G線上の花火

しらす

G線上の花火

 目の前に突き付けられているものが信じられない。今すぐ目を閉じて逃げ出したいのに、両脇も背後も壁に囲まれて、追い詰められていた。

 夏の高い太陽は既に地平に沈み、周囲の景色は濃い影に覆われている。そんな中で、目を逸らしたいはずの「それ」に視界はフォーカスされ、ジタバタと蠢くその姿を克明に網膜に焼き付けている。

「いやああああっ、やめてええええっ、いやああああっ!!」

 脳天から響くような悲鳴は誰ものなのだろうか、と意識の片隅で思う。そして気が付いた。夜の静寂を切り裂いているその声は、私自身の喉から発せられている。


 数秒前までは穏やかな夏の夜だった。じめじめと暑い日で、夕食を作りながら冷房の吹き出し口に当たっていたら、同居人が外の風に当たろうとベランダに誘ってきたのだ。

 巨漢の彼は「稀人」と呼ばれる、創作の物語から出現するという異世界人だ。名前をザグルと言って、湿暖な密林に住んでいたオークと言う架空の種族である。まるで鬼のようなご面相に、私の二回りは大きい体をしている彼は、その容姿と種族的なイメージが相まって、周囲からは誤解を受けやすい。けれど決して話の通じない乱暴な人ではなく、むしろ細かに私を気遣ってくれる良きパートナーだ。

 ただし二十歳の彼は私より十も年下で、たまに呆れるほど子供っぽい。野生児でもあるので、私からすると信じられないような行動を取ることもある。


 けれどそのどちらかなら、多少やらかしても大した面倒にはならない。問題はそれが重なった時で、且つ私が冷静に対処できないような行動を取られた時だ。

 そう、正に今の状況がそれである。


 私の目と鼻の先に、見るも悍ましき赤茶けた黒い四センチほどの紡錘形の昆虫、つまりゴキブリがぶら下げられている。

 大抵の虫には驚かない私が、目にしただけで背筋に悪寒が走り、緊張で体は冷えて硬直し、正常な思考力を奪われる、この世で最も恐ろしい生物だ。

 普段は不器用な筈のザグルが、そのゴキブリの二本の触覚の先を摘まみ、私の顔の前でぶらぶらと振り子のように振っている。振られるたびに細かい毛の生えた六本の足がジタバタと暴れ、たまに翅を広げて飛ぼうともがく。見たくないのに、硬直した私は目を逸らせない。ただ悲鳴だけが、制御も出来ないまま私の口から迸っていく。


「やめてっ、やめてっ、やめてったら!」

「ユキがそんなに怖がるとはなぁ、始めて見たぜ」

 ニヤァ、と口の両端を上げたザグルは牙を剥き出して、非常に嬉しそうな顔をした。彼が笑っているという事実が、こんなに恐ろしいと思った事は今までにない。

 目の前にぶら下がるゴキブリと、怯える私を見て喜ぶ彼の笑顔。逃げ場の無いベランダの隅で退路を塞がれ、頭が真っ白になった私は絶体絶命の窮地に陥っている。

 こんな子供じみた事をするなと叱らなければならない、と分かっているのに、体が震えて言う事を聞かない。悲鳴も止められない。彼が飽きて私を解放するまで、もはや為す術がない。

「ほれほれ」

 左右に振られていたゴキブリが、今度はグルグルと回転し始めた。ゴキブリの方も逃げようと必死で翅をばたつかせ、バタバタキチキチと激しい音を立てている。それでも触覚を掴む指は離れず、私は僅かな光をてらてらと反射するその生き物を、見開いた目で追ってしまう。


 遂に涙が出そうになったその時、不意にぱっと白い光が弾けた。

 一拍置いてドォン、と大きな音がしてザラザラザラ、と雨音を大きくしたような音がそれに続く。驚いて顔をそちらに向けると、空の一部がぱっと明るくなった。

 咄嗟に雷か、と体を固くしかけた私は、そこに広がった光の花に、思わずぽかんと口を開けた。

 藍色の夜空を撃ち抜くように、光の筋が空へと昇り、ふわっと大きく広がって巨大な円を描く。それからまた一拍置いて、ドォンとお腹に響く音がする。


 ここから南西の方向、港のある辺りで上がったと思しき打ち上げ花火は、遮るものも無くその色形がはっきりと見えた。

 低いところで飛沫を上げるように光り、バチバチと音を立てる草叢のような花火の列。そしてその中をすっと上がっていき、高いところでぱっと赤く弾け、大きく広がったところで青く色を変える花火。

 上に下に、右に左に重なり合いながら、咲いては消え、咲いては消えていく。煙が靄のように白く空を染め、夜空が一段と明るくなっていく。

 久しぶりに目にする花火は、悲鳴を上げるのも忘れるほど綺麗だった。さっきまで目前に迫っていた危機も頭から抜け落ちて、弾けて尾を引き消えてゆく光の花に、体に響くドォンという音に、意識の全てを奪われる。


 吸い込まれるように見入り、ベランダの手摺に体を寄せた。涼しい夜の風がさっと流れて、袖から背中へと吹き抜けてゆく。

 昼間は日に灼けて触れなくなる金属の手摺も、陽が落ちて徐々に冷めたのか、ほんのりと温かみを残すのみだった。緊張で冷え切っていた手を乗せると、その僅かに残った熱も心地良い。

 今更のように、冷房を効かせた部屋の中より体が楽だと気が付いた。冷え性の私は暑いからと言って、冷房に当たり過ぎると逆に手足が冷たくなってしまう。ザグルはそれに気が付いて、外に出ようと誘ってくれたのかも知れない。


 そう思ってふと隣に視線を戻すと、そこに立っている筈のザグルが居なかった。

「えっ、あれ、ザグ?」

 彼は私に合わせて体を屈めている事が多いとは言え、体格がいいのでまず視界から消えることがない。それなのにぐるりと首を巡らせ、背後の部屋の中まで覗き込んでも、彼の姿が見当たらなかった。

 私が花火に意識を持っていかれているうちに、来客でもあったのだろうかと、慌てて部屋に戻ろうとしたところで、何かに蹴躓いた。転びそうになって咄嗟に踏ん張り、体勢を立て直して足元を見ると、ベランダの床一杯に両手足を投げ出している大きな影があった。

「ユキ……」

 蚊の鳴くような小さなザグルの声が、足元から私を呼んだ。


「……ザグ?何してんの」

「何じゃねぇだろぉ……ひっ!!」

 顔を上げて返事をしかけたザグルは、背後からドォンと音がした途端に両手で頭を押さえてまた俯いた。立ち上がるどころか床にめり込みそうな勢いで這いつくばり、耳を塞いで音がする度にびくびくと肩を震わせている。

 ひっ、ひっ、と小さく上げる声は悲鳴のようで、さっきまで私を揶揄って遊んでいたのが嘘のように、完全に怯えきっていた。

「どうしたの?あれ雷じゃないわよ」

 そもそも雷で怯えた事は無い筈だけど、と思いながらその頭の前にしゃがむと、

「んなこたぁ分かってる!うわあっ」

 反論しようとして、また頭を押さえて床に顔を打ち付けた。


「ああ、ザグの世界にも爆弾ってあったんだっけ?大丈夫よ、爆弾でもないから」

「そりゃユキの顔見てりゃ分かるけどよ……ううっ」

 泣きそうな声で肩を震わせているので、よしよしと頭を撫でて落ち着かせようとしたものの、ザグルはそれ以上どうしようもない様子だ。右手に摘まんでいたゴキブリも放り出してしまったようで、辺りを見回しても見当たらない。何処へやったの、と訊いても返事どころではないらしく、「わかんねぇ」と繰り返すばかりだ。

 埒が明かないので部屋の中へ戻ろう、と手を取って立たせようとすると、急にがばっと飛び起きた彼は、逆に私の腕を引いて抱き付いて来た。


「うっ、ちょっとザグ!?」

 いきなり引き寄せられてびっくりした私は、その体のあまりの固さに更に驚いた。がちがちに強張った腕と胸の筋肉に頭を挟まれて、一瞬息が出来なくなった。

 いつもなら軽く包み込むように私を抱くのに、しがみついて来る腕には力が籠り過ぎて、まるで万力で締められているようだ。胸元に腕を差し込み突っ張ろうとしても、固い腕はびくともしない。

 仕方なく首だけ回して、息がしやすいように胸板から顔を外すと、代わりにその胸に耳を押し付ける形になってしまった。同時にドキドキと跳ねるような心臓の音が耳に届いて、私はそれ以上抵抗するのをやめた。


 はっと頭に浮かんだのは、彼が稀人になった原因とも言える出来事だ。

 稀人は物語世界から現れる、と言っても、どんなキャラクターでも現れるわけではない。いくつか条件があるうち、一番特徴的と言えるのが、稀人はみんな物語の中で死んでいるという事だ。

 つまりはこのザグルも、元いた世界では一度死んでいる。直接の死因は、彼が同胞を裏切った事による処刑だった。けれどその前に、彼は同胞が襲撃する人間の村を助けようとして、村人達に信じてもらえず、囚われたまま戦に巻き込まれたのだ。

 その時縛られていたのが、同胞達の標的である塔だった。防御の要であったその塔は、彼がそこに居るにも関わらず真っ先に破壊された。

 塔ばかりではない、その村は人が住めなくなるほど破壊し尽くされたのだ。瓦礫の下で辛うじて生きていた彼が、その間どんな思いをしたのかを考えれば、こんな風に爆発音に怯えるのも分かる気がした。


 そっと両腕を引き抜き、ザグルの背中に回した。ポン、ポン、とゆっくりと右手で背中を叩き、左手で後ろ頭を撫でる。ドンッと音がする度に震える肩越しに、ベランダの手摺の上に覗く花火が見えた。それを見るともなしに眺めながら、私は彼が落ち着くまでただ待った。


 予告も何も無かった花火は、あまり間を置かず一気に打ち上げたようで、三十分と経たずに終わった。終わればあっさり元の静けさが戻り、耳元でザグルがふーっと息を吐くのが聞こえた。

「すまん、すまんユキ。許してくれ」

 じっと動かなかった彼は、私に抱き着いたまま小さく謝った。

「何を許せばいいの?」

 問い返すと、彼はようやく腕を緩めて体を起こした。少し体を離してから、目元をごしごしと拭って私を正面から見た。

「お前が怖がってんのが面白いと思っちまったんだ。俺の事すら怖がんねぇのに、あんなちっこい虫で怯えてんのがおかしくてよ」

 怖いもの無しだと思っていた私が、悲鳴を上げて逃げようとするのが意外だったんだ、とザグルは後ろ頭を掻いた。

「怖いものは怖いんだもの。克服しようとは思ったけど、体が勝手に反応しちゃうからどうにもならないの」

「ああ、悪かった。もう面白がったりしねぇから」

「うん。分かってくれたならいいよ」

 ポンポンと頭を軽く叩くと、ザグルも同じように私の頭を叩いた。「安心しろ」と言う彼のいつものサインだ。

 彼は子供じみた事もするけれど、とても素直で真面目でもある。このサインが出たのなら、もう同じことはしないと約束してくれたのと同じだ。


 ほっとしたところで、部屋に戻ろうと足を向けたそこに、いきなり黒いものが走り込んで来た。花火の音に驚いたザグルが投げ出して、どこへ行ったのか分からなくなっていたあのゴキブリだった。

「きゃっ!」

 思わず飛び退った私と入れ替わるように、ザグルがぱっと素早く飛びつき捕まえた。最初に見つけた時もそうだったけれど、体も大きくすばしっこいゴキブリを、叩くのではなく生きたまま捕まえるこの手際は、本当に見事としか言いようがない。

 長年の一人暮らしで、怖いなりに自分でどうにかするしかなかったこの虫も、彼がいれば難なく対処してくれそうで安心だ。

 そう安堵した瞬間、彼は徐に口を開けると、ぽいと実に自然な動作でゴキブリを放り込んだ。


「え」

「ん?」

 閉じられたザグルの口の中で、ブチッと音がするのがはっきりと聞こえてきた。パリパリ、ザクザク、と軽快なスナック菓子でも食べるかのような音が続き、ごくりと喉が上下する。

 気付かなければ良かったのに、目を逸らしていれば良かったのに、はっきりと見てしまった。自分の頭から血の気が引いていくのが分かる。立っているのがやっとだ。


「え、食うのもダメなのか?」

 硬直している私にようやく気付いたらしいザグルは、しまったという顔になった。その口の端の牙に黒い足が一本、引っかかって残っている。指摘しなければ暫く気付きそうにないそれを、しかし伝えたくても声が出ない。

 ぱくぱくと空気を食む私を、ザグルは心配そうに覗き込んできた。彼はまるっきり悪意ゼロで、今までで一番恐ろしい顔になっているとは思いもよらないのだろう。その顔が、どんどん目の前に迫って来る。

 遠のきそうになる意識の中、私は耐えきれずに再び、夜空を切り裂く花火よりも盛大な絶叫を上げたのだった。

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