Without

詩人

一番高いとこで手を振るよ。

 ──今年の夏は例年以上に暑い。


 毎年毎年、同じ文言で大袈裟にニュースキャスターは言うが、冷房の効いた部屋でそれを聞いていても実感が湧かない。マスクをつかの間外し、麦茶を飲む社会人や公園の噴水ではしゃぐ子どもたち、汗を流しながら懸命に球を追う野球少年たち。テレビに映される暑さに純粋な人間たちを、冷めた私が見ている。


 陸上の名門高校に入学し、華々しい成績を修めていたのが遠い昔のように思える。足の速さにだけは自信があった私は、二年の夏に行われた引き継ぎ式で部長に推薦された。誰もが祝福してくれる中、唯一不服そうに何度も先輩に抗議をしていた奴がいた。


「なんで汐莉しおりが部長で、私が副部長なんですか!? 私の方が部活も行ってるし、部員のことも大事にしてるのに! 部長って、そういう仕事が出来る人がやるんじゃないんですか? 汐莉には私、任せられません」


 たまたま──本当にたまたま、三年生の教室の前を通った時に聞こえた会話だった。部内No.2の舞桜まおは、自分が副部長で私が部長なのがどうしても許せないらしい。私としては何とも思っていなかったが、舞桜は私のことがずっと大嫌いだったみたいだ。後から他の部員に聞いた。


「今度、汐莉と100走って私が勝ったら、部長として認めてくれますか。負けたらもう諦めますから」


 耳を疑った。私とタイマンで勝負すると、本気で舞桜は言っているのか、と。だって舞桜は良くて近畿大会レベルで、私は全国大会にだって出場している。言っちゃ悪いが、私と舞桜じゃ雲泥の差だ。


 何故そこまで部長にこだわるのか分からないが、舞桜の覚悟だけはきちんと受け取った。教室の扉を開け、舞桜と先輩の会話に割って入った。


「いいじゃん、受けて立つよ」


 舞桜は驚いたように目を見開いたが、すぐに私を睨んだ。そんな闘志に満ちた舞桜を見たのは初めてだった。今まで隠してきたということか。


「一週間後、部活が始まる前にやる」

「はいよ〜、真剣勝負だからな」

「……っ、言われなくても分かってる」


 まだ勝負も始まっていないのに悔しそうな顔をする舞桜に、私は勝利を確信した。あんな見栄を張っておいて、負けるかもしれないと思っている彼女のメンタルの弱さに、私は負ける気がしなかった。勝負事は、傲慢な方が都合がいいのだ。


 ──そして一週間後。その間私は特別な練習をすることはなかった。私に必要な練習量を熟すだけ。私は舞桜と違って、全国大会へ向けて完璧なスケジュールを立てているから、オーバーワークはしない。


「こんな面倒な勝負にも受けるなんて、汐莉先輩カッコいい〜!」


 後輩たちが舞桜をけなしつつ、私を褒める。別に舞桜が悪いわけではないのだから、そういうことを言うのは良いことではないけれど、後輩たちの声援にも応えなければいけない。陸上部を背負っているのは私なのだから。


「それじゃあスタート言うからなー」


 スターターには、暇そうにしていたから仲良しのサッカー部のマネージャーを借りてきた。グラウンドにいる陸上部、野球部、サッカー部の全視線が私と舞桜に集中した。


「オンユアマーク……」


 スタートブロックに足を乗せる。二人ともスパイクは履いている。熱気をはらんだグラウンドの土を両手の指先十個で押さえ、地球を押しているかのように力を込める。

 一歩目が左足なので、前に着けている右足にぐっと力を込めて次の合図を待つ。


「セット──」

 お尻を上げ、肩が手の真上になるまで前傾する。視線は一歩目に接地する場所を捉え、右足はバネが縮む時のように限界まで力を込める。


 ──パンっ。


 銃声が轟き、二人ほぼ同時にスタートした。前傾状態で私の場合九歩走る。まだ全力は出さない。というか人間、一歩目からトップスピードなんか出せない。出せないんなら、溜めるしかない。必死に我慢し、ゴールラインをこの眼に焼き付ける時まで足を溜める。


 八歩。

 九歩。


 徐々に背中を上げていく。余裕を持って隣をチラと見てみたくはあったが、なんせ10秒で終わる競技だ。0.1秒たりとも油断してはならない。ようやく視界が地面からゴールラインに変わる。



 そう思っていたのに、再び私は地面を見ることになった。



 ――その日より二ヶ月、私は走ることを止められた。結論から言ってしまえば単なる肉離れ。もちろん勝負には負けたし、もう本当に全てが分からなくなり、どうでも良くなった。私の計画プランは崩れ去り、また一から再構築する必要があった。


 繰り返すリハビリに嫌気が差したり、走り方を忘れてしまったりもしたけど、なんとか無事に府大会を迎えられた。


「なぁ、舞桜」

「なに?」

「私さぁ舞桜のこと恨んでたんだよ」

「えっ……。いや、うん。分かってる……ごめん」

「なんてね。逆に感謝してたかも」

「え……、なんでっ!?」


 舞桜の驚く顔の続きに、鋭い嫌な視線はない。


「怪我するまでさ、私多分慢心してたんだ。この学校の女子だったら私が一番速いって。油断してたわけじゃないんだ。一番であることへのプライドに縛られてた。ある意味、怪我を機にその呪縛から解き放たれたー、的な?」


 舞桜は戸惑っていた。自分のせいで怪我をした奴に感謝されればそりゃあ戸惑うだろうなと思う。ましてや、本来であればに自分が立っているのだから。


 さっきのは、言葉の綾だ。ほんの少しだけ、抵抗してみたかったのだ。

 私じゃなくて、なのだ、これは。

「頑張れ」

「うん、汐莉の分まで、精一杯」

 ブランクを埋めることに失敗した私の分まで――。


 しかし、それは違う。絶対に違う。これはリレーじゃないから。


「違うよ。これは――」


 府大会決勝。夏陽なつびに熱された青色のタータンに向かって、九人の精鋭たちが合図を受けて歩みを進める。戸惑っていた舞桜だったが、真っ直ぐ前に向き直る。二年の時とはまるで変わった。


 小麦色の舞桜の肌に、陽射しが降り注ぐ。

 九人の精鋭と、一人の敗者は等しく汗を滲ませていた。

 それでも私は強く願った。

 この夏に、桜が舞うことを。だって――


「――これはっ、君の春れ舞台だろ!」


 

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