44 遊び心

 クジラの館は、街の中心部から少しだけ離れた場所にある。とはいえ、近くには博物館や公園もあり、人通りが極端に少ないわけでもない。ただ周囲とは一線を画すように館を囲う木々が長い間をかけて俗世から空間を切り離してしまったようだ。館の周りには雑草が生い茂り、誰も意図しないままに蔦が一部の窓を覆う。


 この館がクジラと呼ばれる所以となった特徴的な屋根はなだらかな丸みを描き、下から見上げると、まるで優雅に海を漂う生物のごとく空を泳いでいるようだった。

 トニアが始めて見る形の屋根に感心していると、コバルトブルーの壁が印象的な館の扉の鍵を開け、研究員たちは館の中へと入っていく。


 ピエレットに背中を押され、トニアも遅れて彼らに続いた。

 中の壁はミルキーブルーで統一されていて、その色はとても長い時間人の手を離れていたとは思えないほど汚れもない綺麗な状態だった。事前に掃除をしたとは聞いていたが、ここまで整えられるとは思えない。

 まるで何かに守られている聖域のように、この館は朽ちることを知らないようだった。


「マビリオさん。私たちは上の階から調査を進めるから、あなたは一階から調べてもらってもいいかな?」


 玄関で呆気に取られているトニアに向かって、リーダーが優しく声をかける。今にも涎が出そうなほど口が開きっぱなしになっていたトニアは、慌てて一礼して頷いた。恐らく、トニアがじっくりと見たいものを見ていけるようにと気を遣ってくれた。皆が一階に合流するまでには時間がかかる。それまでの間、トニアは周りの目を気にすることもなく建物観察に没頭できるからだ。

 リーダーは正気を取り戻したトニアに温かい目を向けると、ぴしっと手を振り、入ってすぐ正面にある階段を上がっていった。


「トニア、わたしも荷物を運びこんでから合流するね」


 今日は全員のアシスタント役として来ているピエレットは忙しなくバスの方へと駆けて行く。

 駆け足と雑談の声が遠ざかっていくと、シーンとした音が耳に聞こえてきそうになる。トニアは玄関に立ったままぐるりと身体を一周させて館の中を見回した。

 玄関と階段のあるホールの両側に続く部屋。トニアは左右を交互に見た後で、ふと大きな花瓶が目に入った右の部屋へと足を向ける。


 玄関ホールと部屋の境に置いてある花瓶には当然、何も入ってはいない。トニアは空っぽの花瓶を見下ろし、埃のないその中を訳もなくじっと見つめた。

 顔を上げ、さらに右の部屋へと進む。家具として棚がいくつか置いてはある。しかしそこにも何も置かれてはおらず、かつてここに人が住んでいた気配すら感じなかった。

 角部屋にあたり、きゅっと体の向きを変えて閉じ切られた扉に向かって歩いていった。館自体には電気は通っていないが、まだ外が明るいためか、カーテンのない窓から差し込む光で十分目が利く。今のところ、学院にある空っぽの屋敷ほどは古くもなく、一般的な家庭よりも少し裕福な家の造りであるということしか分からない。


 傷も少ないので、公開するにしてもロープなどを張って割れ物を守るだけで十分問題なさそうだ。そう思いつつも、トニアは何か新たな発見がないかを求めて茶色い木の扉を開ける。

 現れた未知の部屋には窓がなく、これまでの部屋と比べると少し薄暗かった。トニアは念のため持ってきていた懐中電灯を手に持ち、まだ明かりはつけないまま部屋を見渡す。

 この部屋の中にも目新しいものはない。強いて言えば、すっかり眠ってしまった暖炉が置いてあるくらいだ。暖炉の前には申し訳程度に椅子が置いてあり、寂しそうにこちらを向いていた。


「……この部屋には、棚、ないんだ」


 今まで見てきた部屋には必ずあった棚が見当たらず、トニアは懐中電灯の明かりをつけてみる。流石に見落としているなんてことは考えられない。しかし、共通して置いてあったものがないと、妙に気になってしまったのだ。

 強めの光が壁を照らすと、ミルキーブルーの壁に薄い灰色の線が入っていることに気づいた。よくよく見てみると、どうやら模様が描いてあるようだ。トニアは思わぬ発見に反射的に目を丸くして、ぐっと壁に近寄った。


 これまでの部屋にもあったのだろうか。鼻が壁にくっつきそうなほど近づいて、トニアは繊細な線を指先でなぞった。まるで隠し絵みたいで、トニアはふつふつと興奮を覚える。

 一体何が描かれているのか、近づきすぎたせいでそれは見えない。全景が気になってきたトニアは壁から離れ、部屋の中央で足を止めた。

 懐中電灯の明かりを調整して広範囲に光が届くようにした後で、トニアは思い切って壁全体を照らしてみた。


「…………あれ?」


 紋様のすべてが見えたトニアは思わず首を傾げる。これは紋様ではない。きちんとした絵が描かれていることに気づいたのだ。

 壁に目立たないように描かれているのは、たくさんの動物の顔。写実的で、どの動物も真っ直ぐに前を見据えている。家主は動物が好きだったのだろうか。そんなことを思いながら、トニアは一つ一つの動物の顔を端から順に見ていった。


 虎、狼、兎、鷲……。様々な動物が均等の幅で配置されるように描かれているのに、これだけ線が薄いと例え電気があったとしてもよくは見えないはずだ。動物好きだとしても、何故わざわざそのようなことをしたのだろう。それともただ、経年によって色が薄れてしまっただけかもしれない。普通ならそう思うものの、はじめ館に入った時の整備されすぎた印象が強く、トニアは真っ直ぐにその考えには至れなかった。


 猪、熊、狐、鼠、馬……。まだまだたくさんの顔が壁に浮かび上がる。壁には筆で描いたような跡も残っておらず、トニアは次第にこの壁紙の成り立ちに興味が湧いてきた。栗鼠、豚、牛……獅子。


「……獅子」


 勇敢な瞳の描かれた獅子の顔に辿り着いたところでトニアは目を留めた。


「獅子、か……」


 獅子と言えばネルフェットの話を思い出す。

 空っぽの屋敷で彼が話してくれた建物見物のちょっとした秘訣。参考書にも載っていなかったこぼれ話は、トニアにとって印象的なものだった。彼にとってはうっかりだったのかもしれない。けれど彼が初めて素のままで自分のことを話してくれた、そんな気がした瞬間だったからだ。


 もしここが王家に関係していた人間の家かを知りたかったら、獅子を探してみるといい。


 彼の言葉がついこの間のことのように蘇ってくる。獅子を飾ることが王家の特権だなんて思ってもみなかった。今もそれは継続しているのだろうか。その話を聞いたとき、トニアはふと疑問に思った。

 けれどここは少なく見積もっても二百年以上も前に建てられた館。当時、獅子はより神聖なものだった可能性の方が高い。トニアは獅子の顔を撫でるように壁に手を這わせる。


「ここの家主は、王室の関係者、だったのかな……?」


 ネルフェットの声を頼りに、トニアはそっと獅子の絵の周りをじっくりと観察した。もしかしたら彼の言った通り、この後ろに何かが隠されているかも。それを密かに期待してしまっていた。


(でも、ただの壁だしなぁ……)


 半信半疑で獅子の絵を叩いてみた。すると。


「うわぁっ!?」


 トニアが壁を叩いた拍子に、獅子の顔が壁から飛び出してきた。トニアは慌てて身を反らし、顔に獅子がぶつかることを逃れた。

 バクバクと心臓が音を立てる中、トニアは冷静になろうと息を吸い込む。壁から引き出しのように飛び出してきた獅子を見つめてみる。獅子の表情は当然変わることもなく、勇ましい瞳をこちらに向けていた。


「……し、失礼します」


 恐る恐る四角く飛び出た引き出しを引き抜いてみた。けれど、獅子の箱の中には何も入っていない。不思議に思い、トニアはもう一度、一か所が四角で欠けてしまった壁を見やる。

 懐中電灯で中を照らし、壁だと思っていた場所が棚になっていることに気づき、トニアはその中を覗き込んでみた。明かりで照らされた奥に、何やら小さな扉のようなものが見える。どうにか手を伸ばすと、ぎりぎり扉に指が引っ掛かった。どうやら横にスライドする扉のようで、トニアはそっと右に引いてみる。しかし二センチほどしか扉は動かず、そこからはどうやっても詰まってしまう。


「……はぁっ」


 伸ばし疲れた腕を一度引っ込め、獅子の引き出しを抱えたままトニアは壁にもたれかかった。ここには何かが隠されている。それは確信していた。それが建物公開の可否を揺るがすものなのかはまだ分からない。トニアは緊張しながらも、音を立てた心臓の名残りが滲み、指先が汗で湿っていった。


「よし……っ!」


 もう一度チャレンジをしてみる。ここまで手を伸ばしてしまったのだから追えるところまで追ってやる。トニアは言い得ぬ興奮に支配されながらも壁に空いた空間に腕を伸ばした。でもやはり扉は動かない。

 そこでトニアは、もしかしたら、の可能性に賭けてみることにした。前に見た異国の文献が頭をよぎったのだ。獅子の右隣に描かれている鹿の顔。そこをトンッと叩いてみた。


 トニアの目論見通り、鹿の顔は獅子の時と同じく反動で飛び出してくる。トニアは獅子の引き出しを床に置くと、鹿の引き出しをすべて引き抜き、壁にもう一つの四角い欠けを作った。

 二本の歯が抜けてしまったかのような壁に向き合い、トニアは獅子の引き出しを元あった壁へと戻そうと試みる。重みのある箱を仕舞う要領で空間に獅子を戻してみると、空気圧で鹿がいた方の空間の奥で小さな箱が動くのが見えた。

 何度か獅子の引き出しを開け閉めすると、鹿の空間には小箱が姿を現した。


「すごい……っ! 仕掛けがあったなんて」


 小さな歓声をあげ、トニアは小箱へと手を伸ばす。

 木で造られた四角くて薄い箱の中を覗くと、そこには手紙のような封筒が入っていた。まさかの発見に震える手で封筒を隅々まで観察してみると、やはり古いもののようで紙は色褪せてしまっている。宛名が書いてあるようにも見えるが、汚れもあり、読み取ることはできなかった。


 一度封を開けたようにも見えたが、実のところ、一部の糊が劣化で剥がれていただけで、はっきりと開けられた痕跡はなかった。

 まずは報告をすべき頃柄だ。だがトニアは、思いがけない仕掛けに心を奪われ、すっかり気分が上擦ってしまった。今、自分が手にしている手紙が一体何なのか、そればかりが気になってしょうがない。


 だから、まだピエレットとも合流していないというのに、彼女は興奮状態のまま古びた二枚の紙を開いたのだった。

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