42 揺れる炎

 暖炉の前に座っていると、ぱちぱちという薪と炎が奏でるささやかな掛け声に神経が研ぎ澄まされていく。瞳に映る暖かい揺らぎが眠気を誘い、拒んでいた思考が同時にぽっと浮かび上がる。

 ネルフェットは一度瞼を閉じ、いっそのこと眠ってしまおうかと意識に事の流れを任せてみた。しかし少しした後で、自然と右手が反対側の肩の方面へと上がり、身体が勝手にヴァイオリンを奏で出す。

 当然その手には何も持っていない。仕事の合間、隙間を強引に見つけては学院へと向かい、音を手に馴染ませた。まとまった時間が取れず、まだ胸を張って奏でられる自信はない。嫌な思考から逃れたいのか、彼の身体は不十分な心を満たすために無意識的に演奏の再現を望んだ。

 ネルフェットの耳には無音の曲が流れていく。理想をなぞるように、彼はその音を追いかけた。

 孤独な練習を遮ったのは、ぎぃ、と古びた扉が開く音だった。背もたれ越しに聞こえた誰かが部屋へと入ってくる足音に、ネルフェットは手を下げる。


「ネルフェット、許可をくれ」

「……許可? なんのだ」


 入ってきたのはミハウだった。扉を押した手をゆっくりと体側に戻しながら、ギシギシと床の音を立てて近づいてくる。この部屋は宮殿の中でもあまり人の来ない古い小部屋。ネルフェットは幼い頃、ここでリリオラから様々な教育を受けた。雪が降る日の二人きりでの帝王学の授業は、ネルフェットにとっては微かな火の温もりだけが思い出だった。

 ネルフェットは背もたれから顔を出し、淡白な眼差しのミハウを見上げる。


「詠唱会の招待客。王族の許可が必要だからな」

「誰を呼ぶんだ? もうリストは確認したけど」


 ミハウは内ポケットから一通の招待状を取り出す。


「トニアだよ。あの時のリストには載ってなかったはずだ。君の名で招待してくれ」

「……なんでだよ」

「言っただろ? 王族が主催なんだ。誰かの名が必要だ」


 ネルフェットは怪訝な表情をして差し出されたトニア宛の招待状を受け取った。確かに王族の誰かのサインが必要にはなる。祝祭とは異なり、こちらはより大々的な催しで、王家の威厳を示すためにもそれがしきたりとなっていた。招待客は、そのサインを見て優越感に浸ることができる。誰にとっても損のない決まり事だ。


「……いいけど……さ」


 ミハウから目を逸らし、ネルフェットは招待状に目を落とす。以前聞いたミハウの言葉が耳にこびりついて離れなかった。いくら拭き取ろうとしても、しつこいカビのように蔓延ってくる。

 ネルフェットは椅子から立ち上がり、棚の引き出しにしまってある万年筆を手に取り無造作にサインをした。招待状の上部に書いてあるトニア・マビリオの名。それが目に入ると、ネルフェットはぐっと下唇を噛む。


「はい、書いた」


 言葉少なくミハウに招待状を返すと、受け取ったミハウは黙ったままネルフェットの合わない目を見る。


「…………彼女、今度は問題起こさないかな」


 しとしとと雨が降り始めた時のような湿り気のある声だった。ネルフェットは横目で表情の読めないミハウを軽く睨みつける。恐らく彼は自分が睨みを利かせていることを意識していない。けれどミハウはその視線にニヤリと唇を歪める。


「祝祭の時は散々だったから。またやられたらたまったもんじゃない。……まぁ、彼女のことを監視していればいいんだろうけど。自由に動けないように、手綱を握っていればいい。手を引いて、抱き寄せて、少し耳元に囁けば、彼女はまた顔を真っ赤にして大人しくなるだろう。本当、見ていて飽きないよね。期待通りの反応に。このままいけば、彼女のことを操るなんて、容易いだろう。そうしたら、このふざけた紋様にも感謝してもいいかもな。なんせ、彼女を永遠に俺の自由にできるんだから」


 穏やかで嫌味のない彼の声が、ネルフェットの柔らかな感情に牙を刺しこむ。ずたずたに噛み千切られ、そのまま抜けようとしない。ネルフェットの怒りを滲ませた表情が暖炉の火の影を背負い、ミハウの前に露わになった。


「ミハウ! トニアのことを弄ぶのはやめろ! 彼女は別にお前のモノじゃない。例え紋様があろうとも、それは二人を導くだけ。彼女は彼女だ。ミハウもトニアも、誰のものでもない。誰かを支配する権利なんてないだろ!」


 地響きをつれた声が部屋中に鳴った。ミハウは涼しい顔をしてネルフェットの顔をじっと見たまま。ネルフェットは過度に冷静な彼の態度によって更に気を逆撫でられ、再び咆哮する。


「トニアはお前のこと、すごく大事に想ってるんだ! 彼女の気も知らずに、この前からおもちゃだの、手綱だの勝手なことを……! いい加減にしてくれ! トニアはお前との関係にひどく悩んでたんだぞ。だけど、ようやく、どうにか気持ちも整理できて……やっとミハウとの道を見つけたって、お前のこと……気にかけて……!」


 学院で見た、掲げた紋様を見上げるトニアの笑顔が胸に浮かぶ。ネルフェットはやるせない思いを隠さないままに表情が歪み、抑えきれない衝動で瞳は涙の気配を見せる。


「やめてくれよ! その紋様で彼女を縛らないでくれ! ミハウは……もっと……違うだろ……」


 わなわなと震える拳をぎゅっと握りしめ、ネルフェットの頭は垂れる。違う。自分の見てきたミハウはそんなことを望む人間ではない。例え自分が知らない本性があったとしても、彼の根本は決して揺らぐことはないはずだ。

 彼は誰よりも息苦しさのもたらす悲劇を知っている。意図しない金縛りのような自由が利かない恐怖の影響力を恨んできたはずだ。ネルフェットは十年前に見たミハウの横顔を思い出す。父親を奪われ、泣いてはいけないと堪え苦しむ彼の意地を。その時ネルフェットは、幼心に信じていた奇跡を捨てた。


「そんなんじゃ……トニアもお前も幸せじゃない……」


 暖炉の音に書き消えそうなほどの小さな嘆きはミハウの眉を不機嫌に歪ませた。


「驚いた。ネルフェット、お前、ちゃんとこの紋様のこと信じてるんだな」


 ミハウは自身の左手首を蔑むように見下ろした。


「逸話なんて信じないんじゃなかったのか」

「…………考えなんていくらでも変わる」


 ネルフェットは吐き捨てるように言った。正確に言えば、完全に信じているとは言い切れない。ただ自覚しているのは、以前ならばこんな出来事も即座に切り捨てていただろうということ。逸話なんてあるわけないと、ミハウの相手を探すことなんて絶対にしなかったはずだ。

 ネルフェットは心の奥底に残したままの彼女の自嘲的な控えめな恥じらいを見られたくなくて、ミハウを警戒するように瞳を鋭く光らせた。彼の潜めた稲妻を見たミハウは蝋燭のような静かな瞳を上げる。


「……それは俺にだって言える。お前は俺のことを聖人だとでも思っているのか? そんなことないだろう。私欲にまみれた人間だよ。お前は俺に幻想を見ているようだが、それはただ、お前が楽になりたいだけじゃないのか? 父親が追放された時、お前は何もできなかったことを悔やんでる。いつまでも過去の無力を引きずっている自分の精神をどうにか保とうと、自尊心を守るために俺に聖人であることを望んでるんだろ? 確かに俺は気にしてない。当時のお前に出来ることなんてなかった。でもお前と違って、俺はもう過去は捨てた。自分を縛るのはこりごりだ。だからお前にも、引きずってもらう必要なんてない。いい加減目を醒ませ……!」


 愛想を尽かした表情がネルフェットの逃げ場を容赦なく追い詰め、じりじりと詰め寄ってくる声は彼の限界まで縮こまる気管をさらに絞めつける。


「さっき、俺にトニアを支配するなと言ったな。支配される立場のお前にそんなことを言われて、説得力があると思うか? 自分を棚に上げるなよ」

「…………し、はい……? は……? 俺、が……?」


 支配する方ではなくされる方とはどういうことか。ネルフェットは曲がりなりにも王族である自分の立場を自覚していないわけではない。歴史になぞらえば、自分がどちらに振り分けられるかは明白だ。

 この部屋で、ネルフェットはそれを脳が拒否するほどまでに教え込まれた。


「なんだ。自覚がないのか。惨めだな、ネルフェット。お前がこの部屋で過ごした時間は無駄だったのか」

「…………どういう……え……?」


 ネルフェットは真っ白になる頭の中に、幼き頃の自分の声が響いてくるような気がした。たった一人で机に向かい、じっとしているのが苦痛で堪らなくても自分を律し続けた。

 半分泣きべそをかきながらペンを走らせる小さな身体の前からは、暖炉に照らされたほっそりとした影が覆う。


「ああ、そうか、なるほど。お前は弄ばれる側の人間だから分からないんだな。この中に、”自分”が生きていることすら」


 ミハウは長い人差し指をネルフェットの額すれすれまで突き出して指し示した。


「可哀想にな。その中のお前は、もう死を選んだんだ」


 指を引っ込めたミハウは招待状を内ポケットにしまうと同時に美しく憐れむ笑みをネルフェットに向け、腕を組んだ。


「トニアの気持ちは、お前よりもよく知っている。僭越はやめろ。お前に世話される謂れはない」


 ネルフェットが記憶に蘇る幼少期の幻影に囚われていると、ミハウは微かに息を吐いて目を伏せる。


「人の支配に気を向ける前に、自分を取り戻せ。ネルフェット」


 優雅に踵を返し、ミハウは床を見つめたまま茫然としているネルフェットに背を向ける。颯爽と歩き去るミハウの残した余韻が部屋の中に漂い、ネルフェットは力の抜けた指先をそっと見やった。

 暖炉の炎は少し近づくだけで顔を背けたくなるほどの熱を帯び、素っ気無いゆらめきでネルフェットのことをなおも照らし続ける。



 未だ何が起きたのか分からないまま廊下を歩くネルフェット。息吹を感じないその背中を、とんとん、と優しく叩いてみる影がある。一度じゃ気づかないのでピエレットはもう一度、今度は少し強めに叩いてみた。

 すると、意識をどこかに飛ばしてしまっている彼でも流石に気付いたらしい。陰気な眼差しで斜め後ろを舐めるように振り返り、正体がピエレットだと分かると何事もなかったかのように顔を前に戻した。


「ネルフェット、今、ちょっと話しても大丈夫?」


 ピエレットは明るい声でぴょこっと彼の腕の外側から顔を出す。構わず歩き続ける彼の速度は亀のようにゆっくりで、ピエレットはそれに歩幅を合わせるためにちらりと彼の足元を見やる。


「なに……?」


 一応の返事はしてくれた。機械のような声で、魂がこもっていなかったのだけが引っ掛かる。しかしピエレットも時間がない。早く研究室に戻りたい彼女が口を開くと、言葉が高速で飛び出ていく。


「あのさ、今度公開予定の建造物の調査に行くんだよね? 公開前に本当に問題はないかとか、保護すべき場所とか、いろんな調整のために。それでさ、同僚から聞いたんだけど、調査員が足りてないんだって? 急な予定だったみたいで、十分に確保できなかったって。だからわたし思ったんだよね。量より質だよねって。たくさんいたところで、皆が同じことばっかりしてたら意味ないし」

「……ああ」


 また空気が抜けたままの声が返ってくる。ピエレットは返事があることで、彼は話を聞いているのだと解釈した。


「でさ、その調査員としてトニアに協力してもらえばいいんじゃないかなーって思うんだけど、どうかな? 彼女ならプロに負けず劣らずの知識も持ってるし、試験も近いから、実践で目を肥やすのもありかなーって思って。最近元気ないことも多くて、勉強に集中できてないこともあったみたいだから、協力してあげたいんだ」

「ふぅん」

「ね、どう? いい? ネルフェットの許可があれば、もうわたしの方で皆には伝えておくからさ。あ、ちなみにね、もう打診はしてみたんだ。皆、それは助かるって喜んでた。だから正直、あとはネルフェットの許可だけなんだけどね」

「ああ」

「どうかなっ?」

「そうだな……」

「ね? いいよね?」

「…………」

「ネルフェット!」

「……! あ、ああ! ……い、いい。許可する」


 虚ろな目をしたまま上の空のネルフェットに痺れを切らし、ピエレットがぴしゃりと声を放つと、びっくり箱のように肩を浮かせたネルフェットは慌てて首を縦に振る。


「本当? ありがとう! じゃあ早速報告してくるね!」

「うん? ああ、頼む……?」

「任せて!」


 ぽかんとしたまま辛うじて笑うネルフェットに、ピエレットは元気よく頷いた。ネルフェットはようやくピエレットの顔をしっかりと見て、ふと疑問を口にする。


「あ、それよりさ……紋様の調査って、どうなった?」

「あー、あれね……。やっぱり、本物じゃないかなぁ? 何の手掛かりもないと言えば、ないんだけどさ。それこそが根拠になっちゃうって言うか」

「……そっか」

「なんかごめんね。はっきりとは言えなくて」

「いや、いい。気にすんな」

「とりあえず、まだ調査は続けるから。えっと、じゃあ、わたし、行くね」


 ピエレットはにっこりと嫌味なく笑い、手を振ったまま来た道を駆け戻っていった。嵐のように去って行った彼女の背中に小さく手を振り返して、ネルフェットは彼女が先ほど自分にお願いしていたことを思い出そうとする。


「…………うーん」


 心が返ってこないままにどうにか考えたが、やはり思い出せない。


「……まぁ、いっか……?」


 とうとう振り返ることを諦めたネルフェット。ピエレットであればそんな変なことは言わないだろうと彼女のことを信頼していると言えば聞こえはいい。実際にそれは間違いではないのだし。

 ただネルフェットは、それよりも心に落ちてきた異物を処理することで精一杯だった。

 いや、処理なんて格好つけたことは言えない。

 ネルフェットは廊下の先にある階段をじっと見つめる。階段の先にあるのは、昔からあまり足を踏み入れることのなかった場所。

 小さな机から顔を上げた自分のことを恭しく見下ろしていた彼女の微笑み。

 ネルフェットの脳裏には、その時返した自分の感情と笑顔が鮮やかに繰り返されていった。

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