第7話 物陰にハルジあり

 腹が減った。そろそろ限界が近い。これ以上我慢すると、仕事の効率が劇的に悪くなる。

 厚めのレンズが付いた眼鏡をかけたカウピ財務官ことハルジが隣の席にいる上司に「昼休憩に行って参ります」と伝えると、上司は書類から目を離さずに「はい、いってらっしゃい」とだけ答えてくれた。

 許可が下りたので、遠慮なく休憩に入るとしよう。ハルジは席を立ち、財務院庁舎にある食堂へと向かった――地の底から響いてくるような音を腹から発生させてから。その場にいた上司や同僚たちはびくりと身を強張らせるが、ハルジの腹の虫には慣れているのか、直ぐに仕事を再開していた。羽ペンを走らせる音、分厚い本のページを捲る音だけがする静かな空間に元通りだ。




 ざわざわとしている食堂内では多くの役人や関係者がのんびりと昼食を楽しんでいるが、仕事の昼時の最も込み合う時間帯が過ぎるのを待っていただけあって、ちらほら空席があるのを見つけられた。入口の前に設置された看板で献立を確認して、虚ろな目をしたハルジは中に入る。そして厨房近くの勘定台まで向かい、看板娘と噂される若い女性に本日の昼食を注文した。


「よう、カウピさん。空きっ腹で死にそうになってるなあ、食後にワッフルでもどうだい?新入りに練習で作らせたら作りすぎちまってさ、消費するのを手伝って欲しいんだわ」


 厨房から顔を覗かせているのは、白髪の口髭が立派なウクシ料理長。使用期限の近い小麦粉を使いきろうとしたら、想像していたよりも量が残っていたらしい。料理人たちの賄いとして利用するだけでは食べきれないと思っていたところでハルジがやって来たので、ウクシ料理長は声をかけたのだそうだ。

 ――やあ、役人のお兄さん。辛気臭い顔してますね、美味しい料理でも食べて御機嫌になりませんか?

 以前も同じようなことがあって、ハルジは料理の消費に大いに貢献したことを思い出し、苦い顔をする。その時にハルジに声をかけて、半ば強制的に手伝わせたのは別の人物だったが、それが縁でウクシ料理長とは顔見知りになったのだ。食堂だけの付き合いのウクシ料理長は、人付き合いに難があるハルジに気軽に声をかけてくれ、時折おやつもくれる貴重な存在。決して餌付けされた訳ではないと自分に言いきかせて、努めて冷静に返事をする。


「畏まりました、出来る限りはお手伝い致しましょう」

「おお、有難い!助かるよ、カウピさん。因みにワッフルに添えるのはコケモモジャムとクリームなんだが、量はどれくらいがいい?」

「そうですね、一先ず三人前は頂きたいです。それでも僕の胃に空きがあるようでしたら、追加注文します」


 自分の胃袋は底無し沼ではないのでと答えれば、ウクシ料理長はカラカラと笑って厨房へと姿を消していった。ハルジも空いている席に着き、懐から出した本を読んで、料理が出来上がるまでの時間を潰す。こうすれば周囲の席に他人が沢山いても、彼らの存在や周囲の雑音が気にならなくなるからだ。

 暫くすると両手に皿を持った幾人かの給仕がやってきて、四人掛けの席の机に所狭しと料理が並べられる。一枚目の皿はペースト状のジャガイモとコケモモジャムが添えられた、蕩けたチーズのかかった肉団子。二枚目の皿は目玉焼きが載せられた、ジャガイモと玉葱、角切りの豚肉の炒め物。三枚目の皿はぶ厚く切られた鹿肉ステーキ。それらの他には、籠盛りの穀物たっぷりの黒いパンがある。

 どう考えても、貧弱そうな役人がたった一人で食べる量ではない。無理をして粋がっているか、後から来る人の分を先に注文したのだろう、という視線を受けつつ、ハルジは静かに食事をし始める。

 ハルジの隣席にいた三人連れの男性役人は揶揄い雑じりの目で彼の様子を眺めていたが、一定の速度で料理が彼の口の中に吸い込まれていくにつれて顔色を悪くしていき、全ての皿が空になる前に彼らは離席していった。

 そうして他の客もいつの間にか姿を消していって、ハルジの周囲には静寂が訪れていた。


「はいよ、食後のワッフルだ!リンゴジュースはサービスだよ」

「有難う御座います」 


 頃合い良く現れたウクシ料理長の手には、山盛りのワッフルにジャムとクリームがどっさりと添えられた皿。どう見ても三人前ではないような気がするのは気のせいか。だが、脳内の満腹中枢が麻痺している状態のハルジの敵ではない。


「早食いってわけじゃないのに、食べるのが早いんだよな、あんた。良い食いっぷりだから、作る側としては嬉しいぜ。ところで未だ腹に空きがあるんだったら、次は胡椒とチーズソースでワッフルを食べてみないか?俺らの国じゃワッフルと言えばジャムだが、他所じゃそうやって食べる国もあるらしいって聞いてな。俺も厨房の連中も試してみたんだが、なかなか美味かったぜ?」

「ついでに実験台として採用されたのですか、僕は?」

「まあな。でも美味しければ文句は無いんだろ?」

「美味しいものにケチをつけるなどという愚行はありえません。ワッフルのお代わりをください、是非とも胡椒とチーズソースで」


 あんた面倒臭いけど結構好きだぜと言って、料理長はお代わりのワッフルを作ってくれる。酸味の効いた、甘さ控えめのコケモモジャムとは違って、ほんのりと塩味を帯びたチーズソースのこってり感と、全体のバランスを整える胡椒のピリッとした風味がワッフルをより美味しく仕上げていた。お代わりのワッフルはハルジにまた食べたいと思わせる代物で、彼は多分に満足した。





(……調子に乗って食べ過ぎてしまいましたね)


  頭脳労働をしてるうちにまた腹が空くだろうからと、ウクシ料理長におやつを貰ってしまった。ハルジはそれを大事に抱え、食べ過ぎてぽっこりと出てしまった腹を摩りながら、食堂を後にする。


(軽く散歩でもして、胃を落ち着かせてから戻るとしましょうか)


 机仕事の姿勢をとると限界まで広がった胃が圧迫されて、折角食べた昼食が逆流して大惨事になると危惧して、ハルジは何となく官庁区画内を歩くことにする。

 財務官として働くハルジは財務院特別会計室に所属しており、職場である財務院庁舎は幾重もの城壁に囲まれた旧市街の最も外側に位置する官庁区画内に建っている。官庁区画は財務院の他にも行政に関わる庁舎を数多く有しているからか敷地面積も広い。散歩でもして時間を潰すにはうってつけの場所だ。

 冬の訪れも間近の曇り空の下を歩いているうちに、歩行程度の振動で危機感を抱かせてきた胃が落ち着いてきた。これならば問題無く業務に励めると判断して、貴族区画へと続く城門近くまでやって来ていたハルジは踵を返す。


「なあ、知ってるか?”猪殺しのステルキ”が王都に戻ってきてるらしいぜ」

「”猪殺しのステルキ”って、”自滅のワルツ事件”の関係者の?」


 財務院庁舎の玄関を通り抜けたハルジが職場がある三階まで階段を登り始めた時、誰かの話声が聞こえた。


(”自滅のワルツ事件”……)


 根拠のない絶対の自信、別の方向に才能がある剣術、体力不足による転倒の三拍子を揃えたハムセール王子が自滅した一件は”自滅のワルツ事件”と命名された。その必要はあるのかと思うし、名付けた人物のセンスも疑いたくなる。そして緘口令が敷かれた軍関係者ではなく、お喋り好きの王宮関係者から情報が流出し、やがて官庁関係者にまで知れ渡ることとなり、噂話に興味の無いハルジの耳にも届いて、どうしてか記憶されていた。

 彼は踊り場で談笑している二人組の横を通り過ぎ、二階から三階へと続く階段の物陰に潜んで、聞き耳を立てる。


「門番をしてる幼馴染がさっき見たって言うんだよ、ステルキがクヴェルドゥールヴ中将に連れられて王宮に入っていったのを」

「ステルキが中将と一緒に?……ああ、そうか。ステルキの後ろにはクヴェルドゥールヴ家がついているんだったな。国王陛下の怒りを買って地方に左遷されたから、もう王都に戻ってくることはないんだろうな~って同情してたのに……良いねえ、後ろ盾がしっかりしてると不祥事があっても直ぐに元通りにしてもらえるんだから」

「養子縁組はしてないから身分は庶民のままでも、扱いは上流階級と同じか。俺も名家の人間に取り入って、楽な人生を送りたいね」


 好き勝手に話をする二人組の笑い声に、ハルジは思わず溜め息を吐いていた。

 ――野営地に迷い込んだ猪の子供を逃がしてあげたっていう話が盛りに盛られて、素手で猪を倒したことになって、陰で”猪殺しのステルキ”なんて呼ばれているらしいんですよ、あの人。犬や猫に噛みつかれてもにこにこ笑ってるような人が、素手で猪を倒せる訳がないのに。

 そう言って苦笑していた青年を思い出して、ハルジは筋肉の動きが乏しい表情を和らげる。ああ、良かった。自分は未だ、彼の穏やかで柔らかい声を鮮明に記憶していたと。

 他人に聞かれているとは思っていないらしい二人組の話題は次第に”猪殺しのステルキ”からクヴェルドゥールヴ中将、中将の妹に移っていく。それ以上は聞いている気が無くなったハルジは静かにその場を去る。


(もう何年も経っているのに、あの人は未だ”猪殺しのステルキ”と呼ばれていますよ、アトリ)


 三階の廊下を歩いているうちに特別会計室の扉の前に辿り着く。深呼吸をして、カウピ財務官の仮面を貼り付け直してから、ハルジは塗装が剥げたドアノブに手をかけた。

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