冬の花々

柚木呂高

冬の花々

 都会の街には冬ざれと云う風景はないのだと藤次郎は思った。灰色の空に街灯が煌々と照り、雲の影を色とりどりに照らすさまはおおよそ侘しさとは無縁であるようであった。その侘しさのなさに孤独感を抱えて藤次郎は目的もなく街をぶらついている。尻のポケットには読みもしないのに表紙の剥けたくしゃくしゃの文庫本が突っ込んであって、こいつは本という一つの世界をポケットに持ち歩いているという実感のためだけの小道具である。藤次郎はスマートフォンを取り出して一定時間毎にソーシャルネットワークサービスを確認するが、これもさほど意味のある行動ではなく、ただに孤独であることを紛らわすことの動作に過ぎない。

 雪も降りそうな重い雲が彼の頭上で影を落としているというのが、なんとも零丁れいていなさまで藤次郎の体の輪郭をなぞって強調しているようであった。というものこの男、何をするにも中途半端。バンド活動、執筆、スポーツ、いずれもちょいと触ってはわかったふうな態度だけはいっぱしで、なにものもモノになっていないとあれば、誰がそれを指摘せずとも自分の中にしこりができて、それが寒さで痛むと云った風情である。モノになっていないが何かをやっていた、誰かがやってなかったときに自分がこれをやっていたという主張する行為ばかりが代償過度となってバランスを取っていたが、そのしこりがグッと膨らんで限界になって、思わず家を飛び出して街を歩き回ってみたところで、どうにも気が紛れるような気配はないと云った次第。

 自動販売機の明かりに釣られて缶コーヒーを買って公園で休んでいると、ふと不思議な光景が目に入った。冬木の並ぶ公園に一つ、随分と早い梅の花が咲いている。おや、珍しいと思ってスマートフォンを取り出し写真を撮ろうとしたところ、みるみる散って寂しい裸の木になった。

「なんだ、人がいたのね」と若い女の声がして、見ると、木の側のベンチに座った女性が目に入った。年の頃は藤次郎よりも少し若い二十代前半、ふわりとした栗色のボブカットに大きなヘッドフォンを付けて、服装は兎柄のブラウスにチェスターコートと云った出で立ち。美人というよりは可愛らしいその女性は木に触れていた手を離して、藤次郎の方へツカツカと歩いてくる。

「はい、ポン」

 女性はそう言うと藤次郎の缶コーヒーに指先で触れて、飲み口に梅の花を咲かせて見せた。

「うわ、なんだ、面妖な。手品師か?」

「タネも仕掛けもございません~。シケた面してるね。こんな寒い日じゃ仕方ないかァ? 寒いと色んなところが疼いちゃうもんねェ。」

「知ったような口を利くやつだな。あいや、それよりこの花は何だ。どうやってるんだ」

「パパパパパ、ポン」

 女性は両手のひらを広げると、花を次々に出現させて、そいつらが咲いた端からパッと散って二人の眼前をひらひらと舞い、花びらを挟んで二人の目が合った。

「私は花咲はなさかお嬢さんの雨音あまねちゃんです。今の時代、花を咲かせるのは爺さんでもましてや婆さんでもなく、若い女の人なんだねェ」

 どう見たって手品にしか見えないが、先の梅の花といい、今見せられた花びらの舞といい、どうにもタネがあるようには見えない。いや、藤次郎も手品のことは門外漢故にタネがないように見えることが即ち手品であることの証左であるとすれば、そう納得することもできようが、雨音という女の不可思議な雰囲気に気圧されて、花咲、そう信ずるほかないような気持ちになる。

「お兄さんは本当にシケた面してて心配になってくるよ、もっぺん咲かせようか、梅の花」

「い、いやいい、凄いな、花咲お嬢さん? いやはや、世の中にこんなこんなことができる人がいるなんて」

「ま、手品だって思ってんならそれでもいいけどサ。それよりもその面よ。なーんだか沈んでるようじゃない、気になって仕方ないよ」

「面なんて生まれつきだ。何もありゃしねえ、俺は寂しい公園で缶コーヒーをやって、いい感じに感傷に浸ってただけだ」

「ふうン、そうなんだ。じゃあさ、そこの沖縄料理屋で泡盛でも一杯どう?」

「どうって、どうなんだ、初対面で異性相手にそういう、逆ナンみたいな」

「古っくさい価値観なんてどうだって良いよ、何かの縁だし悩みなら聞いてあげるよ」

 雨音の押しの強さについ負けて、二人で近くの店に入るとこれまた藤次郎の悪い癖、酒が入ると弁舌なめらかに自分の今までやってきた活動を誇大に喋り散らす。やれ音楽はグルーヴがあればどうのだの、昨今の文章は美文がなくしょぼくれてるだの、最近の街はスケートボードをするには環境が悪いだの、何か知ったふうな言葉が次々に口をついて出てくる。雨音はスクガラスを摘みながらふんふんと熱心に聞いている。

「お兄さんは色々やってて凄いんだねェ。東京の人って感じだ」

「まあ、色々やってるから見えてくるものもあるってもんだよ」

 と、まあこんな調子でいつもの見栄っ張りが働いて、胸のつっかえ、喉元のしこりはますます肥大する一方。雨音の相槌に気持ちよくなっている反面、早く終われば良いのにと云うアンビバレンツな思いを抱えたまま泡盛でますます口は回る回る。気付けば夜も更けて閉店のお時間、お会計は割り勘でと言う雨音に甘えて折半して会計を済ませると、外はますます寒く、酒で温まったの火照りがチクチクと冷えていくのを頬で感じていた。

「スッキリした?」

「ああ、スッキリしたよ」

 スッキリしていない顔でそう云うと雨音はニヤニヤと笑って藤次郎の頭に梅の花をポンと咲かせた。

「連絡先、教えておくからまた色々聞かせて。それじゃあね」

 振り返りもせずに雨音はスタスタと去っていく。違うんだと言いたい気持ちが膨らんでゆくけれども、追うのもおかしいような気がしてまごまごしているうちにもう雨音の姿は街灯の影の先まで行ってしまった。今はもう夜の帳が藤次郎の視界を塞いだようになっていて、自宅にどうやって帰ったのかわからないが、倒れるように眠ってしまった。



 それからというもの、何かモヤモヤするときは雨音を誘って酒を飲む、いらぬことをぺちゃくちゃと喋る。しこりが膨らんで家に帰るなどという日々を過ごすようになった。一時の疼きが抑えられても、自己の違和感は増すばかりで寝付きも悪い。嘘ではないが誇張はある藤次郎の言葉を知ってか知らずか雨音はいつもニヤニヤと聞いて、最後には頭に梅の花を咲かせてお別れと云った流れ。藤次郎にとって、雨音はしこりの痛みを抑えるためのぶり返しのある鎮痛剤のような役割となっており、一種の依存状態と言っても差し支えなかった。

 さて、いつものように二人で街に出てぶらぶらと歩いていると、たまたま音楽活動時代の知り合いと街でバッタリ遭遇した。今も音楽活動を続けていて、インディペンデントとは言え作品をいくつか出しているやつで、藤次郎にとってはちょっとした嫉妬の対象のような人物だった。

「よお、久しぶり藤次郎、最近はどうだい」

「どうということはないけれど、まあぼちぼちだよ」

「音楽の方はやってるのか」

「いや、その、今は」

「そうか、そうだよな、さすがにあのまま続けるには内容が薄かったもんなぁ。ライブとかもひどい出来だったし、ハッキリ言って向いてなかったよな」

「あ、ああ、そうだな」

「今は何やってるんだ? 俺はレーベル立ち上げてさ、ほらこれ名刺な」

「あ、ありがとう。俺は特に何ていうか……」

「名刺ある?」

「いや、名刺は、ない」

「オッケーオッケー、まあまた今度みんなで飲もうや。デート中みたいだしこれ以上邪魔しちゃアレよな、じゃな。」

「あ、ああ、じゃあまた……」

 知り合いが行ってしまってから、二人の間には沈黙が流れた。言葉の接穂が刈られてしまったように、ぷっつりと会話が止まって、歩はのろのろと遅々として進まず、藤次郎はうつむき加減で雨音と顔を合わせようとしない、雨音は表情を変えず、いつもどおりニヤニヤとしており、それが藤次郎には鬱陶しかった。メッキが剥がれた。そう感じて藤次郎は居心地の悪い思いをしている。しこりがまたシクシクと痛みだして、生きて呼吸をするだけで難しい、何かやり方を忘れてしまったような息苦しさを感じて雨音が何か言ってくれることを待っていた。しかし雨音は何を言うこともなく、飄々としている。何か自分のことを悪く思って笑ったり呆れたりしているのではないだろうか、そういう気持ちが藤次郎をますます狭くギュッと絞るように感じさせた。流れる沈黙とその重さに耐えかね、もう我慢の限界に達して、ついに藤次郎は口を開いた。

「名刺、持ってないんだ」

「うん?」

「俺は、肩書がない、何者でもないんだ」

「名刺ィ?」

「俺は音楽も文章もスポーツも、何をやっても中途半端で、どれに於いても誰かに何の人であるか説明できるような実績も肩書もない。俺は社会的に見て、何者でもなくて、ただ藤次郎という名前があるだけの誰にでもある社会的な立場がないんだ」

「へえ」

「笑ってるんだろ、呆れてるんだろ。今まで言ってた大言壮語が、蓋を開ければ何てことはない、何の実力も実績もない中途半端なやつだったって」

「ふーん、それって重要なことなのかな、私にはわかんないなァ。私にとっては藤次郎は楽しそうに音楽とかの話をしてくれて、私もそれを楽しく聞いたってだけの話なんだけど」

 意外な返答にますますまごまごしていると雨音はまたいつものニヤニヤ顔をして両手と空へと伸ばして、大きく伸びをした。ぽつぽつと雨が振り始めて、街の灰色の空をますます灰色に、コンクリートをますます黒く塗っていく。雨脚はそれほどではなく、小糠雨と云った程度で、傘を差すのも面倒な天気である。

「お、お、俺は嘘ついてたんだぞ、自分を大きく見せるためにあんたに」

「だからさァ、でも楽しかったんでしょう、話しているときも、昔それらをやってたときもサ、だったら良いんだよ私にとっては」

「そうだけど……。俺はずっと気になってたんだ。自分の理想と現実が食い違うのが怖いんだ。誰かに好かれたい、誰かに愛されたい、だから俺は何者かである必要があるのに、俺は常に何者でもないんだ」

「愛してるよォ」

「へ?」

「愛してるよ、何もすることがなくなって余生を送っているおばあちゃんが近所の子供に優しくするように愛してる。私、暇なのよ。だから安心して」

「それって愛されているって言うのか?」

「愛されてます。それにね、私は何度も言うけれど、どうでも良いんだ。どこどこの誰々です、とかそういうの。社会的にどういう立場の人間かとか、実績があるかないかとか。そうじゃなくてさ、したいことをする人、誰の視線に晒されても迎合しない、エゴイストな人が好き。世の中はもっと我儘になるべきだよ、常識とか立場とか、誰にどう言われようが、自分が思うままに生きる。自分のやりたいことを全てやった人こそが人生の勝者だ」

 そう言うと雨音はもう一度両手を掲げて伸びをするように「や」と一声、すると雨粒が次々と梅の花になって降り注いでくる、それが空中で崩れて花びらが舞い、周囲を赤桃色に包み込んで街がいっときに色変わり、眩いばかりの明るさに包まれ、足元にはまるで積雪のように花びらが埋まっていく、通りを行く人々はそのさまに呆気に取られて足を止めて目を輝かせながらその神秘的で不可思議な景色を眺めている。藤次郎は花びらの海に足を取られてひっくり返って布団に飛び込む人のように花の中に埋まってしまった。

「うわ、わわわ! やりすぎだ! ヘリオガバルスの薔薇かよ、溺れちゃうよ!」

「あははは、私はこういう無駄なものが好き。人生で生きる上では一見不必要なもの、それでも誰かの心に残って生命の維持とは別の部分で養分となって溶けていくもの。それは藤次郎の音楽や執筆とかスポーツとか、そういう活動の中でも育まれていて、それを受け取った人の中でも作用して、そういう循環が好き。それの規模はどうでもいい、やりたいことを全てやること。ホドロフスキーが良いことを言ってたよ、「自分を生きるのは罪じゃない、他人の期待通りに生きる方が罪だ」ってね。私の手に雨は花になる、何の意味もないけど見てよ、通りの人たちの表情、楽しいよね、私は楽しい。藤次郎、好きなことをしていいんだよ。あなたが誰にとって不必要でも、誰にとって必要でも、そんなのは関係なくて、あなたが大言壮語で語ったようにエゴの塊でいて」

「俺は……」

 花のベッドで横になりながら、花びらの雨が頬を撫でると、なにやら豁然として空がぱっと広がったような気分になった。ズクズクと傷んでいたしこりがしぼむような具合に藤次郎はそっと目を閉じた。すると俄に辺りが騒がしくなってきて、人集りができ始めてきた。雨音は藤次郎の手を取って起き上がらせると、「やりすぎちゃった、逃げよ!」と言って走り始めた。空からの花はもう消え、雨脚が強まって、二人は泳ぐように街を駆ける。髪も服もびしょ濡れで、しかし何処か藤次郎は爽やかな気分になっていた。雨の中を傘もささず行くチクリとしたナルシシズムではなく、何かが洗い流されるような具合である。街は再び灰色で、コンクリートは既に雨で黒く、それでいて広々としたような風情であった。



 その後も二人はよく会って茶や酒を飲んだ。藤次郎は相変わらずの誇張癖で自分を大きく見せる癖が抜けないが、今はもう疼きに悩まされて輾転反側することはなくなっていた。誰が言おうが何かをするというのは楽しいものだと思えるようになった。そこには様々な苦痛や面倒も伴うが、何もしない時間を思い悩むよりはずっとよく、役に立たないものが出来上がろうがそれももうどうでも良かった。やりたいことを全てやる人生。

「はい、ポンってね」

 今日も雨音は別れ際に藤次郎の頭に花を咲かせた。藤次郎は次に彼女に会うまでにそれを大事に取っておいた。冬が明けて、雨音の手品を通さず花開く季節がやってくる。だがもし魔法が消えてもきっと藤次郎は雨音に会うのを辞めないだろう。たぶんそう云うことなのだ。

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