おじちゃん

ぼん・ないある

おじちゃん

 妻と子供を連れて久し振りの帰省が叶った。少年の頃に寝起きしていた部屋から、懐かしい日記や写真が見つかった。しばらく実家に帰れない間、母が私物の整理をしてくれていたらしい。色褪せた縦長のインスタント写真を手に取ると、ある日の思い出が、初夏の風とともに脳裏を吹き抜けていった。「おじちゃん」と過ごした、短くも忘れがたい時間に思いを馳せる。二十年ほど前、おじちゃんは父の弟だと名乗って突然私のもとに現れた。仕事の都合で長い間日本を離れていたのだと聞かされた。最初に顔を合わせた時の事は今でも鮮明に思い出せる。父には、あまり似ていないと思った。


 私は父の顔を写真でしか見たことがなく、父に関する記憶は殆どない。私が三歳の頃に他界した。私の肉親は母の他に祖父が居たが、祖父は私が小学校に入学して間もなく入院生活となった。以来、母は私を養うため朝に夕に働いていた。父の遺した財産が幾ばくかあったとはいえ、祖父の治療の事もあり、家計にさほど余裕は無かったように思うが、母は子供の私に心配を掛けまいと金銭の話をしたがらなかった。出来る限り不自由させないよう育ててくれた母には、感謝してもしきれない。しかし、無理を悟らせない気丈な性格が災いしたのか、ある時期母は身体を壊してしまった。小学五年、一学期の出来事だった。

 

 少年の私は途方に暮れかけたが、母が書き残していたメモの存在をすぐに思い出した。


〈お母さんに何かあった時は東京のおじさんに電話すること〉


 メモには090から始まる電話番号が記されていた。縋るような気持ちで自宅から電話を掛けたみたが、繋がらなかったので仕方なく留守番電話にメッセージを残した。少し緊張したが、何をどう言えば良いのかという文言が記された母のメモに助けられた。


「坂内雪恵の息子です。母が家に帰れず困っています。至急連絡お待ちしてます」


 私は受話器を置いてから、自分が次に何をすべきか考えた。ひとりで困った時こそ先の事を考えろ、というのが母の教えだったからだ。動揺はしていたが、今直ぐ命に関わるわけではないと説明されていたので、なるべくは楽観的に考えるよう努めた。内心はとても落ち着いていられなかったが、思春期手前の年頃、意地でどうにか堪えていたように思う。

「お母さんはきっと大丈夫だ」という必死の楽観と「ぼくはもう小さい子供じゃない」という矜持が、その時の自分を支える全てだった。

 時計を見てから腹の虫と相談して、一先ずは遅い昼食作りに取り掛かる事にした。慌てていても不安でも、何にしても腹は減るのだから、とりあえずはご飯を作ろうと台所に向かった。当時ひとりで食事を取る事は珍しくなかった。疲れて帰る母の負担を少しでも減らそうと、簡単な炊事は出来るようになっていた。出来上がった料理を皿に盛って、習慣通りにテレビを点ける。いただきますと手を合わせた時、インターフォンが鳴った。私は渋々玄関に向かった。


 ドアチェーンをかけたまま少し開けてみると、いかつい大柄の男性が扉の向こうに立っていた。派手な金髪で、色眼鏡を掛けた外見は格闘ゲームの中ボスといったところの風貌に思えた。ゲームのキャラクターなら恐るるに足らないだろう。だが、そんな男が自宅玄関先に仁王立ちしている状態は、小学生の留守番にしては余りある試練のように思えた。蛇に睨まれた蛙。魔王に相対した丸腰の勇者。いつか観た外国の映画が頭を過る。家に一人残され悪漢を撃退する少年を思い浮かべたが、自分にはとても真似できそうにはなかった。私は堪えきれず驚きおおのいた。


「うわっ」

「坊ちゃん、ヨシハルくんか?」


 少ししゃがれた迫力のある声だったと記憶している。自分の日常とはあまりにかけ離れた風体の男が母の名前を知っていた事に驚いた。同時に、彼が電話番号の主である可能性が限りなく高まった事に気付いた。誰か助けて……! 

 しかし心の叫びは心の中でしか響かない。私は意を決して応対する事にした。


「は、はい。坂内良晴です」

「雪恵さんどうした?」

「近くの病院です。今のところ命には関わらないって……でも、いつ退院できるかは分からないって言ってました」

「そうか……」


 謎の訪問者は深い谷のごとく眉間に刻まれた皺を伸ばし、すこし安堵したような面持ちになった。


「坊ちゃん、歳いくつになったよ?」

「もうすぐ十一歳、です」

「そっか。じゃあ小学五年くらいか」

「はい、そうです……」

「上がっていいか?」

「あの、ぼく、電話かけたと思うんですけど……」

「おう。留守電聞いてすっ飛んできたわ」

「ええと、電話、ケータイですよね。今持ってますか? ちょっと見せて下さい」


 男は不思議そうな顔をしつつ、携帯電話をポケットから取り出して私に差しだした。私は電話機を開いて、母の持つ携帯電話を思い出しながらカチカチとボタンを押して操作した。


「……確認できました。ちゃんとうちの電話のりれき、残ってました。ありがとうございます」


 電話を返された男は一瞬きょとんとした顔つきをしてから、豪快に笑い始めた。昔話に出てくる鬼が笑ったらこんな感じにちがいない、私は若干怯えながらそう思った。


「えらい! えらいぞ坊ちゃん! 俺が見るからに怪しいやつだったから、ちゃんと確認取ったんだな! おじちゃんがもし悪いおじちゃんだったら危ねえもんなあ。いや大したもんだ! さすがアニキの子は利口だ!」


 私は恐る恐るドアチェーンを外し、奇妙な客人を自宅に上げた。間近で見るとますます威圧感に満ちている。玄関から上がってのしのしと歩くたび、片手に提げた紙袋が少し揺れていた。


「ヨシハルくんは何て漢字書くんだっけ」

「良く晴れてるって書きます」

「子供は堅っ苦しい喋り方しなくていいんだよ、もっと気楽でいいの! おじちゃんの事はおじちゃんって呼びな。良晴かあ。良い名前付けてもらったな」

「でも、遠足の日に雨降ったりすると文句言われるよ。良く晴れる男がうちのクラスに居るのになあ、って」

「だはははは! そいつぁとんだとばっちりだな!」

「うん。やれやれって感じ」

「そのエプロンどうした? かっこいいじゃねえか」

「でしょ。授業で作ったやつ。さっきまでお昼の料理してたから」


 雷鳴轟く暗闇の中荒ぶる龍が天に昇る……世の小学生男子たちから絶大な支持を集めるデザイン生地を選択し、苦心の末完成させたエプロンだった。おじちゃんなる人に趣味の良さを褒められた事で、私はすっかり気を良くした。


「おじちゃん、もう昼ご飯たべた?」

「ン? ああ、そういや昼メシ食ってなかったな」

「じゃあちょっと座って待ってて!」


 私は意気揚々と台所に立ち、先ほど作っておいた焼きそばをもう一枚の皿に盛った。かつおぶしは多めに。更に、お客さまをもてなす特別仕様として、目玉焼きも二つこしらえた。冷蔵庫の麦茶をグラスに注いで食卓に置く。私は電気ネズミのデザイン、お客様用にはとっておきのグラス――最強の超能力モンスター――を選んだ。やや吊り上がった鋭い眼光は、おじちゃんにどこか似ているとも思った。


「おまちどおさま! 食べていいよ」

「おお! 旨そうだなあ! それじゃ頂きます」


 彼は供された食事を有難そうに平らげた。カット野菜と安売りバラ肉とソース、塩胡椒少々、何て事のないありふれた食材とごく簡素な味付けの焼きそばだったが、どこかの宮殿に招かれて豪勢な料理を振る舞われたかのように噛み締めていた。作り手の私は客人の反応を喜ぶと同時に、どこか不思議に思った。おじちゃんは何度もうまい、うまい、と感嘆していた。


「良晴はすごいな! もうひとりで飯作れるのか」

「まあね。こんなの簡単だよ」

「雪恵さんも喜んでるだろ。料理できる男はモテるぞ」

「別に。モテるとか、そういうの興味ないし……」

「なんだ、クラスに好きな子とか居ないのか」

「クラスの女子とか子供じゃん。大人っぽい子がいい」

「同い年だろ……」

「別に好きとかじゃないけどバレンタインのチョコもらったから一応お礼はしたけどね」

「最近の小学生はマセてんな……」


 昼食を共にした後、母の着替えやタオルなどを鞄に詰め、二人で病院に行くことにした。おじちゃんは家に来たときと同様に紙袋を携えていた。中を覗き込んでみたが、丸めた新聞紙や発泡スチロールの屑が入っているようにしか見えなかった。


「おじちゃんのそれ何? ゴミならうちに捨てていっていいよ」

「これか? ゴミじゃない。ああ、そうだな……まあ、次の仕事で使うものだからな。無闇に触るなよ」


 おじちゃんの低く静かな声は警告の響きを持つと同時に、何かに対して苛立っているようにも感じられた。私はにわかに怯えと緊張を思い出し、黙って頷いた。ごみ屑が入っているようにしか見えなかったが、見かけに拠らず大切なものらしい――この時私はまだ、袋の中身も彼の正体も知る由が無かった。


 おじちゃんを連れて病院を訪れ、母の居る病室に入った。ベッドに横たわる母はおじちゃんを見ると、懐かしそうな表情で歓迎した。確認を取ったとはいえ、母が本当に彼と知り合いだった事はやはり意外だった。


「雪恵さん……御無沙汰してます。お加減いかがですか?」

「久しぶりねえ。この通り、心配するほどじゃありませんよ。ご迷惑おかけしました」

「良晴くん、本当にしっかりした子ですね。焼きそばご馳走になりましたよ。本当に大したもんだ」

「子供に苦労かけてお恥ずかしい限り。良晴、ちゃんとお行儀良くしてた?」

「ばっちり。退院いつ? 来週?」

「そのうち帰れるから、それまでちゃんとおじさんの言うこと聞いてね」

「うん。わかった」

「いつもの休憩所わかる?」

「漫画あるとこでしょ。下の階の」

「これから大事なお話があるから、ちょっとそこで待っててくれる? お小遣いあげるからジュース買いなさい」

 

 いやだ。ぼくもここに居るぞ。大切な話なら、息子である自分が立ち会えないとは何事か! 

 という気持ちを抱きながらも、駄々をこねるのは子供っぽくて恥ずかしいと思ったので我慢する事にした。ましてや、敢えておじちゃんを怒らせる蛮勇も無かった。

 図鑑や子供向け雑誌を読み漁りながらしばらく時間を潰していると、母との話し合いを終えたおじちゃんが迎えに来た。曰く、退院はもう少し先になるのだという。また、おじちゃんは海外での仕事を控えており、明後日からは別の親戚に面倒を見て貰うのだと告げられた。目まぐるしい事だ。母の退院の目途が未だ立たないばかりでなく、馴染みのない親類の間をたらい回しにされているような状態に、苛立ちとやるせなさが滲んだ。勿論、病気はどうにもならないし、大人たちには色々と複雑な都合がある事も分かっているつもりだった。母の病室に戻った時も、物わかりの良いような受け答えをしてみせて、一旦の別れを告げた。


 ところが病院を出て歩いている途中でどういう訳か、二本の脚がぬかるみに取られたかのように動かなくなった。一歩も前に進めないばかりか、立っているのもひどく億劫だった。おなかの真ん中あたりがきりきりして、重たい。


「良晴、どうした?」


 私はただ首を振ることしかできなかった。空は晴れているというのに、心が重たい夜の泥に飲み込まれていくようで、十歳の私は泥を濾して言葉に変える手段を知らなかった。


「ああ……そうだよな。どうしたもこうしたも、辛いに決まってるよな。お母ちゃんの前では気ィ張ってたんだよな……」


 おじちゃんは頭を掻いて唸った。ごにょごにょと口の中で独り言を転がしながら、紙袋と私を交互に見て、大きな溜息を吐いた。不意に、私の目の前で背を向けたかと思うと、紙袋を傍らにそっと置き、大きな身体を屈ませ両手のひらをこちらに向けるという奇妙なポーズを取った。私が幼児だった頃、まだ元気だった祖父が私をおんぶする姿勢によく似ていると思ったが、おじちゃんの意図に気付くまでには数拍の間を要した。


「お客さん、早く乗って下さいよォ。今なら初乗りタダにしときますぜ」

「えっ、なに……」


 たちまち、感情の混線は真新しい戸惑いに上書きされた。大抵の子供は、唐突に始まる大人の奇行を想定して生きてはいない。私もまた、例に漏れない子供だった。


「ありゃ、お客さん知らないの? おじちゃんタクシーですよ。ささっ、乗った乗った」

「はあ? ヤだよ、おんぶとか……小さい子じゃないんだから」

「おんぶじゃありませんぜお客さん。大人の男ならみんな一人でタクシーくらい乗れます。いや? お客さんにはまだ早かったかなあ?」


 どう見ても図体のでかい男が珍妙な姿勢を取っているようにしか見えず、突拍子もない行動にただ呆れ果てた。道行く人がじろじろ見てきて恥ずかしい。頼むから止めてくれと心から思った。しかも五年生にもなっておんぶだなんて、ありえない。私のプライドは彼の提案を冷ややかに突っぱねていたが、生意気盛りの思考はある答えを導き出した。


「……おじちゃん、ぼくと遊んでほしかったの?」

「おう。遊びてえのよ。付き合ってくれや」

「どうしても?」

「どうしても」

「わかったよ。はあ。仕方ないなあ」


 私は大袈裟に溜息を吐いて、怪しげな運転手の背に乗り込んだ。


「さてお客さん、どちらまで?」

「えっ、知らないよ……」

「どこにでもお連れしますぜ。おじちゃんタクシーだからな」


 胡乱なタクシーはよいしょ、と掛け声ひとつで立ち上がった。私を片手で軽々支えながら、もう片方の手に紙袋を持ち直していた。

 私の視点は普段よりも少しだけ空に近づいた。彼が道を一歩進むたびに、胸の奥が少しずつ軽さを取り戻していくようで不思議だった。広い背中は世界に比べたらちっぽけな場所だっただろう。それでも何故だか、この世のどこよりも高い場所だと思えた。穏やかに揺られながら見上げると、雲が尾を引いていた。


「ねえおじちゃん、空見て。あれね、尾流雲っていうんだよ」

「へえ。良晴は物知りだなあ」

「積雲とか、他の雲が無いと出てこないやつなんだ。あのしっぽみたいになってるのは、雨のなりそこないなんだよ」

「ほう。なるほどなあ。そんな名前だったんだな」

「地面に届くまえに蒸発して消えるから、雨にはなれないんだ」

「なり損ないか……じゃ、急いで傘買う心配もないな」

「うん。今日は晴れだからね」

「そりゃあ良かった。晴れてるなら何でもできる。へへ、今ならどこに行って何をやってもお母ちゃんに怒られないぞ! 誕生日近いんだっけな。何か欲しいものあるか?」

「でも、おじちゃんにメーワクかけたら、ダメだから」

「逆だよ逆! おじちゃんが良晴にメーワクかけてえのよ。頼むよ。ダメって言うなら駄々こねちまおうかなあ。今ここで……」

「絶対やめろよ恥ずかしい! わかった! わかったってば!」

「よし! 言ったな! 男に二言は無しだぞ!」

「ニゴン?」

「要するにまあ、あれだ……一回決めたら逃げちゃならねえって事。今日はとことん付き合ってくれよな。さ、どこ行きたい?」

「ええと、じゃあ、でんき屋さん」

「お、何欲しいんだ?ゲームか?」

「着いたら教える」


 駅近くの繁華街を訪れた頃には、すっかり自分の足で歩けるようになっていた。赤いロゴの家電量販店に到着すると、私は胸を弾ませながら自動ドアを通過し、陽気なテーマソングに歓迎されながら真っ直ぐにカメラコーナーへと向かった。目当てのものはすぐに見つける事ができた。密かに欲しがっていたインスタックスミニ50を手に取り、じっと見つめて吟味した。貯めた小遣いとお年玉では少し足りず、購入を諦めていた品だった。


「お、チェキか? それ欲しいのか?」

「うん……」

「じゃ、早めの誕生祝いだな。おじちゃんが買ってやるよ」

「ほんとにいいの?」

「俺が良晴にプレゼントしたいんだよ。させてくれよ。な?」

「……ありがとう。これ、欲しかったんだ」


 青みがかったグレーのインスタントカメラは、小型で軽量な点が特徴のモデルだった。前年の秋に発売されて以降、雑誌や広告で見掛けるたびに、どうにかして自分の小遣いで購入できないものかと、胸の内でこっそり憧れていた代物だった。その頃は丸っこくカラフルなデザインが女性ファンから好評を博し、もっぱらインスタックス7モデルの方が持て囃されていたが、私の本命はあくまでも50だったので、他モデルには目もくれなかった。ごくシンプルな、装飾性のない機能美が私の目を惹きつけて止まなかったのだ。

 おじちゃんは替えのインスタントフィルムと共に私への誕生日祝いを買ってくれた。買い物袋を抱きしめた私の気分は、有頂天を究めた!


「おじちゃんありがとう! 一生大事にする!」

「嬉しいか! へへっ、良かった良かった! 誕生日おめでとう!」

「誕生日は来月だけどね! でも最高!」

「俺は気が早いからなあ。今のうちに言わせてくれ。十一歳おめでとう! バンザイ!」


 店の外でひとしきりはしゃいだ私は、次の行き先にある喫茶店を指定した。どうせ食べきれないでしょ、と母親が注文を許さなかった巨大パフェに挑みたかったのだ。おじちゃんは快諾したが、パフェが運ばれてきたときは首を上下させ全長を眺めてから「おいおいマジかよ……」と呆気に取られていて愉快だった。私はさっそく実現した夢の姿をチェキカメラに収めた。


「記念におじちゃんも撮っていい?


 おじちゃんは私の無邪気な願いに、暫く逡巡してから応じた。またもや何か思い煩いのある様子だったが、私が言葉を掛けるより前に陽気さを取り戻し、明るい声で撮影を求めた。


「おう、男前に撮ってくれよな!」


 おじちゃんはおどけたポーズを取って撮影者の私を笑わせた。その後、柄の長いスプーンを手にした我々は摩天楼のようにそびえるパフェを攻略しつつ会話に興じた。私は学校や家庭、友達との遊びについて語った。将来の夢は何かと訊かれたので、気象予報士だと答えると、おじちゃんはいたく関心したように何度も頷いた。


「そうか。そうか。さっきは楽しそうに雲の話してたもんな……! 勉強頑張れよ! おじちゃんは学がねえからよ、苦労しちまったし色々バカやったよ。良晴は頭が良い、おまけに根性もある。立派な人になるさ」

「うん、がんばる」


 おじちゃんは結婚しているのか、子供はいるのかと訊ねると、子供はいないが昔奥さんが居たという事を話してくれた。年上で、女優のなにがし――どうやら昔の女優らしいので想像は及ばなかった――に似ている美人だったが、その奥さんとは大喧嘩の末に別れたのだそうだ。


「ふーん。何でリコンしちゃったの?」

「しょーもない事なんだけどさあ、昔の嫁さん、ヒスイの指環欲しがってたんだよ。上等品のな。俺はその頃まだ若くて金も無かったんだが、苦労して指環買ってやったんだよ」


 おじさんは派手なシャツの内側から細いチェーンを取り出し、首に提げていた指環を見せてくれた。大粒の立派な宝石が嵌まっていて、つやつやとしたビロードのような緑色をしていた。綺麗だと思った。


「良いゆびわじゃん」

「だろ?でもな、ヒスイじゃなかったのよコレが。ベスビアナイトっつー全然別の石な訳。それで奥さん機嫌損ねちまって……」

「それでリコンされたんだ」

「ま、単純に俺の甲斐性が無かったって事さ」

「そう」


 綺麗なものなんだから、名前なんて気にしないで大切にすればよかったのに――内心抱いた素朴な感想は、敢えて口にしなかった。大人の男女の事情など少しも解ってはいなかったが、解ったような返事をしておいた。私は子供だったので気の利いたセリフを捻り出すことは出来なかったが、余計な言葉を重ねるほど幼くもなかった。


 挑戦の結果はというと、ブラックコーヒーを何度か追加注文したおじちゃんの奮戦により、我々は魔の塔を制覇した。


 喫茶店の次はゲームセンターに入った。最初こそ「俺は見てるだけでいい」と言っていたおじちゃんが、中々景品の落ちないクレーンゲームを前に躍起になっていったのが面白かった。ダンシングゲームは大の苦手のようで、酔っ払いのようなめちゃくちゃなステップを踏んでいた。当然、採点は惨憺たる結果となり、二人して大笑いした。一方、シューティングゲームではゾンビを次々と撃ちぬき、驚異的ハイスコアを叩き出していたので目をみはった。調子外れのアイドルソングを口ずさみながら連続でヘッドショットを決める光景は、実に痛快だった。野太い『モー娘。』の歌声は実にひどかったが……。


 陽が傾いてきた頃には家に帰る事にした。満足したというよりは、帰宅してからやりたい事が一つあったからだ。家路の途中、夕飯の材料を買いにスーパーマーケットに寄った。


「晩メシはどうする?何でも好きなの食っていいんだぞ」

「おじちゃんってさ、ご飯作れる?」

「俺か? そうだな……カレーくらいなら作れるぞ」

「じゃあカレー作ってよ」

「そんなので良いのか?」

「うん。今日はそれがいい」


 家に着き、おじちゃんを庭先に待たせて食材を冷蔵庫に入れた後、私は長らく使われていなかったグローブと真新しいボールを引っ張り出して庭に出た。


「おじちゃん、キャッチボールやりたい」

「お、いいねえ! 良晴のグローブか?」

「おじちゃんはこっちのボロいやつね。お父さんが昔使ってたんだって」


 おじちゃんは手渡された黒いグローブをじっと見つめてから、ひどく懐かしそうに呟いた。


「ああ、そうだったな……アニキのグローブだ……」

「お母さんが言ってたんだけど、お父さんはぼくが大きくなったらキャッチボールしたかったんだって。こっちのグローブはぼくが赤ちゃんの時お父さんが買ってきたんだ」

「ははは、アキラさんは気が早え人だったからな」

「アキラさん?」

「ん? ああ、アニキの事さ。良晴のお父ちゃんな、急ぎすぎだよ、全くよ……」


 おじちゃんはゆっくりと感触   を確かめるようにグローブを嵌めてから、元気いっぱいに号令を掛けた。


「それじゃ、いっちょプレイボール!」

「ただのキャッチボールなのに大げさだなあ」

「それもそうか!」

「うちの庭あんまり広くないんだから、はしゃぎすぎないでよね」

「了解です監督!」


 空は澄んだ青色を手放しながら、だんだんと夜に向かっていく。私たちは眩しい橙の光線を浴びながら、使われずにいた軟式ボールを繰り返し投げ合った。何度も何度もグローブで受けては、力強く右肩を振るって返した。この時間がもっともっと長く続いて欲しいと思った。おじちゃんも楽しそうに笑っていてくれた。きっと、夕陽色の笑顔だった。

 彼は昔の野球選手たちに喩えて私の投球を褒めたが、聞いた事のない名前ばかりだったので正直、喜べなかった。とはいえ、かつては父もきっとその人たちに憧れていたのだろう。私はひととき、遠い少年時代の彼等に想像を馳せた。


 永遠のような夕陽は、やがて地平の向こうに沈んでいった。


 遊び終わった後、おじちゃんは父の仏壇に手を合わせたいと願い出た。彼は背筋を伸ばして正座し、しばらくの間厳かに合掌していた。私も後ろに座って手を合わせた。父を偲ぶ彼の顔を見る事は叶わなかった。ただ、しんと静かな背中だけが目の前にあった。


 仏間から台所に移り、おじちゃんは張り切った様子でカレー作りに取り掛かった。悪戯心で母のエプロンを貸してみると狙い通り、壊滅的に似合っていなかった。しかも「ヨシくん! ごはんを作るわ! 待ってなさい!」などと裏声でふざけるものだから、目に涙が浮かぶまで笑い転げた。

 カレーの出来は絶品だった。やや大きめに切られた野菜とよく叩いて柔らかくされた肉が入っていて、食べ応えがあった。母の作るカレーとはまた一味違い、大層気に入ったのでレシピを書いてくれとせがんでみると、おじちゃんは快くチラシの裏に秘伝を授けてくれた――醤油とウスターソースを大さじ一杯ずつ。トマトジュースを一缶。今でも私は時折、伝授されたカレーを家族に振る舞っている。


 食事後に風呂場で水鉄砲遊びをしようと提案したが、「俺は長風呂だから先に入ってくれ」と苦笑しながら断ってきた。各自入浴を済ませてからは、日課となっていた朗読の練習に付き合ってもらう事にした。


「本の朗読? 毎日やってるのか」

「学校でやってるクラブ活動。ボランティアで老人ホーム行ったりしてるよ」

「ほお。んで、おじちゃんには何読んでくれる?」

「今はね、銀河鉄道の夜練習してる。長いから読む人は順番ずつ分けてんの」

「ごんぎつねとかと同じやつか?」

「全然ちがうよ。宮沢賢治。ごんぎつねは新美南吉」

「ありゃ、そうか」


 私は物語のあらすじを語ってから、蠍の火のエピソードを読みはじめた。主人公のジョバンニたちと同じ列車に乗り合わせた少女はある一匹の虫について語る。その虫、蠍は自らが生きるために他の命を多く奪ってきたが、ある日命運尽きていたちに食われそうになった。蠍が逃げた先には井戸があり、いたちからは逃れたものの、蠍は溺れた。死を前にして蠍は独り、後悔する。


 ――ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。


 ――ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。


 ――どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい。


 すると蠍の体は「まっ赤なうつくしい火」となり、夜闇を歩く地上の者たちを照らすようになった。


 読み終えた後、おじちゃんは魂を抜かれたような、ポカンとした様子でこちらをじっと見つめていた。やがて大きく息を吐くと、そうか、ああそうか、と俯いて小さく呟いた。


「ありがとな、良晴。いい読み聞かせだった」

「さそりの火、見てみたい?」

「本当にあるのか?」

「うん。さそり座のアンタレスって星の事。理科の先生が言ってた。さそり座の中で一番明るい恒星なんだよ。図鑑にも書いてある」


 私は自分の部屋から天体望遠鏡を持って外に出た。母が学生時代に使っていたお下がりだった。

 夜空は幸いにも晴れていた。私は先ず肉眼で天の川を探し、やがて星の群れの中に赤い輝きを見つけ出した。望遠鏡を覗きながらファインダー調整して蠍を捕らえると、まるいレンズの中にそっと閉じ込めた。


「ほら、さそりの火だよ。見てみなよ」

「どれどれ」

「赤く光ってる星だよ。他より少し大きい。どう? わかった?」


 おじちゃんは大きな身体を屈ませて真剣に望遠鏡を覗き込み、ややあって喜びの声を挙げた。


「お、おお! 見えるぞ! きれいなもんだ……ハハッ! チロチロ赤く光ってやがる。こりゃ話の通りだなあ。随分良いの見せて貰ったわ。ああ。こんなきれいなもの、おじちゃん初めて見たよ」


 おじちゃんはレンズから顔を離すと、遥か遠い星の光を見上げた。頭上の蠍は、彼に何を語りかけていたのだろうか。


 庭から戻ったあと、眠くなった私は先に寝ると告げた。おじちゃんが読み聞かせの本を読んでも良いかと訊ねてきたので、おやすみの挨拶をする前に快く貸し出した。


 翌朝、本を持ったままソファでぐうぐう眠るおじちゃんを起こした。学校に行く支度をしようとすると、おじちゃんはまた例のメーワクを持ち出してきた。


「今日は学校休みな」

「えっ、ダメだよ。怒られるよ」

「大丈夫だ。バレても怒られるだけだ。おもに俺がな!」

「……学校の先生は?」

「ようし、おじちゃんが担任の先生に話つけてやる」

「やったあ!」


 受話器を持ったおじちゃんは猫を百回撫で回すような声で担任教師に欠席の連絡を入れていた。


「ええ、ワタクシ坂内の親類の者でして。家庭の都合で明後日までお休みします。ええ、ご心配なく」


 担任と話をするおじちゃんを横目に、私はそわそわとした気分でいた。学校をズル休みするなど、生まれて初めての経験だったからだ。嬉しいけれどお母さんにこのことがバレたら、後で怒られるかもしれない……ああ、ズル休みの神さま、どうか先生が余計なことを言いませんように! 

 幸いにもいたいけな少年の祈りが通じたのか、受話器越しの悪事が露呈することは無かった。

 朝食を済ませた後、私たちは地元の遊園地に向かう事にした。おじちゃんは前の日に肌身離さず持っていた紙袋を仏間に置いたままにしていた。持っていかなくても良いのかと訊くと、今日は必要ないという答えだけ返ってきた。私は早く遊園地に行きたかったのでそれ以上追及しなかった。


 遊園地では開園から日が暮れるまで楽しみの限りを尽くした。帰りには「好きなだけ食えよ」と焼肉をご馳走になった。おじちゃんはビールを一杯だけ頼み、肉を頬張る私を嬉しげに眺めながら、実に旨そうに飲んでいた。


「おじちゃんももっといっぱい食べなよ」

「おじちゃんは良晴がたくさん食ってるとこ見てるだけで腹一杯だわ」

「ビールってそんなに美味しいの?」

「世の中には目ン玉飛び出るくらい高くて旨い酒もある。でもなあ、ビールってのは嬉しい時に飲むとどんな酒も敵わねえんだ。良晴も大きくなれば分かるさ」

「じゃあ、ぼくが大人になったら一緒にビール飲んでくれる?」

「おう! そん時はお祝いだな! 楽しみだなあ」


 帰宅後、前日から気になっていたおじちゃんの謎に迫るため、ある企てを実行した。私は観たいアニメがあると言い張り、おじちゃんを先に入浴させた。

 まさか、ロボットや宇宙人だったりして? 

 私は知られざるおじちゃんの正体を空想し、期待感を高めながら風呂場に突入したのだった。

 おじちゃんは大層驚いたようで、頭に泡を被ったまま硬直していた。


「今日再放送だったから観なくていいや!やっぱりぼくもお風呂入る!」


 振り向きながら固まるおじちゃんの背中を見た。機械仕掛けでもなければ異星人の皮膚にも見えなかったが、立派な登り龍が堂々とこちらを睨んでいた。


「よ、良晴……」

「うわ! 超かっこいい……!」

「えっ?」

「ぼくもドラゴン好きだよ!」

「あ、ああ。そうだったな。おじちゃんもな、ドラゴン好きなんだよ。かっこいいだろ?」

「うん!」


 私はまだ幼かったが、彼の背に浮かぶものの意味を全く知らないわけではなかった。いつか観たテレビドラマには、身体にイレズミのある恐ろしげな男たちが出てきた。彼等が何か良からぬ事をする人々だという事は漠然と認知していた。だが、この時の私には

 、かっこいいおじちゃんにかっこいいドラゴンがこの上なく似合う事実以外、何も必要なかった。背中の龍をタオルで綺麗に洗って流すと「俺は幸せ者だなあ」と喜んでくれた。どんな真実を隠していたとしても、おじちゃんが私に向ける言葉にはなんの企みも無いと思えた。


 最後の夜は仏間の畳に布団を二つ並べて眠る事にした。私は夜更かしするつもりでいた。できれば、眠りたくなかった。明日が来ればおじちゃんが遠い外国に旅立ってしまうのだと思うと、過ぎゆく時間があまりに惜しかった。


「ねえ、おじちゃん。おじちゃんはどこにお仕事行くの? アメリカ?」

「そうだな、最初はタイだな。その後また違うとこに行くかもしれないけどな」

「タイって暑い国でしょ」

「ああ、海が綺麗なとこに行くんだ」

「いいなあ」


 何か喋ろう、次の言葉を。話を続けていられたら、朝が遅れてやって来るような気がした。しかし瞼は次第に重くなる。一日はしゃぎ遊んだ疲れには抗えず、私は深い眠りに就いた。


 翌朝は共に朝食を取ってから、イルカショーを観にいく事に決めた。海を臨む駅で降り、水族館に入場した私は胸を躍らせながら色々な写真を撮った。南国の魚たちを眺めたときは、タイの海にも棲んでいるのだろうかと考えた。


 イルカショーを満喫してから楽しい水族館を去ったあと、私たちは最後に海岸を散歩する事にした。おじちゃんは革靴を、私はサンダルを脱いで波打ち際の濡れた砂を踏んだ。暮れていく空と水平線が遥かに広がっていた。


「おじちゃん、ありがとう。すっごく楽しかった」

「おいおい、俺のセリフ取るなって。おじちゃんのワガママに付き合ってくれてありがとうな」

「あのさ、タイって遠い?」

「アメリカよりは遠くない」

「タイの海ってここより綺麗?」

「ああ。ここも悪くないが、クラビってとこはそりゃあもう綺麗だよ」

「ふうん。見てみたいな……」

「なあ、良晴。おじちゃんと一緒に来るか?」


 ささやかな問い掛けは、潮風に淡く溶けていくようだった。短く過ぎ行く時間、私は多くのことを想像した。心の奥に夕凪が訪れて、少しだけ迷った。私はひと時、波の音を忘れていた。おじちゃんは海の向こうだけを見続けていた。


「行ってみたいけど、無理かな。ぼくパスポート持ってないんだ」

「なに、船で行けばいい」

「でも、お母さんが心配するよ。じいちゃんも心配すると思う。いつも寝てるけど……それに、夏休み友達と遊ぶ約束してるし、また学校にも行かなきゃ。ボランティア活動だってある。読み聞かせの……だから、ぼく……行けないよ……」


 隣に立つおじちゃんは、あまりにも遠くを見ているようだった。自分が一緒に行ってやらなければ、この人は世界でひとりぼっちになってしまうかもしれないと思えて仕方なかった。何だか、ただのさよならではないような気がしてたまらなかった。彼はきっと遠く遠く、どこかさみしい場所を目指していたのだろう。それでも私は、私の愛すべき日常を手放せなかった。バイバイ、またね、と言うだけの事がこんなにも悲しいのか。十一歳を前にして、私は初めて思い知った。俯いた私の頭を、大きな手が撫でた。


「冗談だよ。変な事言ってごめんな。良晴と居るのがあんまり楽しくてさ。会えて良かったよ。ありがとう」


 私はおじちゃんの派手なシャツに顔を押し付けて悲しみを隠した。おじちゃんは「泣くな泣くな」と背中をさすってくれた。


「おじちゃん、また会えるよね」

「うん。また会えるさ」


 そのあと私たちはゆっくり駅まで歩いて行き、待合室の椅子に座って親戚達の到着を待った。私たちにはそれぞれ別の時間が動きだそうとしていた。


「ホトケさんの部屋に紙袋あるだろ。あれ、俺のじゃないんだ。元々アニキから預かっててさ、ずっと返したかったんだよ。雪恵さん退院したら渡してくれ」

「仕事で使うんじゃないの?」

「いや、やっぱり使わなくなった。それと、この指環は良晴が持っててくれ」

「ダメだよ、大事なものでしょ」

「おじちゃんはもういいんだ。良晴にやるよ。センベツ、センベツ。いつ日本に戻れるか分からないから、寂しくなったらおじちゃんだと思ってくれ」


 おじちゃんは指環の通ったチェーンを私の首に掛けた。つやつやの緑色は、少し暖かかった。


「うん、わかった」


 別に寂しくなんかないよ、と言いかけた虚勢が崩れて消えるほど、さようならがいっぱいに膨らんで、私の胸を詰まらせた。別れの前、おじちゃんは私にひとつ問い掛けた。


「なあ、良晴。おじちゃんは、良い人だと思うか?」


 まるで明日の天気でも訊ねるかのような口調だった。

 私は直ぐには答えられなかった。子供の自分にとって、世の中は分からない事ばかりだと知っていた。だからこそ、安易に肯定できるほど無邪気ではいられないと悟ってしまった。それでも私は子供なりに誠実な答えを心の内から探し当てた。


「よく分からない。でも、良い人だったら嬉しい」

「そうかい」


 おじちゃんは色眼鏡を外すと、どこか安心したような顔で笑った。


「元気でな」


 私たちは笑顔で手を振り、互いを見送った。


 それからしばらく親戚の世話になりながら暮らし、やがてすっかり元気になった母と二人の生活が戻った。


 季節が何度も変わり私の幼年期は過ぎ去っていった。中学生になった時、『良晴くん入学おめでとう。勉強がんばれ』とだけ書かれた短い手紙を受け取った。おじちゃんからだった。今頃はどこの国で暮らしているのかと母に訊ねたが、母はよく知らないと言うばかりで答えてくれなかった。


 高校二年への進級を控えた冬の頃だった。私は家計を考慮し、進学を諦めて卒業後に就職する旨を母に伝えた。母は「お金の事なら心配ないから大学に行きなさい」と言うので、家庭では毎日のように口論が絶えなかった。ある日、母は食卓の上に一通の封筒を置いた。驚くべき事にそれは、刑務所から届いた郵便物だった。


「これはね、良晴へのお手紙なの。読んで」


 私は恐る恐る中身を検めた。便箋を摘まもうとする指がにわかに震え出した。私は手紙の差出人が誰なのかを予感していた。


『良晴くんへ


 今になって突然このような形でお手紙送ることをおわびします。申し訳ないです。さぞおどろく事かと思いますが、それだけではありません。私は良晴くんに謝らなければならない事が沢山あります。

 私は、悪い行いを重ねてきました。犯罪者としてタイホされて今に至ります。今思うと、世間様に顔向け出来ないような恥ずかしい生き方をしてきました。女子供に手出しをしない以外たいていの悪いことはやってきた男です。雪恵さんも知らないような事ばかりです。良晴くんになるべくショックを与えないよう、大きくなるまで雪恵さんには服役の件を秘密にしてもらっていました。

 覚えていないかもしれませんが、私が昔雪恵さんの家に置いていった紙袋の中にアキラさんから借りたお金や、お金になる品物が入っていました。

 私は最初そのお金で海外へ逃げるつもりでした。そろそろ捕まるだろうと思っていたからです。私は最低の人間です。軽ベツされて当然です。しかしどうかお願いします。最後までこの手紙を読んで下さい。

 もう日本に戻らないだろうと考えると最後にアキラさんの奥さんとお子さんに一目だけ会っておきたいという気持ちになりました。私が雪恵さんの家にごあいさつに行こうとした丁度その日に、男の子の声で留守電がありました。その子が良晴くんでした。』


 記憶の中にある印象の彼にはあまり似合わない、丁寧で控えめな文字だった。私は彼の語る真実をただ夢中で辿っていった。混乱はあれど、怒りも軽蔑も生じる事はなかった。


『あなたのお父さま、アキラさんは私の兄ではありません。私はうそをついていました。ですが、アキラさんには昔からお世話になっていて本当の兄さんのような人でした。私の家は貧しく、父親は毎日私を殴りました。居場所がなかった子供の私に生きていく力をくれた人がアキラさんでした。だのに私は大人になると自由と金が欲しくて悪い世界に足を入れました。私は弱い人間です。ひきょうな人間です。暴力の世界でのし上がればもう二度と誰にも傷つけられないと、間違った思い込みをしていました。

 アキラさんが亡くなってから私はますます荒れるようになりました。良晴くんが覚えていないくらい小さい頃、アキラさんのお葬式で私は一度あなたに会った事があります。泣いているお母さんの顔にティッシュを当てようとする小さな子を見たとき、この子には自分のような人間には関わらないで育ってほしいと思いました。私はそれから何年も雪恵さんにお会いするのを避けていました。けれども、これが最後だと思えば少しくらい会っても許されるだろうかと自分勝手に考えました。それから良晴くんと過ごした時間は私にとって一生忘れられないものになりました。

 私はいつの間にか、計画通り海外へ逃げるかお金を返すか深く悩み始めていました。雪恵さんたちにお金が必要だと分かると、自分が何をすべきなのかが分かりました。ただ、勇気だけが足りなかったのです。

 私も一時期は一生を共に暮らしたい女性と結婚をしました。父親になり幸せな家庭を築けば悪い世界から足を洗って人生をやり直せるだろうかと考えた事もありましたが、結局のところうまくいきませんでした。それから私は誰かを大切にするという幸せを遠ざけるようになりました。もしもまた壊れてしまったら、弱い私は悲しみに耐えられないからです。

 しかし、良晴くんが聞かせてくれた銀河鉄道の夜を読んでから私は決心することができました。さそりの火の話を聞いた後、私は本当の幸せから逃げるのをやめようと思いました。

 あなたとは血がつながっているわけではありません。家族でもありません。それでも良晴くんとの時間は私にとって特別でした。

 最後に海を歩いた時、おじちゃんといっしょに来るかと言ったのを覚えていますか。良晴くんなら絶対に断ってくれるだろうと思いました。私はあの時完全に迷いを捨てる事ができました。お金を返して警察に出頭するのが少しも怖くなくなるくらい、良晴くんの事が大切になっていました。だから良晴くん、夢を叶えて自由に生きて下さい。


 私がお金をお返ししたのはおじいさんや雪恵さんのためだけではありません。良晴くんの将来のためにも必要だからです。私は悪い方法でお金を得た事が何度もありますが、昔アキラさんから借りた分だけは真っ当に稼いで貯めました。私はうそばかりついてきましたが、これは絶対に本当のことです。安心して使ってください。勉強がんばって。


 最後になりますが、刑務所に入ってから私は少しずつ本を読むようになりました。特に銀河鉄道の夜は今でも、何度も何度も読んでいます。星座を見る事は叶わない暮らしですが、物語を読めばいつでもアンタレスが光っていたのを思い出せます。

 悪いおじちゃんの事は忘れて良晴くんは幸せに暮らして下さい。最後まで読んでくれて、本当にありがとう。お元気で』


 私は今、長年の努力が実り気象予報士としてニュース番組に出演している。人前に出たい気持ちはあまり無かったのだが、番組に出るようになれば私の姿が刑務所のテレビにも映るかもしれないと思い、大学卒業後は放送局に入社した。下積み期間が長く、同期に比べると遅い地上波デビューだったが、妻の支えもありようやく出演が決まった。私はいつかまた、おじちゃんと共に夜空の星を観る日が来ると信じている。もちろん、罪を償う事は簡単では無い。悔い改めても過ちが消えるわけではない。しかし、私は希望を抱く。彼の過去を救う事が出来なくても、かつての彼のように社会の暗がりで迷う少年少女たちが少しでも明かりに近付けるよう、少年院を訪れて読み聞かせの楽しさを教える活動を始めた。ささやかな試みかもしれないが、子供たちに小さな光が届き、やがて人生を照らすきっかけになることを信じている。


 人は誰でも蠍の火を探すことを許されている。


 おじちゃん、あなたは父の弟ではなかった。それなら私は将来、自分の子供にあなたを年上の友人として紹介するだろう。

 

 その日まで、元気で。

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おじちゃん ぼん・ないある @bon-ny-ar

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