心臓

のべたん。

心臓

 私は小松真理子の心臓です。今年十六になります。私の仕事は真理子の全身に、きれいな血液と栄養を行き渡らせること、です。真理子は小さい頃はお転婆で、よく傷を作っては両親、特に心配性の父親を困らせていました。野山を駆け回り、蛇や蛙を掴んで遊び、白い裸になって、緑の生えた黒い崖のうえから、尖った岩の突き出た濃青の水のなかへ飛び込んでいきました。落下して水柱が昇り、舞い散った水滴の表面ひとつひとつに夏の太陽の光が反射して、きらきら美しく輝いていました。

 真理子の幼い頃、それは自然のなかにありました。私は真理子のなかで、命の喜びを、感じずにはいられませんでした。ああ、私は生きている! 真理子が生まれてきたことに、心から感謝していました(心臓の私が、心から、などと言うのはかなり、可笑しなことですけれど)

 

 ですが、中学校に上がった真理子は、別人になってしまったように、自然はすぐ側にあるのですが、近寄ろうともせず、仕舞いにはあれだけ好きだった蛙や蛇を嫌うようになっていったのでした。私は、寂しく感じました。

 真理子の関心事は主に、テレビに写る若い男のタレントや、異様にちいさな顔を持つ、真理子より少し年上の女だったりしたので私は一定のリズムを繰り返しながら単調な、詰まらない毎日を過ごしていました。真理子の日常は、だんだんと、どこにでもある、平凡な、抑揚もない、波の立たない凪いだ湖みたいになり、私は自分が真理子の心臓であることさえ、たまに忘れてしまうことすらありました。

 そんな緩やかで退屈な日々は、真理子が中学の二年になってすぐに、終わりました。同じクラスの鈴木くんに、恋をしたからです。私は早鐘を打ったように激しくビートを刻みました。これこれ、と思いました。久しぶりに私は生きている喜びを噛みしめました。鈴木くんは色白で、クラスでも二番目くらいに背が高く、優しそうな細い目をしていました。部活はバレー部で、レギュラーで、セッターでした。真理子は放課後になるとバレー部の練習を、体育館の下小窓からこっそり覗き見るのが好きでした。鈴木くんが跳ねる。鈴木くんがトスする。ボールを追った鈴木くんが床に転がる。鈴木くん、鈴木くん、彼女のなかは鈴木くんでいっぱい。もう、夢中でした。私も、最高でした。彼の一挙動一挙動がたまらなく、堪えるのでした。家に帰っても、真理子は鈴木くんのことを考えているらしく、きゃあ、とか、うふふ、とか一人で呟いていて、ちょっと危ないなとは思いましたが、かつての退屈な日々に比べたら、今のほうがずっと素晴らしいと思っていました。

 中二の秋ごろの事でした。同じクラスの女子数名が、真理子を校舎裏に呼びつけ、取り囲み、あなたいつも体育館でバレー部の練習を見ているけれど、みっともないからやめなさい、とか、鈴木くんには彼女がいるのよ、とか、何やら不遜な空気が流れておりました。ひとりの、比較的面のよい女子(たしか会田という名前の)が真理子のまえにやって来て、もう二度とバレー部の練習を覗かないことを、真理子に約束させました。でもやっぱり、真理子はその日の放課後も、体育館へ行って、下窓から練習を覗いていたのでした。

 そして、いじめが始まったのでした。

 最初は気づくか気づかないかくらい、真理子に認知されるかされないかの、ぎりぎりのラインで、彼女の存在を消してゆくのでした。真理子がなにか言えば、皆は一応それに答えるのですが、そのあとはまるで、潮が引くように、すうっ、と彼女を避けるのでした。真理子は困ったような、悲しいような、曖昧な表情で日々を過ごすようになり、バレー部の練習も見に行かなくなりました。それでも真理子へのいじめは止むどころかますます酷くなる一方で、次第に彼女の存在を完全に無視するようになりました。真理子が誰かに話しかけても、彼女の存在はないものとして扱われ、真理子はだんだん、壊れていきました。そんな彼女を見ていると、堪らなく辛くなり、ぎゅうと抱きしめてあげたくなるのでしたが、心臓の私には、とてもそんなことは出来ず、苦しくて悔しくて、やるせない気持ちになりながら、事態の収束を祈るしかありませんでした。

 やがて真理子は学校に行けなくなり、一日中ベッドに潜り込んで泣くようになりました。薄いシーツを頭から被り、胎児のように丸まって、息を殺して泣くのでした。両親は心配して、彼女と話をしたり、心の病院に連れていったりしましたが、一向に効果がなく、日々だけが過ぎていきました。

 ある、晴れた日でした。真理子は珍しく部屋から出て、食事をし、居間のソファに腰をおろしてテレビを見ました。それから二階の自分の部屋に戻り、机の引き出しから白い柄のカッターナイフを取り出して、ちちち、と刃を出し手首に当てました。壁に掛かった時計の針が、五月蝿いくらいの静けさで、私は、私は驚いてしまって、何故、嗚呼、一体どうしてこんなことになってしまったの、真理子はいま死のうとしている。死んで、終わりにしようとしている駄目だ、ダメ。それはいけない、いけないよ、真理子。カッターを握る手に力が入り、生きて! 生きて! 生きて! 生きて! 生きて! 生きて! 生きて! 私は激しく叫び続けました。生きて! 生きて! 生きて! 生きて!

 すると真理子は苦しくなったのか、私のいる位置を強く掴んで蹲り、ぽろぽろと涙を落としました。私も、泣きました。


 レースのカーテンが、優しく揺れていました。真理子は海の見えるサナトリウムの病室の、窓際のベッドに横になって、潮風と、海鳥の鳴き声と、波の音を聞いていました。緩やかな時が流れて、気がつけば陽が落ちていました。

 真理子は家で暮らしていた頃、幾度か死を試みたのですが、それらはすべて、未遂で終わり、流されるように、ここへやって来たのでした。ここには、真理子のような、心に傷を負った女性たちが、何人も暮らしていました。真理子のいる病室には六つのベッドがあり、うち四つは埋まっていました。真理子の隣のベッドには、お婆さんがいました。このお婆さん、普段は優しくて、いい人なのですが、毎晩子供のように、泣くのです。お母さん、お母さんと言って泣くのです。真理子はその度に、お婆さんの、骨の浮き出た硬い背中を撫でてあげるのでした。


 毎朝九時きっかりに、清潔なリネンを抱えた看護婦が、病室へやって来ます。彼女はいつもにこにこと嬉しそうに、やって来ます。シーツを変えるから立って、さあさあ、ハリィアップ! そう言って真理子を立たせ、皺の寄ったシーツをベッドから引き剥がし、ステンレスの大きな洗濯かごに詰め込み、新しい、消毒液の匂いがするシーツを手早く敷いたのでした。それから、花瓶の花を、病院の外壁に沿って生えているハマエンドウに変えると、満足そうに、洗濯かごを抱えて病室から去っていきました。私は、この看護婦に、生き生きとした生の喜びを垣間見ました。彼女からは、生きている匂いがしました。それが恐らく労働、働くということに起因しているのだと気がついたとき、働くとは、なんと素敵なことなのだろうと思いました。真理子にも、かつてはあの看護婦のように、きびきびと、瞳を輝かせ、嵐のような勢いで、生きていたときがあったのです。ですが、今ではまるで足の弱い、ふ抜けた老人のように、生きる気力をなくして、ほとんど一日中、ベッドで横になっているのでした。

 

 その日は真理子の両親が、ショートケーキを手土産にやって来ました。母親は淡いピンクの洋服、父親も、紺のスーツ姿で、これから大丸百貨店にでも行くかのような、他人行儀な服装でした。

 風が、吹き込みました。板張りの床に溜まった細かい浜の砂粒が、流れにまかせて部屋の隅に移動していきました。

 隣のベッドのお婆さんが、あなた方のお嬢様は本当に素晴らしいと、何度も何度もおっしゃいました。その度に父親は幽かに笑いながら、ありがとうございます、と返答していました。

 父親は、元気にしていたか、飯は食べているのか、ちょっと痩せたんじゃないか、などと、当たり障りのないことを真理子に聞きましたが、彼女は、うん、とか、まあ、とか短く返すばかりで、会話のキャッチボールを成り立たせる気はゼロでした。母親は、ずっと黙って真理子の顔を、気まずく眺めるばかりでした。私はこの二人に、真理子がいままでどんな酷い扱いを受けてきたのかを、大声で言いたくなりました。

 真理子は、いい子です。

 私はこの子の良いところを、沢山知っています。誰にでも優しくて、悪口を言わず、人の痛みが理解できる子。少し変わったところもあるけれど、それだって愛すべき、この子の個性です。

 いじめられていることを黙っていたのだって、あなた方に心配をかけたくなかったからです。教室で、常に居場所がなくて、辛くて辛くてどうしようもない状態になっていても、この子は、必死に我慢していたのです。

 あなた方は、もっとはやくに気づいてあげるべきだった。そして私の代わりに、愛しているよと囁いて、この子のちいさな身体を、強く優しく抱きしめて欲しかったのに。

 私はどんなことがあっても、この子の味方です。この子のことを、決して諦めたり、しませんから。


 二人が帰り、ベッドの横のテーブルには、ケーキの入った紙箱がポツンと残り、真理子はそれを、同じ病室の、縁のない眼鏡をかけた、長い黒髪の、肌の白い、両手首に赤黒いバーコードがある女性に手渡しました。この女性は三日まえ、空いたベッドにやって来ていたのですが、真理子が彼女と話をしたのはこれが初、でした。女性は少し驚いた表情をしていましたが、ゆっくり箱を受けとると、軽くお礼を言いました。ベッドに取り付けられたネームプレートには、黒マジックで『姫野』と書かれていました。姫野は箱を持って立ち上がり、真理子に、外行こうよと言いながら、病室から出ていきました。真理子は彼女のあとを、黙ってついていきました。


 海岸線に、真っ赤な夕陽が溶けていきます。真理子と姫野は庭のベンチに座り、それを眺めていました。姫野は、箱から手掴みで取り出したいちごのショートケーキを、大きく口を開けてむしゃむしゃと食べていました。庭には沢山のハーブが植えられていて、幽かに清涼感のある匂いが漂っていました。

 姫野は開口一番、この世界は糞だと言いました。人の気持ちに敏感過ぎる、うちらみたいな人間は、他人を何とも思わない、狡くて汚い人間に、騙されたり傷つけられたりして生きていくしかない、それは苦痛でしかない、だからこの世はマジで糞。私も、彼女の意見に概ね賛同でした。真理子は曖昧に頷いて、そのあと言葉を発しませんでした。

 真理子は、もう生きていくことに疲れてしまったのでしょうか、そう考えると、私は真理子が可哀想で仕方がなく、どうにかして、以前の彼女に戻ってもらおうと、色々必死に考えてみたりしたのですが、所詮臓器の一つでしかない私には、どうすることも出来ず、そのことが尚いっそう、私を苦しくさせるのでした。

 ケーキを食べ終えた姫野は立ち上がり、まあでも、生きてなくちゃならないんだけどさ。と言って幽かな笑みを見せました。それは、真理子にではなく、彼女自身に言ったように、私には聞こえました。彼女も、生きることに、静かに向き合っているのでしょう、真理子はそんな姫野の横顔を、ぼんやりと見ていました。

 その日の晩も、隣のお婆さんがしくしくと泣き出したので、真理子は背中を優しく擦ってやるのでした。窓に目をやると、薄いレースのカーテン越しに、黄色くて丸い月が、黒い夜の海に浮いているのが見えました。私はそのとき、月が、ほんとうに美しく思えたのでした。真理子は、お婆さんが寝たあとで、窓から外へ抜け出して、ハーブの繁茂する庭にまわり、古びた鎧戸を開けて浜辺に続く一本の下り道を歩いていきました。東の岬の燈台に、白い灯りが見えました。浜辺には誰もおらず、さざ波の音だけが聞こえました。綺麗でした。でも、もしかしたら真理子は、この海に入って死ぬかもしれないと、急に不安になりました。すると背後から、彼女を呼ぶ声がして、振り返ると、姫野がひらひらと手を振っていました。

 二人は砂の上に並んでお尻をつき、揃って海を眺めていました。一匹の白い蟹が、前を横切っていきました。不意に姫野は煙草を取り出し、火をつけ煙を吐きました。夏の花火みたいな匂いがしました。彼女は無言で、真理子に煙草の詰まった箱を手渡しました。真理子は一本抜いて唇にはさみ、姫野がかざしたライターの火に当てるのですが、先端がちりちりと燃えるばかりで、吸うんだよ、と言われた真理子は思い切り、ストローから液体を飲むように息を吸い込んで激しく咳き込み、それを見て姫野は笑いました。死ぬかと思ったよ。笑いながら、姫野は言いました。死にませんよ、真理子は、言いました。

 やがて夜明けがやって来て、二人と世界を白く照らしました。ふと私は、あの日の懐かしい気持ちを思い出していました。手のなかに、柔らかな温もりを感じ、そこへ意識を向けると、砂でざらついた二人の手が、しなやかに固く、結ばれていました。

 

 看護婦が忙しそうに、病室にやって来ました。真理子は立ち上がって、自分のベッドシーツを引き剥がし、看護婦に手渡してから、これからは自分でやらせてください、そう言って、新しい、清潔なものと取り替えました。それから箒と塵取りを持って、病室の床に溜まった細かい塵と砂粒を、丁寧に集めて屑籠に入れ、図書室へ行き、借りてきた数冊の本をベッドサイドに積んで、それらを上から順に読み始めたのでした。

 天気のよい日には庭に出て、植物や、虫の種類を図鑑で引いて調べたり、浜辺で貝殻を拾い集め、自作した標本箱に入れて楽しむようになりました。月の綺麗な晩には、姫野と一緒に浜辺へ行き、見上げて星を探したり、足首まで水に浸かってざぶざぶ歩き、足の裏で貝とか石とか、縮れた海草とかの感触を確かめたりしました。潮の香りが鼻先を掠めていきました。月の光が海に溶け、ゆらゆらと揺れていました。

 世界は、実は既に開かれていたことに、真理子は気がつきました。新しい発見をする度に、暗くてじめじめとした所から、明るくって懐かしい、あの日の匂いがする場所へと一歩一歩、私たちは帰っていきました。


 その日、真理子は十六になりました。数ヵ月まえに両親は離婚し、父親が、真理子を迎えにやって来ました。普通車の後部座席に真理子が座ると、埃っぽく、懐かしい匂いがしました。院長から貰った分厚い貝殻の図鑑を胸に抱いた真理子は、見送りに来た人たちに手を振りました。車は、緩やかに動き出しました。姫野が少し寂しそうに手を振っているのが、サイドミラー越しに見えました。白いサナトリウムがだんだん小さくなっていき、ついに見えなくなって、真理子は次に海を見ました。車は、海岸線の道を走っていきます。ガードレールの向こうに広がる穏やかな海は、青い魚の鱗一枚一枚に光が反射したように、きらきらと輝いていました。

 途中、道の端に大きな水色の看板が立っていました。そこには墨文字で『海の駅』と『海鮮丼』と書かれており、父親は、沿道に車を停めました。


 どうだ、寄ってくか。

 うん。

 好きだったもんな、海鮮丼。

 そうだっけ。

 そうだったよ、そうだった、気がする。

 なにそれ。


 泣いてるの。

 ごめんな。

 いいよ。

 ごめんな、気がついてやれなくて。

 いいって。食べようよ、海鮮丼。わたし、ウニが好き。そうだ、ウニの殻、貰えるかな。

 貰えるさ、ウニなんて、いっぱいいるんだから。

 




 私はあなたの心臓です。私の仕事はあなたの身体に、きれいな血液と栄養を行き渡らせること、それから、あなたの幸せを願うこと、です。

 あなたの歩む人生の路が、生きる喜びで明るく満たされますように、そう、休むことなく、日々、祈り続けているのです。

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