ!


「ええい、わしの顔を咬みおって。けったいなネズミじゃのう」


 尻尾を捕まえられ、俺は逆さまにつられてしまった。

 まさか、誰だかわからないのか? そいつはやばいことになった。


「はて、妙じゃのう。どこからどう見てもただのネズミなのに、イグニスの文字がぼやけて見えるのう。ふむ……」


 サノーの声を聞きつけてか、フロースがようやく穴の外からこちらを見下ろしてきた。

 しかし、やはり見えないのが怖いのだろう。普通の猫なら一飛びの高さを下りようとしない。


「猫……ではなく、姫様? やれやれ、ではこちらも見間違えではなかったようじゃな。イグニスよ、さてはお前さん、フロースの逆鱗に触れたようじゃのう。一体何をやらかしたんじゃ?」


 何もしてねえよ! ネズミの潰れた声で俺は叫んだ。


「まあよい。お前さんのミスは追及せんでおこう。それよりこの厄介な呪いじゃな。姫様の呪いはわしでも手に負えん。姫様を説得せにゃあならん」


 楽しそうに顎ひげを撫でつけ、サノーは寝床から出た。


「わしに名案がある。昨日一晩考えたことがあるんじゃよ。きっと姫様、魔法も解いてしまうほどビックリするじゃろうて」


 手のひらに載せられたまま、部屋の中を移動した。サノーが手に取ったのはラッパのような頭のついた筒型の何かだった。

 魔導書を開き、サノーはあるページの文字を筒型の物に鏡で投影した。ラッパのような部分が白く輝き始める。

 サノーは楽しそうにレンズを磨くと、穴の上で二の足を踏んでいるフロースに向けた。

 瞳孔の開き切ったルビーの目が見開かれ、フロースが真後ろにひっくり返って見えなくなった。

 その瞬間俺も自分の体が急に大きくなるのを感じ、サノーの手から床に落ちるほんの一瞬で元の人の姿に戻っていた。


「ホッホッホ、作戦大成功じゃな」

「助かった……。けど、何をしたんだ?」

「それはフロースに聞いてみればわかることじゃ。梯子を上ろう」


 サノーは曲がった背中の割には軽やかな足取りであっという間に梯子を上っていった。

 それにしてもこの部屋、妙な物が沢山あるな。

 二枚の扉の付いた四角い箱、ドラム缶のようなものが入った白い箱、前面が扉になっているボタンだらけの箱、足のついた板切れ。

 なんだっけ? 思い出した。昨日飲んだ記憶の中に入ってたらしい。

 確かそれぞれ、冷蔵庫、洗濯機、テレビって名前の電化製品だった。

 この部屋はサノーのコレクションルーム兼作業場だ。意外と広い地下室には他にも布をかぶせられた大きな物が沢山並んでいる。車とヘリコプターっていうのまであるって喜んでいたっけな?

 ああ、臭い。この部屋、古い油の臭いがしみついているんだ。十分いただけでも頭痛がしてくるぞ。


「イグニスや、さっさと上がってくるんじゃ」

「あ、ああ」


 梯子を上ると、フロースが目を押さえてうずくまっていた。

 サノーは祈魔法を振りまき、荒れ放題の部屋を元の状態に戻した。


「先生、目が見えない……」

「それは前からじゃろう」

「そうじゃなくて。なんか、こう、変なのがずっと目の前にある感じで。目を閉じても開けても消えない」

「残像じゃ。わしの目は既に濁ってしまっておるから懐中電灯の光もよく見えないんじゃが、やはり姫様のような若い瞳には映るようじゃのう」

「残像? 私、目が見えないのに?」

「物を見るために必要な光は地上に降り注いだ妖気だけとは限らんということじゃよ」

「意味不明。わかるように説明して」

「ふむ、わからんか。要するに、〈フォンス〉の有無に関係なく、わしらの目にはまだ元々テラを照らしていたという〈太陽ソル〉の光を感知する力があるということじゃ!」


 サノーはすっかり興奮し、飛び上っていた。


「素晴らしい、大発見じゃ! 〈太陽ソル〉のあった時代にも、光の届かない深海に生きる生物は目が退化しておったという話から、わしらの目も〈太陽ソル〉の光には反応しないように濁ってしまっているというのがもっぱらの定説じゃった。懐中電灯、凄いのう。これを応用すれば、いつかわしらでもテラが地球と呼ばれていた頃の景色を見ることが出来るのかもしれんぞ。青い空、白い雲、緑の山。うむ、憧れるのう」

「なんだそれ。空は茶色、雲は黒、山は橙か赤って決まってるだろうが」

「〈太陽ソル〉が失われてからこの世界は変色しておるそうじゃ。尤も、物の形も色も見ることが出来なくなった魔族にとっては、この世界がそもそもどんな姿をしているのかすら想像出来ないんじゃがのう」

「色も形も見えずに、どうやってものを判断してるんだ?」

「無数の文字じゃよ。魔族には〈フォンス〉を得るために電気虫の遺伝子が組み込まれておってのう、文字を素早く正確に認識することに優れておるのじゃ。膨大なプログラムを読み取る、コンピュータのようなものじゃ」


 コンピュータ? 神殿で見つけた言葉だな。レグルスの言ってたとおりだ。


「〈太陽ソル〉が失われる前の世界では炎は赤いと言うておったなあ。ゾクゾクするのう。赤は魂を興奮させる色なんじゃろう? 見てみたいのう」

「でも、さっき自分の目は濁ってそっちの光が見えないとかなんとか言ってなかったか?」

「あ! うーむ、老いとは辛いものよ」


 サノーはすっかり背を丸くしてしまった。ちょっと俺も無神経だったかもしれない。


 サノーは懐中電灯のボタンを押し、フロースの前の床を照らした。フロースが恐る恐る顔を上げた。


「何か見えるかのう?」

「見えているわ。見えているって言うんでしょう。だって、目を閉じたら消えるもの」


 フロースは床を撫で、続いて撫でた手を食い入るように見つめた。


「でも、これがなんだっていうの? 気持ち悪い。こんなのが私の手のはずないじゃない」

「姫様が見ているのは紛れもなく手じゃよ。これから見ることも多くなろう。しっかりと形を覚えるように」

「どうやって覚えるのよ……。先生、元の状態に戻して。こんなの見せつけられるくらいなら、何も見えない方がマシだわ」

「そんな悲しいことを言うな。わしは見たくても見られないんじゃ。わしのためだと思って、もう少し懐中電灯の照らす世界について教えておくれ」

「だったらイグニスにでも訊けば? 私と同い年なんだから、見えてるんでしょ?」


 フロースと俺が同い年? まさか!

 でも、きっと俺の方が早く生まれているに違いない。俺がこんなお嬢様よりも生きている時間が短いわけがない。そこは絶対に譲れない!


「イグニスに聞いたところでのう、妖族の体であれば〈フォンス〉の視界が邪魔して変色してしまっておるはずじゃ」

「……訊かれても答えられないのよ。表現のしようがない。それより先生、一回目の食事のチョコはまだー?」

「〈太陽ソル〉の世界を話してくれたら作ってやろう。特別にクリームも乗せる」

「そんな話に私が乗るわけないでしょ!」


 チョコをダシにしても応じないとは、余程嫌なんだろうな。

 フロースは手鏡を頼りに歩き始めた。猫になっていた時の機敏な動きが嘘のようだ。


「なあ、フロース」

「ああ!」

「逆ギレすんなよ。あれだけ強力な変身魔法が使えるんなら、俺の体も普通の人間の形にしてくれないか?」

「妖族の癖に体の変形を気にするの?」

「気にするに決まってんだろ。この鳥足とか水かきは前からじゃなかったはずだ。しっぽは床に引きずるし、何かと動きにくいんだよ」

「そうかしらねえ」

「それに、この妖霊の特徴を隠せば俺も魔族のフリが出来るだろ。そうなったら毎回門番の前で隠れる必要もなくなる」

「だとしても駄目。人を呪うのは疲れるの」

「じゃあせめてこの鳥足だけでも」

「嫌」

「足を治してくれたら、サノーにチョコを頼んでやるよ」


 フロースが唇を変に噛みしめた。さすがにチョコがかかると違うな。


「わし、お前さんの頼みでも作る気はないんじゃが……」

「サノーも大人げなく拗ねるなよ。チョコを作ってくれたら、地下室にあった自慢のコレクションのウンチクを聞きに行ってやるから」


 サノーは目を輝かせた。

 そうなんだ。サノーの話は専門的すぎて誰も聞きたがらないから、相手してやると馬鹿みたいに喜ぶんだ。


「本当か? 聞いてくれるのか? お前さん、あんなにもわしの長話を嫌っておったというのに」

「何時間でもいてやるよ。だから、チョコだけ、な、この通り頼むよ」

「よし、そうと決まればフロース、イグニスの足を元に戻してやるんじゃ!」

「先生、人を呪うって本当に疲れるの知ってて言ってる?」

「さっきまで散々イグニスを呪っておいてよく言うわい。兎に角治してやるんじゃ。クリーム二倍のチョコを作って待っておるから」

「ク……! 何ボサッと立ってるの? さっさと部屋から魔導書を取ってきなさいよ。私の気が変わらないうちに!」


 よし、上手くいった。見えていないことをいいことに俺はガッツポーズした。


 フロースが魔導書を開き、手鏡を当てる。それだけで俺の足は人間の足に戻った。

 そうそう、この感触だ。走りやすいし飛び跳ねやすい。何よりもフィット感がたまらない。

 ついでにこの大きな尻尾もどうにかしてもらおうかと思ったがやめておいた。あのふてくされた顔が直らないうちは何を頼んでも無駄だ。


「あと十分でここを出るから。今のうちに準備しておいて」

「また神殿に行くのか?」

「決まってるでしょ。虹の神殿が終わったら星の神殿に行って、全てのアーラの秘宝を手に入れてくる。それであんたの責務は終わり。記憶も戻してあげる」


 なんだ、そんなに短期間の話だったのか。記憶を戻してもらえるのがそう遠い未来じゃないと思うと一気にやる気が湧いた。

 部屋に戻って、さっさと出発の準備を済ませる。

 ダイニングに戻るとちょうどサノーが二つのマグカップをテーブルに並べていた。黒い液体の入ったカップからは湯気が立ち上り、いかにも熱そうだ。


「さて、お待たせじゃ。クリーム二倍のチョコ、召し上がれ。イグニス、お前さんの分も作った。出発する前に飲んでいくといい」

「ありがとな。冷めるまで少し待つから、置いておいて」


 俺が席に着くよりも早く、フロースがマグカップに手を伸ばす。

 ゴクゴクゴク、たった三口でフロースは自分のマグカップを空っぽにしていた。

 あー、と親父くさい吐息をつき、椅子を跳ね飛ばす勢いで立ち上がる。そしてペンナを呼ぶとツカツカと玄関に向かった。


「行くよ」

「まだ俺飲み終わってないし」

「だから? 熱々のチョコが飲めないあんたが悪いんでしょう?」

「五分くらい待ってくれたっていいだろう。頼んでやったのは俺なんだ」


 フロースは鞄を開け、記憶の小瓶を取り出した。


「割っていい?」

「な……」

「十数えるわ。九、八、七……」

「わかったよ。行けばいいんだろ、行けば!」


 クッソ、強引なアマが! サノーは楽しそうに俺のマグカップを自分の方に引き寄せた。

 こうなることを最初からわかってたのか。どいつもこいつも俺をからかいやがって。


「ほれ、忘れ物じゃ」


 サノーがさっきの懐中電灯を放り投げてきた。


「お前さんが持っておれ。いずれ役に立つ時がくるじゃろう。気をつけるんじゃぞ。それからイグニス、約束を忘れるでないぞ」

「うるせえよ!」


 呑気な声をオンボロなドアでシャットアウトする。

 茶色の空は雲一つなく晴れ渡っていた。今日も頑張るとするか。記憶を人質に取られている状態から一刻も早く脱したい。

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