第26話 小さな芽がぴょこり

 今日も今日とて書類に記載された数字を計算しては、不正がないかと確認する作業に没頭していると、ハルジは奇妙な気配を感じ取る。それは彼の斜め後ろ辺りでしたので、ゆっくりと顔を動かして確認してみて――ぎょっとした。同じ職場のスヴィーンホフジ財務官が気味の悪い笑顔を浮かべて、ハルジを覗き込んでいた。


「何か御用ですか?」


 彼とハルジは親しくはないので、雑談を振られることはない。となれば、業務に関する質問か何かかだろうと推測する。


「いやぁ~、今回の件は残念だったねえ、カウピくん?」

「今回の件とはどのようなことですか?」


 他人に残念がられるような出来事は常日頃からあるので、検索結果が多すぎて見当がつかないハルジは首を傾げる。生え際がそれなりに後退しつつあるスヴィーンホフジは毛量の少ない前髪をかきあげ、ぬめっとした視線をハルジに送ってきた。ハルジの隣席のブローミ財務官がそれを目にしてしまい、ぶるりと身を震わせていた。


「勇気を振り絞って立候補をして、見合いに挑んだ件に決まってるじゃないか。残念ながらステルキ准尉に相手にされなかったらしいと、そこら中で噂になっているから、君が可哀想になってね……」

「僕は勇気を振り絞ってはいません。熟考の末にステルキ准尉との見合いを決断したまでです。そして、広まっているらしい噂はでまかせです。ステルキ准尉は誠実に見合いに付き合ってくださいましたよ」


 己の所業が原因で他者の不興を買い、陰口を叩かれることがある。そして、面と向かって罵倒されることもある。そのような経験を沢山積んできたハルジは金剛石の如く硬い精神と、鈍すぎる神経を持ち合わせているので、噂の主になっていることなど、どうということはない。

 だが、間違いを修正したくなって、ハルジは至極真面目に事実を告げる。


「ステルキ准尉と話し合った結果、顔見知り以上の関係に発展することはなさそうだと分かり、お互いに納得した上で破談となりました。僕は決して、彼女によって可哀想な目に遭わされてはいません。その噂を流した方はステルキ准尉に大変失礼なことをしていますよ」


 いつかの礼を彼女に直接伝えたかった。唯それだけの為に見合いを利用したと馬鹿正直に打ち明けたハルジに、彼女はハルジの行いに苦言を呈することもなく、始まると同時に終わった見合いを楽しい食事会にしようと心を砕いてくれたのだ。

 自分と違って人間が出来ているステルキ准尉を悪く言われるのは、気に入らない。ハルジは珍しく、むっとした表情をして、隣に佇んでいるスヴィーンホフジを見上げる。


「財務院中に広まっている噂の出所は王太子の侍従らしいから、真偽は確かだと思うけどねえ?」


 らしい、というだけで噂の真偽を確信してしまうのは如何なものかと突っ込みを入れたくなるが、ハルジが口を開く前にスヴィーンホフジが言葉を続けた。


「強がることはないさ、カウピくん。失敗は誰にでもあるものさ。君は特に人間関係の失敗が多いんだから、また一つ失敗が増えただけ!落ち込んでいる暇があったら次に行こう、次に!」


 スヴィーンホフジが「他人の不幸は蜜の味、うふ!」とでも言いたそうな表情で、大して親しくもないハルジの肩を叩く。


(他人の心の機微に疎い僕でも理解出来る。この人は僕のことを下に見ていたんだな……)


 明確に見下しています、と言われている訳ではないが、何となく伝わってくるとそれとなく気分が悪くなるものなのだなと、ハルジは知った。


(職業と家柄に恵まれていて、容姿も程々のカウピですら簡単に結婚出来ないんだ、俺には未だ好機があるに違いない!)


 スヴィーンホフジは四十代後半、結婚歴無しの独身男性である。庶民の家庭に生まれた彼は安定している人生を求め、苦学の末に役人試験に合格した。役人となってしまえばこちらもの、直ぐに結婚に出来るだろうと彼は高を括っていたのだが――現実は甘くなかった。けれども結婚の女神は未だ自分を見放してはいなかったようだ、と、スヴィーンホフジは勝手に思い込む。


(ははは、これで気分良く結婚活動に勤しめるというもの!今週中に適当に男性側の人数を揃えて、女性たちを食事会に招くぞ!!!)


 若く美しい女性との結婚を夢見て幾星霜のスヴィーンホフジは気付かない。うら若き美しい乙女は、草臥れたおっさんとの恋愛も結婚も求めておらず、適当に愛想を振りまいておけば勝手に食事を御馳走してくれたり、ちょっとした値段の贈り物をくれる臨時の財布程度にしか認識していないという残酷な現実に。


(恋愛と結婚を夢見てる女の子は意外と相手を観察してるわよ)


 良い女の定義が何十年も更新されないおっさんでいることを改めたら、結婚は出来るかもしれないわね。ブローミ財務官は机の引き出しから出した耳栓をして、外見はさておいて内面が醜いおっさんの言葉を遮断すると、中断してしまっていた仕事を再開した。


「然しステルキ准尉は見る目がないねえ。カウピくんは性格に多大な問題はあるものの、役人という安定した職業に就いているし、何よりカウピ商会の会長子息だ。将来が安泰なのは目に見えているのにねえ……」

「上の方々の意向が変われば役人の仕事をクビになる可能性はありますし、何れ家業を牛耳る長兄の経営手腕によっては家業が傾いて破産の上に一家離散という可能性もありますので、将来安泰とは言い切れませんが」


 その時、執務室の本棚の前に佇み、過去の帳簿を調べていたハルジの長兄が大きなクシャミをして、腰にぎっくりとした違和感を覚えた。そして、好き勝手に語ることに酔いだしたスヴィーンホフジが推論の展開を続ける。


「聞くところによると、ステルキ准尉はクヴェルドゥールヴ中将に想いを寄せていて、彼が結婚しても諦めきれずにいるのだとか。若しかしたら……彼を忘れるために見合いをしたいと王太子に縋りついたのか……恋い慕う相手は名門クヴェルドゥールヴ家の嫡男、片やステルキ准尉は運が良いだけの庶民。望みがないと分かっていても想い続けてしまうのは……切ないねえ……」

「……噂話だけで全てを理解したつもりになり、憶測で相手を侮辱するのはとてつもなくみっともない真似だと思いますよ、スヴィーンホフジさん」


 ハルジは勢い良く席を立ち、頭上のスヴィーンホフジを睨みつける。何においても反応が薄いハルジの珍しい行動に、スヴィーンホフジはたじろいだ。


「侮辱なんてしていないよ、誰もが噂にしていることを言っているだけだ。それをみっともないだって?……ああ、ステルキ准尉ではなくて自分が侮辱されていると思ったのかな?他人に陰口を叩かれ慣れているカウピくんでも落ち込むことはあるだろうからと励まそうとしただけさ」

「――おやおや~、スヴィーンホフジくん」

「ひっ」


 気配を消して、背後から現れたクラキ室長に驚いたスヴィーンホフジの心臓が止まりかける。クラキ室長は常に顔色が悪く、突然視界に入ると動く死体に見えてしまうことがあるのだ。


「噂話は楽しいですね~。真偽なんてものはどうでも良くて、曖昧な状態で好き勝手に喋るのが実に楽しい。ですがね~、此処は特別会計室という職場でして、常日頃から程々に忙しいんですね~?カウピくんに絡んでいる暇があったら、是非とも職務に励んで頂きたい」

「失礼致しました、直ちに仕事に戻ります!」


 真冬の氷柱のように冷たく鋭い視線に射抜かれたスヴィーンホフジが大慌てで自席に戻り、仕事に手をつけたのを確認してから、クラキ室長はハルジに向き直る。先程までの冷気は何処へやら、彼はいつものような死んだ魚の目をして、薄い笑みを浮かべていた。


「助けてくださって有難う御座います、クラキ室長」

「どういたしまして~。まあ、私が出しゃばらなくても貴方はいつもの調子で撃退するだろうと静観していたのですがね~、少し雲行きが怪しくなったのと……まあ、それなりに耳障りだったものでね、つい~」


 スヴィーンホフジには彼の自尊心を傷つけないように配慮しながら注意をしておくので、ハルジからはこれ以上は追及しないでほしいと言い残して、クラキ室長は足音を立てずに自席へと戻っていく。


(……ステルキ准尉を悪く言われるのが、自分のこと以上に腹が立ったような気がしたのは……気のせいだろうか?)


 ハルジにとって自分の為に行動することは当たり前だが、誰かを想って行動を起こすことは非常に稀なこと。自分らしくない行動をしたことに、ハルジ自身が驚いている。アトリを通して知っていただけのステルキ准尉に直接出会い、会話をしたことで、ハルジの中で何かしらの変化があったのか、起こり始めているのか。経験が少ないハルジには判断が付かず、もやもやとした気持ちを抱えたまま、仕事を再開した。

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