45 躾

 昼下がり。朝から国王たちとの会合に参加し、思いもよらない話を耳にした彼女は、美しく発色するワインレッドの唇を歪ませた。勢いのままに会議室を飛び出し、ヒールが折れそうなほど体重をかけて床を鳴らしながら前のめりになって歩く。

 彼女とすれ違う者たちは皆、その剣幕と溢れ出る怒りに身を縮め、彼女から距離を置くようにして離れていった。


「一体、どういうことなの!?」


 金属を虐めたような金切声をあげて、リリオラは文化部門を統括する大臣のもとへと向かう。彼は今、王宮で会議をしていると聞きつけたためだ。

 隙なく整えられたお団子から曲がりくねった髪が飛び出していることにも構わず、リリオラは目の前のことだけを見据えて彼を目指した。

 彼女の細い足首が廊下の角を曲がったところで、その背中を慎重に見送る影が動く。彼は壁に身体を押し付け一体化し、息を潜めて彼女の気配が消えるのを待った。


「…………よし」


 邪気が遠くへと消えるなり、ネルフェットはポケットに入った物をしっかりと握りしめて踵を返す。足早に廊下を進み、目に入ってきた階段を一目散に上がった。

 息が乱れる寸前まで心拍数は上がり、緊張で周りの音も耳に入らなくなる。

 ネルフェットは目的の扉の前で一度息を吸い込み、精神を整えた。手に持った鍵がカチャリと繊細な音を立て、彼は特段飾りもない簡素なそれを手の平に乗せてじっと見つめる。

 幼少期からずっと自分を律する礎のきっかけとなったその鍵と、目の前に構える殺風景な扉。

 この向こう側は、ネルフェットが物心ついたころからずっとリリオラの執務室として使われている部屋だ。


 その昔にリリオラの教育によってレディの部屋に勝手に入るなと言い聞かせられていたネルフェットにとっては未知の場所。

 彼は幼い自分にとってすべての指標だった彼女を慕い、彼女が自分を褒めるときに見せる微笑みが見たくて、頑なにルールを守り続けてきた。

 当時のネルフェットは彼女のその笑みが嬉しくて、自分に寄り添うその笑顔だけが、決して逃れられない王族の厳格な教えを身に叩き込んでいくための希望となった。


 だから、リリオラの部屋に忍び込もうとしている今の状態に、心はそわそわとしたまま罪悪感でいっぱいになる。

 それでも今はやらなければ。ネルフェットはどうにか自分にそう言い聞かせ続け、この日に狙いを定めた。

 今日行われている建物調査の話を聞きつけたリリオラは、案の定取り乱してその他のことを疎かにしている。クジラの館は、リリオラが長年管轄下に置いてきた建物であり、それ故に全く管理が滞ってきた場所でもあった。

 ネルフェットが昔にクジラの館の存在を知った時にはもう、リリオラ以外の人間は館の管理について勝手に口を挟むことはしなくなっていた。その理由が何故なのか、彼女が教えてくれることはなかった。

 ただ一言、あの場所をどうするかについては国王たちからもすべての権利を得ている。そう言っただけだった。


 勝手に話を進めたことに少しの悪気を感じながらも、ネルフェットは急遽クジラの館を一番最初に調査することに決めた。当初予定していた別の建物から変更されたのは、ほんの三日前のこと。

 ミハウと話をしてからしばらくの間、日常のすべてが腑に落ちなくなったネルフェットは、生きた心地のしない毎日を吹っ切るために覚悟を決めたのだ。

 ネルフェットのことを弄ばれる側の人間だと言い放ったミハウ。彼はどうしてもそれが引っ掛かった。

 一体、ミハウは何をもってそんなことを言ったのか。その答えが知りたくて、ネルフェットは幼い頃を共にしてきたリリオラにヒントを求めに来た。真正面から聞いても彼女が取り合ってくれるはずがない。流石に長年の付き合いのある彼はそれをよく分かっている。


 聞いても駄目なら、探るしかない。


 ネルフェットはもう一度自身に渇を入れ、ぐっと鍵穴へと鍵を突き刺す。

 金属が絡み合う複雑な音が響いた後で、最後に剣を抜いた時のような鮮鋭な音が落ちたのが分かった。ネルフェットはドアノブに手をかけ、そっと扉を押し込む。

 当然、扉は彼の意思に従ってゆっくりと開いていく。室内の空気が僅かに漏れただけで、嗅いだことのない芳醇な香が廊下にまで伝わってきた。


 ネルフェットは足音を立てないように気を付けながら部屋へと入る。背後に移った扉をすかさず閉め、薄暗い部屋の中を見渡した。

 電気を点けるべきか悩んでいると、推し量ったかのように勝手に天井からぶら下がったいくつもの電球が光を放った。警戒したまま電球を見上げ、特に何も起こらないことを確認してから一歩、二歩と足を前に出す。


 部屋の左側には背の高い棚が占拠していて、右側には背の低い箪笥や机がいくつかあるだけの対照的な配置をしていた。中央には、執務用なのか立派な机と椅子が鎮座しており、その後ろには分厚い本がいくつも並んだ本棚が置いてある。

 ネルフェットは部屋の全貌を視界に映すことを躊躇いながらも意を決して部屋の中を物色し始めた。

 机の上には整頓された書類と万年筆が置いてあるだけで、見慣れたその内容も特筆すべきことはない。棚には奇妙な置物や、目の保養になる宝石が無数に並べられていて、本棚の背表紙は見慣れない言語で書かれたものばかり。


 眉をしかめ、疑い深い表情のままネルフェットはふと、ある一方の方向に意識が向かう。

 絨毯を足で踏みこみながら、ネルフェットは右側にちょこんと置いてある机に注目した。アンティークな風貌のそれは、見ただけで他の家具とは年季が違うことが分かる。

 机の正面まで来たネルフェットは、一段だけある引き出しに手を伸ばし、ガタガタと音を立てながらその中身を確認した。


 中には古びた革製の巾着が一つ入っていて、どうやら袋の厚みを察するに、そこにも何かが入っていそうだった。

 部屋に誰もいないにもかかわらず、彼はきょろきょろと辺りを気にしながら、罪悪感と葛藤しながらも巾着を手に取ってみた。

 まだ脈がどき、どきと小さく音を立てている。

 長年足を踏み入れることを避けてきたリリオラの部屋で、ネルフェットは幼い自分に赦しを請いながらぎゅっと瞼を閉じて巾着を勢いに任せて開く。

 恐る恐る目を開き、薄っすらとした眼差しで中身を瞳に映す。すると、外気を吸うなりその中身は活き活きとした緑色の光を放ちだした。


「……な、なんだ……?」


 思いがけない光彩に、後ろめたかった彼の引け目も一気にどこかへ吹き飛び、大きく目を開いて巾着の中を覗き込む。

 ネルフェットの瞳を照らす正体は、つるつるとした表面をした楕円形の石だった。緑に輝いているから、石自体がその色をしているのかと思いきや、いざ手に取ってみると本体は無色透明のようで、持ち上げてみると天井が透けて見えた。


「……なんだ、これ…………」


 大事にしまいこまれていた巾着の中身をぽかんとした様子で観察する。慎重になるばかり人差し指と親指だけで持っていた石をもう少しじっくり見ようとしたネルフェットは、そのまま反対の手の平に石を乗せてみた。

 冷たい石が手の平の熱を帯びた、その瞬間。


「うわっ!?」


 緑色の光は一層の輝きを増し、爆発したかのように部屋中を包み込む。その眩しさに、ネルフェットは思わず目を閉じ、体勢を崩して膝から床にどさりと座り込んだ。

 くらくらと脳が揺れ、思考もままならなくなっていくのを全身が脱力していくことで実感する。

 閉じた瞼を開く力もなく、ネルフェットはそのままそこでくたりと項垂れたまま、ぐるぐると目が回る渦の中へと意識が巻き込まれていった。

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