机上でさえも(一)

 志藤は耳にイヤホンを押し込む。寝ている妻を起こさないために。どうしても夜の方が体調が良くなってしまうのは基本的に夜型人間だから、と志藤はその点開き直っていた。せめて甘い物は口にしない、と覚悟を決めてブラックの入ったマグカップに口を付ける。時刻はそろそろ日付が変わる頃。自宅のリビングで、自分のノートを広げながらカーソルの明滅を見据える。

 イヤホンから流れてくる曲はB・J・トーマスの「雨に濡れても」。もちろん邦題なので、正確には「Raindrops Keep fallin’ on my head」になるわけだが志藤はヒアリングがさっぱりなので、冒頭のこのタイトルが聞き分けできる程度だ。しかし執筆中のBGMとしてはこの曲のように「心地よい雑音ノイズ」が最適だと志藤は考えていた。ただし後奏が少し……というわけで続いてはヘンリー・マンシーニで「刑事コロンボのテーマ」。

 ちなみに「刑事コロンボのテーマ」では無いことは承知の上で、志藤は「コロンボのテーマ」と言うことにしている。この印象的なテーマ曲は、アメリカの推理番組全体のテーマ曲として作られたもので、日本で言えば「火曜サスペンス劇場」のテーマ曲に近い。それが日本に「刑事コロンボ」が輸入されたときに単独のテーマ曲として扱われてしまった、という経緯があるらしい。しかし今更、日本で訂正しようとしても無益なことであることは間違いないし、そもそも言葉の意味は変化していくものだ。高校の時の古文の授業において、

「日本では昔、父親のことを『ママ』と呼び、母親のことを『パパ』と呼んでいた」

 と聞かされたことを同時に志藤は思い出す。確かに父親のことを「おもうさん」と呼ぶ平安時代を描いた小説があったのは確かなことだし、それも「ママ」という発音が大変になって「もう」という言葉になったという説明も確かに受けた。もちろん母親への「パパ」呼びよりは「はは」の方が発音としては簡単であることは言うまでも無いだろう。

 しかしこれが、どこまで本当なのかどうか疑わしい、と青田と話した記憶はあるのだが……結局どういう結論になったのかは記憶に無い。つまり、まったく実りの無い結論に達したらしい。ちょうどイヤホンから流れる「刑事コロンボのテーマ」も終了した。そして設定通り「雨に濡れても」がリピート再生される。アイドリングは終わった。

 しかし、アイドリングするまでも無く結論は出ているのではないかと志藤はある程度、覚悟を決めていた。何しろイダ熊の言動が怪しすぎる。

 問題は藤田が課金していたかどうか? であるがそれはほぼ確実とみて間違いないだろう。さすがに過去ログは漁ることは出来なかったが「カーバンクル調教法」ではなく、他のまとめサイトの過去ログを探る限り藤田、つまりはカチアン先生の変化は確実であったらしいことが窺えた。いや適切な言葉は「変化」というよりも「変節」を選ぶべきなのだろう。無課金こそが正義、と主張していた人物がいきなり課金上等なプレイに走ったのだから。

 その原因に「ハル×3」がいるとは、ネットが間にある以上察することは難しいはずだ。だから藤田が変節したという表面上の現象だけで様々な憶測が飛び交うことになるのだが、逆に言うと「藤田のプレイスタイルが変わった」事だけは確かな事であり――それをイダ熊が知らない、ということはどう考えてもあり得ない。

 それなのにイダ熊は「変わらない。」と確かにメッセージを志藤に送っている。それも藤田の変化の有無を尋ねた志藤の質問に対してだ。これでは怪しく思わないこと自体が逆に無理がある。

 そこから藤田の「不自然な死」にイダ熊が関わっていると考えるのは、そこまで無茶な推理では無いはずで、必然「連続殺人」の犯人候補としても、イダ熊はその条件を満たせる可能性があると志藤は判断した。

 虎谷は当たり前に教えてくれなかったが「連続殺人」ともなれば、何かしらの共通点があれば立証もしやすくなるに違いなく、つまりは媒介として機能したのがイダ熊が運営している「カーバンクル調教法」と言うことになる。ブログの運営者として声を掛ければ、それはリアルに会う事も容易たやすいのではないだろうか?

 ここに来て、やけに目立っていた藤田に狙いを定めた理由が不鮮明だが、方向は正しいように思う。

 志藤は改めて帰りの山手線で築き上げた推理を頭の中で繰り返した――だが、やはりそう間違っているようには思えない。となると次は、この方針を元にしてのプロット制作だ。ようやくのことで待機状態から目覚めたノートのキーボードに志藤の手が伸びた。

 志藤のプロット制作スタイルは適当に書かなくてはいけない要素を箇条書きにする。それを並べていきながら、途中で書いておかねばならないシーンが判明したら、後から差し込んで行き調整する。それに今回はミステリーにならざるを得ない。この段階での完成はおぼつかないだろうが、このまま書いて行けば見えてくるものもあるはずだ。志藤の経験上、それは確かな事で、だからこそこの段階で一度まとめておくことに意義がある。

 何しろ「犯人」だけは間違いないのだから、迷路を逆から辿るような「作業」になるはず――志藤のキーボードを叩く指先が跳ねた。

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